映画『ミューズは溺れない』「映画を通して誰かを救えたら」淺雄望監督インタビュー

映画『ミューズは溺れない』「映画を通して誰かを救えたら」淺雄望監督インタビュー

2022年11月29日

足りない色、足りない部品。合わせてみたら、息できた。映画『ミューズは溺れない』淺雄望監督インタビュー

©Tiroir du Kinéma

美術を通して綴られる10代特有の殺伐とした焦燥感を描いた青春映画『ミューズは溺れない』を監督した淺雄望監督に本作の見どころや魅力、作品を通して見えてくる「性の揺らぎ」とは何かについて、お聞きした。

©️カブフィルム

—–まず、本作『ミューズは溺れない』の着想を教えて頂きますか?

淺雄監督:着想としては、少し長くなってしまいますが、大学院を卒業してすぐ位から、見る見られるの関係性とセクシャリティの揺らぎをテーマにした映画を撮りたいと思い、画家とモデルの関係性を描こうとプロットを書き始めました。

そこから、この二人がライバル関係だったら面白いと思い、モデルの子も絵を描く人だったら、お互いの関係が羨望だったり、嫉妬だったり、が産まれる間柄になると考えました。

単なる画家とモデルではなく、もっと広がりのある関係性が描けるのではないかと着想を得て、そこからシナリオを書き始めました。

書いているうちに自然と、高校生のお話になって行きました。

—–刺さるのは、刺さりますよね。10代後半特有の焦りには共感得られ易いのかな、と思います。

淺雄監督:アイデンティティのより未分化な時期は、高校生の頃なのかなと感じます。

—–中学生でも、大学生でもなく。子どもなのか、大人なのかの、その境目、中間点ですよね。

淺雄監督:急に、社会に出なきゃいけない、と言われるのが、多分高校生の頃だったと思います。

私はそう思っていますので、高校生の設定なら、より彼らの悩みを明確にできるのではないかと。

焦りや複雑な悩みになっていくのかなと、高校生の話にしようと思いました。

—–作中のセリフにおいて、「生物の進化も、科学の進化もトライ・アンド・エラー」や「思い通りの線なんて、そう簡単には引けない」という言葉たちが胸に響き耳に残りました。シナリオやセリフに関してですが、書くに当たり、気を付けていた事など、ございますか?

淺雄監督:自分の気持ちに素直になって、それをなるべくセリフに文字化していきたいという想いは、ありました。

セリフの中で上っ面な言葉は並べたくなかったんです。

だから、自分が映画を撮っている時に、思っていた苦しみや悔しさを、生の言葉として出すために、なるべく痛い所を掘り下げる意識はしていました。

だから、シナリオを書きながら、泣いていました(笑)

—–それは、単純に苦しくてですか?

淺雄監督:自分のダメなところを、登場人物たちのセリフを通して指摘したり、受け止める、みたいなことをやっていて…それは苦しかったかもしれないです。

でもたくさんの発見がありました。

今まで、自分はこれで悩んでいたのかと、自身の過去を抉りながら、セリフを絞り出して行きました。

—–とても共感できます。インディーズにおける、シナリオ作りは自分と向き合うための作業ですよね。友達からいつも、コンコンと言われています。

淺雄監督:自主映画に限らずですが、インディーズは商業のように成功する事は難しく、なぜこの作品を作ったのかなと、人は考えると思います。

私は、映画を観た時、なぜ監督は、なぜ脚本家はこの作品を作ったのかなと、理由を知りたくなってしまう所があります。

だからこそ、表面だけの事を言いたくないし、なぜこの作品を撮ったの?と聞かれた時に、嘘がないモノにしたいんです。

©️カブフィルム

—–だから、何か響くものがあるのかなと、感じました。また、主役の木崎朔子役を演じた上原実矩さんも魅了的な方でしたが、個人的には西原光役を演じた若杉凩さんの存在感が、作品をいい物にしていると感じましたが、彼女はオーディションで発掘されましたか?

淺雄監督:たまたま、(※1)ミス iDのオーディション風景の動画を見させて頂きまして、その時のオーディションで若杉凩さんが、絵を描くのが得意とおっしゃっていて、鉛筆を削りながら思っていることを率直に言う、みたいなパフォーマンスをしておられました。

その動画を偶然目にして、どうしても気になって、若杉さんに会いに行きました。

—–凄いバイタリティですね。また、若杉さんのどこに惹かれたなど、ございますか?

淺雄監督:その動画の中ではとても線が細く、見た目は少し儚げで、頼りな気な雰囲気がありました。

でも目の奥が光っていて、ものすごく芯がある人だな、とその動画で感じて、何か気になってしまいました。

西原そのままのイメージの方でしたので、私が探していたのは、「この子だ!」と。

—–監督からのオファーも断られていた可能性もありますよね?もしくは、スケジュールの都合上、出演できなかった可能性も考えると、こうしてオファーを受け入れて下さるのは、奇跡ですよね。

淺雄監督:そうですね。非常に運が良かったと、思います。

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—–本編において、気になったのは「音楽」です。SEかどうか気になりますが、言葉では表現しにくい、変わった音楽が挿入されてますよね?ノイズ・サウンドと言いますか。こちらは、音楽担当の古屋沙樹さんが、ご担当されたのでしょうか?

雄監督:古屋さんにお願いしたのは、ピアノなど、劇伴がメインでした。

朔子が、船を作っている場面で流れているドンドン、ガンガンやピコピコと鳴らしているのは、私が作りました。

—–え?音楽プロデューサーの菊地智敦さんでもなく?

淺雄監督:菊地さんには、劇伴全体の構成やプランのご相談をしていました。

ドンドン、ガンガンという音楽を試しに作ってみたんですがどうですか、という形で聴いてもらって。

菊地さんに「面白いね」と言ってもらえたので、そのまま私が作ることになりました。

それで、「サウンド・エフェクト・ビーツ」と言うのが、私の肩書きで一応、クレジットされています。

その肩書きも菊地さんが決めてくれたものなんですが、あのノイズ音楽を指しています。

—–できれば、掘り下げたい話です。どなたかと、ディスカッションして産まれたのかと思いました。

淺雄監督:ちょうど、コロナで自粛期間中に、家で一人でキーボードを買って、そこに現場で録った「ガシャン!」や「ガリガリ」と言った音をはめ込んで、入力して、リズムを刻んで、音楽を作っていきました。

—–元から作曲が、できるとかでしょうか?

淺雄監督:そういう訳ではなく、この音を出すために、キーボードを買って、初めて作り上げました。

—–ある意味、実験映画の部類に入りますね。

淺雄監督:恥ずかしながら幅広い音楽を聴いてきたわけではないので、イメージしている音楽がどういうジャンルのものなのかがわからず、参考曲も見つけられなかったので、誰かに伝えるのは難しいなと思って…。

シナリオを書いている段階から、このような構想があったので、一度、試しに作ってみようと挑戦した結果、あの音楽が産まれました。

—–サウンド・ノイズに続き、あの船の美術にも目を惹かれました。美術担当の栗田志穂さんが、非常に気になりました。

淺雄監督:栗田さんと、造形担当の笹野茂之さんのお二人で作って頂いたのですが、本当に素晴らしいものにしてくださいました。ありがたい限りです。

—–監督のイメージを伝えられたのでしょうか?

淺雄監督:かなり無茶な要求をしてしまったと思います。

ピアニカを壊して、というお芝居の流れをビジュアルに反映させる必要があったり、制作過程も結構複雑で…。

私は好き勝手に、こういうビジュアルの船をお願いします、と絵を描いたり、鱗はアルミ缶を使って欲しいとか言いたい放題でしたが、作ったお二人は大変だったと思います。

—–10代特有の焦燥感が、本作の特徴かなと思いますが、この要素は監督自身が経験した出来事など、ございますか?また、同性愛の雰囲気を纏いながらも、主人公らのキスシーンを敢えて、挿入しなかったその理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?

淺雄監督:焦燥感という観点で言えば、多分10代の時、私自身が自分で自分を孤独になるように追い詰めていた所があったりして、自己嫌悪を非常に強く抱いていました。

なかなか、友だちとのコミュニケーションも器用にできなかった時期でした。

その時にもう少しこうしておけばすごく楽になったんだろうな、と振り返りながら、シナリオを書きました。

今だから言える言葉もあると思うので、そういう言葉をセリフに落とし込んで行きました。

出来上がったシナリオを関係者に見せた時、「女の子同士の恋愛映画にしたほうが見てもらいやすいんじゃないか?」という意見がありました。

「キスシーンがないと盛り上がりに欠ける、映画にならない」とまで言われました。

それで完全に自信を失ってしまって、無理やりキスシーンを書こうと頑張ってはみたんですが、何かが違ってしまう気がして悩みました。

その時に改めて、自分がこの映画を通して何を描きたいのかを考えることができました。

もっと根源的な人間同士の愛情や欠けている者同士がお互いを埋め合う。

そういう部分を私は描きたいんだ、と。

そのことを改めて関係者に話して、納得してもらえたので、何とか私がやりたい事をやらせて頂きました。

今は、とても感謝しています。

©️カブフィルム

—–少し関係ない話かも知れないですが、自分は「男性」「女性」という「性」には囚われずに、どんな場面であっても「人」として見てもらいたいと、思っています。それが、今回の「キスシーン」を挿入するか、しないかに通じるモノがあると、感じました。

淺雄監督:まさに、同じような事を思っていて、この映画のテーマでもあり、持論な所もありますが、セクシャリティは簡単に線引きできるものではないと、思っています。

そういう風に思うきっかけが、今のお話をお聞きして通じる部分があると思って、お話します。

幼少期から、「女の子は我慢しなさい」「早く結婚して、子供を産むのが女の幸せなんだよ」と、言われる機会が重なって、女として生きる事は、物凄く苦しい事だと悲観的に考えてしまうようになりました。

高校がキリスト教の学校だったのですが、牧師の先生がいらっしゃって。

その先生に、「女であることが苦しい」というような話をしたところ、「じゃあ明日から男として生きて見るのはどう?明後日は女に戻ってもいいし。

一生揺らいで生きてもいいと思うよ。私だって揺らいでるよ」と。

自分の中になかった発想だったので驚きました。

今日は男になり、明日は女に戻る。

その先には、どっちでもない時もあってもいいと。

その「揺らぎ」というワードをもらった時に、物凄く楽になりました。

自分が囚われていた「女だから、損」「自分は男じゃないから、ダメだ」という考え方を覆す考えに救われました。

そこから派生して、「LGBTQ+」というカテゴライズがある中、カテゴライズすることで連帯できたり安心できたりすることはあるし、それ自体を否定したいという気持ちはないのですが、私自身はカテゴリーに拘る必要がないと思うようになりました。

今日はこっち。明日はこっち。と、明確に決めなくても良いと。

明確な色分けや線引きにこだわるよりもグラデーションのように日々揺らいで行けばいいんじゃないかなと言う持論を持っています。

だからこそ、この作品では、それぞれの人物がどのようなセクシャリティを持っているのか、明確にしていません。

ただ、上映が始まって、多くの感想を頂く中、「アウティング」に関するお言葉も頂いています。映画の中で、栄美が西原に「レズビアンなの?」と問うシーンがあります。

栄美は、「別に良いじゃん、誰が誰を好きでも」と続けます。

それに対し、西原が「そんな簡単に言わないでよ、わかった風に言わないでよ」と返します。

そこに朔子が現れ、西原は「私は二人とは違う」と言い心を閉ざそうとするのですが、朔子は「自分は誰も好きになった事がない」、と打ち明けます。二人は自分が知らない“好き”という気持ちを知っている。

それがうらやましい、と。このシーンは、様々な立場、考え方の人が当たり前にいる事、「わかりたい」という気持ちが時に相手を傷つけたり、負担になってしまう事を示唆した上で、セクシャリティが多様に存在するがゆえにそれぞれの立場から相手を認めることができるのではないか、という願いを込めて描きました。

でも、このシーンを見た方から、栄美の言動はあまりに配慮に欠けており、今どきこんな人は居ないのではないか、というお言葉を頂きました。

映画の撮影は2019年なのですが、公開まで3年を要してしまったことで、今の社会のムードに対して「遅れている」という印象を与えてしまうのではないかという懸念はありました。

だから公開が遅れてしまったことに非常に悔しさを感じています。

もちろん、撮影時2019年の時点でも、栄美のキャラクターは、一見すると、自分の気持ちを押し付けるある種、暴力的な印象を与えてしまうかもしれないとは思っていました。

でも、不器用な朔子と西原という二人にとっては、栄美のような人が必要なのではないか、一度は相手を傷つけてしまい分かり合えないかと思われた相手とも、わかりあえるチャンスがあるのではないか。

そういう願いのような気持ちをこめて、栄美という人物を映画に登場させたんです。

私個人としては、カミングアウトはしたい人がすればいいし、したくなければしなくていいという考えを持っています。

セクシャリティの分類に自分を当てはめることで苦しい気持ちを抱く人がいるなら、分類そのものはもっと曖昧でいいとさえ思っています。

その間を揺らぎ続けていいのではないかと思っています。

そう思っているからこそ、3人の対話シーンで、「レズビアンなの?」「別に良いじゃん、誰が誰を好きでも」と言う栄美に対して、西原は自分のセクシャリティをはっきりと言うことはしないし、朔子のセクシャリティも「“まだ”誰のことも好きなったことがない」というセリフにとどめました。

—–確かに、観客からのその指摘は十分よく分かります。監督の今お話しされた、そのお気持ちも十二分に分理解できます。ただ「アウティング」問題は、実にデリケートな部分かとお察し致します。こちらとしましては、先程もお話した通り、これからの社会を生きる者として、どう生きるかを考えた時、作品を通して男性女性という「性」に囚われずに「人としての生き方」を考えるきっかけになれればと、その点に帰着すると思います。

淺雄監督その考えにとても共感できます。

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—–あるインタビュー記事において、「心の揺らぎ」について話しておられましたね。この件は、「性」に対する猜疑心かと思いますが、今を生きる、特に若い世代は、そのような感情を抱いている方が多くいると思います。監督自身、この「揺らぎ」が作品にどう影響したと、考えられますか?

淺雄監督:私は、その「揺らぎ」という言葉をもらった時に、一生悩み続けてもいい、と悩みそのものを肯定してもらえた気がして、非常に救われましたし、自己肯定もできました。

どの時間も、大事な時間なんだと思いました。

その「揺らぎ」という言葉をもらうまでは、不安定で、苦しい状態が物凄く無駄であったり、その状況から早く脱したいと思っていました。

ただ、揺らいでいてもいいんだよと、肯定される事で、今のこの悩みも大事にして行っていいんだなと言う感覚を覚えました。悩んでいる時間や悩みそのものを、大切にしたいと思ったんです。

この映画には色々な悩みを抱えた子たちが出てきますが、悩んでる事自体が、傍から見れば、とっても魅力的なことでもあるので、映画を通して、一人一人の悩みを肯定できたらいいなと思います。

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—–劇場公開にあたっての監督のメッセージでは、「正直、私の青春は暗いものでした。自分の存在を許してくれる人はいない。」とお書きになっておられましたが、作品では学生たちを真逆に明るく描いていらっしゃる。本作は、社会の中で「生きにくさ」を感じていらっしゃる方々の心に何を残すと思いますか?

淺雄監督:私は10代、20代含め、生きる事に対してとっても息苦しいと感じていました。

生きる事が、毎日辛い。早く居なくなりたいという気持ちを、ずっと持っていました。

でも、映画を知って、映画の世界に没入する事で、自分の嫌な人生を忘れられました。

映画を撮りたいと思う事で、今まで人と関わりたくないと思っていましたが、関わらずにはおれなくなってしまったんです。

結果的に、人と関わっていたら、何となく楽しさを感じるようになりました。

映画をきっかけに救われた部分があるので、その経験を通して、何か伝えたいと思ったんです。

私は自己肯定ができなくて、苦しくて、自分の人生に絶望しかけていたんですけど、その先には、自分の想像よりも遥かにいい出会いがあったんです。

「大丈夫だよ、淺雄」と言ってくれる先輩や仲間と、映画づくりを通して出会えて、何とか生きて来られました。

『ミューズは溺れない』に出てくる人達も、決して器用な人たちではないんです。

何か欠けているような彼らが、補い合って、手と手を取り合って、何とか生きていく様を通して、観ている人があと一日、生きてみようかなと思ってくれたらこの映画を撮った意味があるというか…ほんの少しでも、あと一歩だけでも進めるような何かきっかけになればいいなと願っています。

私が映画で救われた分、今度は映画を通して誰かを救えたらいいな、と思います。おこがましいかもしれませんが。

—–最後に、本作『ミューズは溺れない』の魅力を教えて頂きますか?

淺雄監督:まずは何よりも、この映画の中で人物達が生きているというところです。

ちゃんと登場人物の時間を感じられると言いますか、言いたい事をちゃんと言っている人達が登場し、その人達がぶつかり合い、変化していきます。

映画はフィクションですが、本当にこの人達が存在しているような感覚で、自分もいち観客としてこの作品を楽しんで観てしまいます。

是非、一緒に楽しんで頂けたらいいなと、思います。

—–貴重なお話、ありがとうございました。

映画『ミューズは溺れない』は現在、大阪府のシネ・ヌーヴォにて、絶賛公開中。また、全国の劇場にて、順次上映予定。

(※1)Miss iDって?https://miss-id.jp/about(2022年11月16日)