すべての大切な人へ贈る映画『北風だったり、太陽だったり』『プレイヤーズ・トーク』森岡龍監督インタビュー
—–今回、上映される2作品『北風だったり、太陽だったり』と『プレイヤーズ・トーク』のそれぞれの制作経緯を教えて頂きますか?
森岡監督:映画『北風だったり、太陽だったり』は、一昨年の年末に僕が結婚したんですが、コロナ禍だったので、結婚報告もままならず、映画を通して結婚報告ができたらいいなという思惑があったりしました。あと、結婚って、両家のご挨拶など含め、様々な壁があったりして、ゴールまでの道のりにドラマがある事に気付かされたんです。だからこそ、結婚に纏わる物語を映画やドラマにできないかと漠然に思っていたんです。また、表舞台に立っていた方々が、あるスキャンダルや何かの失敗によって、断罪されるムードが日に日に強くなって行く事に対して、違和感がありました。もちろん罪は罪として償う必要はありますが、その先の人生をどうするのか、同業者ながらに他人事とは思えず、この問題は自分の中で考え続けなきゃいけない事だと実感していたんです。今感じている事を要素として混ぜ合わせて作り上げたのが、映画『北風だったり、太陽だったり』です。また、映画『プレイヤーズ・トーク』に関してですが、共同監督をしている半田健さんが、プロデューサーを兼ねていて、ワンシチュエーションで映画『コーヒー&シガレッツ』のような会話劇を作れないかとお話を頂き、制作した作品です。ワンシチュエーションでならとお引き受けをし、業界の変わり目やコンプライアンスがどんどん表面化して来た時期でした。その時の事象を一つ一つピックアップして、私的な感じで描けば面白いと思って制作しました。
—–映画『北風だったり、太陽だったり』は、「コロナ禍の打撃によって、長く冷たい北風に悩まされる中、監督は暖かい穏やかな太陽を求めて結婚した。」というお話がありますが、その他に、このタイトルを何か思う事はございますか?私自身は、この題名を通して、山あり谷ありの「人生」をイメージさせました。
森岡監督:まさに、「人生」そのものを表現しているつもりですが、実際、このタイトルは最初、別の作品の題名だったんです。子どもの学芸会を催す群像劇を企画していて、その作中の演目が『北風と太陽』だったんです。でも、その童話の中で、北風が悪者扱いを受けていますが、北風には北風なりの理屈があると至った時、学芸会が行き詰まってしまう物語を考えていました。その作品のタイトルが、本作の『北風だったり、太陽だったり』でした。ただ、企画が変わってしまった結果、タイトルだけを活かして、制作しました。ただ案外、それが上手にハマったんです。
—–「ロード・ムービー」も人生を表現していますので、ピッタリなタイトルかと思います。
森岡監督:予期せぬ天候にも見舞われたり、様々な事があったんですが、その出来事も含めて、人生は思い通りにいかないという事だと思うんです。登場人物の心象も含め、タイトルに落ちたかなと感じています。
—–映画『プレイヤーズ・トーク』はワンシチュエーションである一方、『北風だったり、太陽だったり』はロード・ムービーで動きがある映画かなと思います。その反対に、映画『プレイヤーズ・トーク』はワンシチュエーションの中、物語の動きが静の部分であると、比較する事もできました。この作品におけるシナリオに対する、監督の最初の印象はどうでしたか?セリフに動きがあると、感じました。
森岡監督:脚本に関して言えば、1話、3話を半田さんが書いていました。そして、僕が2話、4話を書きました。割と、半田さんがお持ちになった本は、風刺が薄らと表現されており、若い女優の悩みや若い俳優を売り込まれている映画監督の困惑を描いていました。僕が、それらの物語に毒を盛ってしまったんです。スケベなワークショップをしている設定やセリフ。また、3話に関しての業界におけるキャスティングの政治的背景が少しでもないと、フラットな作品になってしまう危惧を感じました。2話に関しては、露骨に世代によって変わり行く業界について行けないプロデューサーとのやり取りを描きました。4話は、もっと露骨に今抱えている問題をぶち撒けるつもりで書きました。ただ、ワンシチュエーションの室内で尚且つ会話劇なので、なるべく会話がウィットに富んでいたり、空間を移動できるような撮り方ができるよう工夫はしたつもりです。
—–映画『北風だったり、太陽だったり』は、ロード・ムービーを順撮りで行ったそうですが、その中でも2日目の雪の日の場面は印象的でしたが、本作を順撮りにする事によって、作品への効果はどのように発揮されたと思いますか?
森岡監督:ライブ感みたいな感覚は、順撮りでないと活かせなかったと思います。雪などの天候は、特に臨場感があると思うんです。雪が降り終わった後の残雪の景色を予め狙うと、現場的に言えば、雪を準備して、セッティングする必要があったと思います。実際に、起きた事を合気道のように受け止めながら、進んで行く事で、想像上で書いている脚本を超える瞬間があったような気がします。頭で考えていても撮れない映像、あるいはウッカリ撮れてしまった映像をどうしても入れざるを得ない。次のシークエンスや人物を通して、撮り方が変わって来ます。脚本があっても、その捉え方が少しずつ変化をもたらすライブ感が、順撮りの良さであると思いました。
—–2作品を鑑賞して比較した時、ロード・ムービーとワンシチュエーションという動の部分と静の部分の違いがある一方、2人の男の関係性が一部似ている所もあるのかなと思いますが、監督は2作品の相違点はどこにあると思いますか?
森岡監督:全く別物と思って撮影していましたが、登場する人物が皆、業界人である事が共通点ですね。どこまで行っても、僕は自分の周囲にあるものしか書けないと実感しました。その一方で、捉え方としての話ですが、映画『北風だったり、太陽だったり』は様々な物事を整理して、物語に落とし込みながら書いて行った感じがします。映画『プレイヤーズ・トーク』は、ソックリそのまま提供するようなスピード感含め、その速さ的問題に対して、調理方法が若干、違った気がします。映画『北風だったり、太陽だったり』は、しっかり煮込んで提供している作品です。一方、映画『プレイヤーズ・トーク』はそのまま刺身のように生で提供するような違いがあった気がします。
—–前菜とメインディッシュのような感じですね。これら2作品には、ある種、コロナが共通点として挙げられるのかなと思います。コロナが終息しつつある今、それでも、この影響力が今も何かしら伺える事ができると感じています。2作品を鑑賞して、今でもコロナの影響力は確かにあると実感しました。両作において、これら作品に対するコロナの影響力をどう捉えていますか?
森岡監督:実は、当時はコロナから離れたいという思いが強かったんです。コロナを直接描いたり、コロナ的要素を物語のメインとして描くのは、感覚的に違うと感じていました。ただ、コロナ禍を経験して書いている物語ですので、蓋を開けてみれば、影響は受けていると思います。映画『北風だったり、太陽だったり』に関しては、久しぶりの再会という点が、人と距離ができてしまって、久しぶりに会ってもギクシャクしてしまい、どう会話をしていいのか、分からなくなっているんです。面会室の透明な防護壁、マスクをつけた人物、政治家が語る内容に空虚を感じたり、様々なディテールにはコロナ禍を経た自分が映っていると思っています。映画『プレイヤーズ・トーク』に関しては、どちらかと言うと、PCR検査の問題が出て来ます。主人公が、とにかくイライラしている事が重要でした。本当にコロナ禍は、僕自身も非常にイライラしていた時期でした。部屋の中にこもって、何ヶ月も過ごしていると、本当にイライラするもんです。その怒っている主人公は、ソックリそのまま自身を表現してもいいのではないかと感じて撮影していました。コロナ禍で苛立っている主人公の姿を通して、映画『プレイヤーズ・トーク』では人物の苛立ちや長い長い愚痴を表現しています。その長い愚痴に関しては、平常時では出さないので、映画に対して不思議な感覚になってしまうと思うんです。それでも、とにかく何かイライラをぶつけたいと思いました。その衝動が、あの時は正しい感じがしたんです。
—–映画『北風だったり、太陽だったり』のプレス内のインタビューにて、監督は「結婚報告がメインの作品に仕上げよう。」とされたとお話していますが、その背景には映画業界における光と影、罪と罰、事件と償いと言った二項対立するそれぞれの狭間で生きる私達を表現していると感じましたが、この点を踏まえて、監督は業界に対して感じている事はございますか?
森岡監督:感じている事は多々ありますが、流れに身を委ねるしかない感じもどこかにあります。映画『北風だったり、太陽だったり』を制作する時、一番悩んだのは金井の罪をちゃんと描くかどうかだったんです。酔っ払って人を殴って、懲役4年という設定ですが、その場面の描写を掘り下げない方法を選びました。その選択をしてしまうと、多分この映画を観ていても、誰かのスキャンダルをSNSで叩く人や叩かれる人がいるような「良い/悪い」の二極化状態になってしまうと思いました。罪自体は描かない一方で、彼の周囲にいる人達がアタフタしている姿ならば、正直に、逃げずに表現できると考えました。なので、罪そのものを描くのは、止めました。業界の変化に対して、危惧を持ってはいますが、どこまで行ってしまうのかと、もう見守るしかないんです。
—–正直、いい方向に持って行こうとしていますが、現状はその先が見えてないと思っています。
森岡監督:たとえば、今は厳しい演出ができなくなっている背景がありますよね。昔は、厳しい言葉を投げて、その言葉によって、役者が焚き付けられて、踏ん張る構図があったと思います。ただ、今の若い役者さん達が、厳しい演出家や監督がいなくなってしまったら、どうやって自分の技術を磨いて行くのか、特に気になっています。
—–コロナ問題やハラスメント問題に対して、風刺を込めた作品が映画『プレイヤーズ・トーク』ですが、これらの問題は業界だけでなく、最早世界規模での問題ではないかと思います。この2作品が、世界(もしくは日本)に訴えることができるとすれば、それはなんでしょうか?
森岡監督:何が、できるでしょうか?それでも、考えを促す事はできるのでは、と思います。世界の人々に、問題提起は必ずできると思います。結局、映画『プレイヤーズ・トーク』だって、どっちがいいという問題ではないと思います。女性側から急に下ネタを言い出す事含め、窮屈になって行く社会に対して、意外と女性の方がそういうシチュエーションにウェルカムな状況もあったりする。また、SNSの問題もあります。あの作品を撮っていた当時は、コンプライアンス研修をやりさえすればいいという風潮があったと感じていました。先程お話されていたお互いの信頼関係や目の前にあるモノで、ちゃんとキャッチしなければいけない中、それがある規制やルールみたいなものが先行するがあまり、どんどん窮屈になって行ってしまう現状に対して問題になる可能性もあります。映画『プレイヤーズ・トーク』は、多少なりとも問題提起ができる作品です。
—–最後に、この2作品『北風だったり、太陽だったり』『プレイヤーズ・トーク』が、どのような道を歩んで欲しいとか、それぞれ作品に対する展望はございますか?
森岡監督:どちらとも、長く愛される作品になって欲しいと思っています。それこそ、世界という話は大袈裟ではないと思います。アメリカ映画やヨーロッパ映画、日本映画も、映画はそれ自体が世界共通言語なんです。映画には、世界や時代を超えて共通する画面の連鎖で語られる映画語という言葉があると思っています。何十年経っても、海外の人や日本の方々がこの映画を観ても、何か受け取れるモノがあったり、この当時には日本でこんな事が起きていたのかと振り返ったり、感じ取れるのが映画だと思います。本当に何十年経っても、世界中の誰かの何かになる映画になって欲しいと、切に願っています。
—–貴重なお話、ありがとうございました。
映画『北風だったり、太陽だったり』『プレイヤーズ・トーク』は現在、関西では8月5日(土)より大阪府のシアターセブン。京都府のアップリンク京都でも公開中。