映画『餓鬼が笑う』「現世を「地獄」と」平波亘監督インタビュー

映画『餓鬼が笑う』「現世を「地獄」と」平波亘監督インタビュー

2023年2月8日

懐かしい匂いに誘われ、自分を取り戻す旅に出る映画『餓鬼が笑う』平波亘監督インタビュー

©Tiroir du Kinéma

©️OOEDO FILMS

©️OOEDO FILMS

—–本作『餓鬼が笑う』の製作経緯を教えて頂きますか?

平波監督:この作品の企画兼共同脚本を担当された、普段は古美術商を営んでいらっしゃる大江戸康さんという、50歳を過ぎてから映画製作に興味を持ち始めた方がおられます。

その方と僕が出会ったのは、山本政志監督の作品『脳天パラダイス』の現場で演出部として入っていた時に、出資者として大江戸さんが関わっていました。

その撮影の半年後、大江戸さんから脚本を読んで欲しいと、連絡を頂きました。

それが本作『餓鬼が笑う』の原型となった脚本でした。

その段階から、骨董屋を志す青年が、競り市場を境に山を彷徨うというストーリーラインは存在していたんです。

最初に読んだ感想ですが、まず、主人公が古美術商を目指す設定が、多分、自分の中では一生産まれない導入だと思いました。

また、大江戸さんの独特な文体には、脚本というより近代小説を読んでいるような感じを受け、予算を度外視するような荒唐無稽で破天荒な物語が、展開されていました。

大江戸さんからこの脚本の監督をしてみないかと持ち掛けられて、この突飛な物語を映画化することに対して、もちろん躊躇はありましたが、普段、映画の仕事をしていてどうしても現実的な部分に傾きがちな発想を吹き飛ばす可能性を感じたんです。

僕は大江戸さんのシナリオを基に、僕なりに書き直させて欲しいとお願いした所から、本作の製作が始まりました。

それがちょうどコロナが世の中を蔓延し始めた頃でして、脚本を渡された日が、最初の緊急事態宣言が発令された日だった事を、よく覚えています。

どん底の状況から這い上がろうとする主人公の姿が、映画という表現でこの現実にどう立ち向かって行くのかという当時の自分の心境に重ね合わせ、このお話をお引き受けしたのが最初でした。

©️OOEDO FILMS

—–脚本も執筆されておられますが、この脚本が出来上がった時、客観的に見て、監督自身、このシナリオに関して、どのように感じられましたか?

平波監督:大江戸さんから初稿を渡されてから、約1年掛けて、脚本を修正していく作業をしました。

最終稿までの間、自分なりに加筆したり、削ったりした要素はたくさんありました。

記憶を巡る恋愛要素や人生をやり直す物語は、様々な展開があり、登場人物も多く、色んなシチュエーションが入り乱れる中、複雑な構成にはなっていますが、描かれる人間の芯は通っていると思います。

脚本が最終稿においてゴーサインを出せたのは、先程申し上げた通り、今を生きる人達にとって、どん底から這い上がる力や発想に辿り着けているのかどうかでした。

—–「どん底から這い上がる」というキーワードは、まさに「今」を表現していると、感じることができますね。コロナ禍になって以降、世界は「どん底」を味わいながら、何とかして、這い上がろうとしている世の中かなと、考えてしまいます。その感性が、今に対してタイムリーかなと。

平波監督:骨董や記憶を扱う点で言えば、今回の物語において時代設定も特定しませんでした。

常に作品の中でノスタルジーな雰囲気を失いたくなくて、小道具としてスマホなどを登場させない拘りもあったり。

そう言った物語が、今の観客の方に受け入れられるのかどうかという不安はもちろんありましたが、それはそれで、僕自身は新しい価値観として、この映画を提示できるのではないかと言う前向きな思いはありました。

©️OOEDO FILMS

—–タイトルは『餓鬼が笑う』ですが、お調べした結果、その「餓鬼」には二通りの意味合いがありますが、本作の場合は、どういう意図として、この言葉「餓鬼」を選びましたか?

平波監督:元々「人の贓物を喰らう」という妖怪的な要素の「餓鬼」は、大江戸さんが書かれた初期の脚本から登場していました。

最初は多分、物語の特殊な部分を担うひとつの要素に過ぎなかったんです。

ただ、どん底から這い上がる、またどん底にいる私たち人間こそが、実は「餓鬼」なのではないかと言う発想は、自分の中で脚本を書きながら、ずっと考えていました。

作中に登場する「夜光虫」と名乗る少年たちは現代の街に巣食う「ガキ=餓鬼」として描いたり、そういう要素もありつつ、実際は、この映画の登場人物の全員が「餓鬼」なのではと、揶揄も込めています。

(※1)ZAZEN BOYSの「自問自答」という楽曲がありますが、その曲の歌詞の中には、「ガキが笑う」という非常に印象的なフレーズがあったのを思い出して、命名することに決めました。

「笑う」という事が、作中において、大きな意味を持つんじゃないかなと、考えています。

この映画には、様々な笑いが存在しています。

ポジティブな事も、ネガティブな事も、ふとした時に、極限状態だからこそ、つい笑ってしまう瞬間に、色んな意味での人間が持つタフさや我慢強さから生まれる可能性を信じたいと、僕の中では希望を込めたタイトルになっているんです。

結果的に、客観視したら、おどろおどろしい雰囲気にはなっていますが…(笑)

—–「鬼」が付くと、ついネガティブな連想をしてしまいそうですが…(笑)それでも、本編を通して観た時に、このタイトル含め、意味合いや雰囲気に対する視点は変わって来ると感じます。

平波監督:この映画を観た後に「不思議な爽快感がある」という感想をたくさんの方から言って頂けています。

最初にこの作品の初稿を読んだ時のタイトルが「弱い光」だったのですが、それはまだちっぽけな主人公の存在そのものを指していたんです。

非常に文学性があって引き付ける言葉ではありますが、映画のタイトルとしてはもっとインパクが強い方が良いのではないかということで、今の題名に落ち着きました。

—-先程、「笑う」には、プラスとマイナスの要素があるとおっしゃりましたが、例えば、具体的にお話することは可能でしょうか?

平波監督:「笑う」を字面だけで捉えてしまうと、楽しくて笑う意味が大きいかと思います。

その反面、この物語の中で主人公の青年は全く笑えていないんですが、だからこそ鴨志田国男を演じる萩原聖人さんとの最後のやり取りの中、笑った時の主人公の表情が、僕の中でのすべてなんです。

あのラストは、世の中の何もかもに対してある意味どうでも良くなっている状況ではあるのでそれがいわゆる呆れ笑いでもあるんですが、様々な危機的状況を乗り越えてきた主人公だからこそ、ようやく心から笑えたんじゃないのなと。

国男が言うセリフ「苦しいからこそ、笑え」こそが、この作品が放つメッセージではないかと。

ある意味無責任にも聞こえてしまうかもしれませんが、今の時代だからこそ、こういう言葉が少しでも響いて頂けたらと、切に願っています。

©️OOEDO FILMS

—–作中では、カラライズされた場面と、またその反対に、モノクロに近い、色のトーンを落としている場面がありますが、この色が薄い映像には、視覚的な面も含め、どのような狙いで演出をされましたか?

平波監督:もちろんその世界が、この世なのか、あの世なのか、はたまた、両者の境界線なのか、色々考察できると思うんです。

僕の中では常に「境界線」という意識を持って演出をしました。

元々、競り市場が夜に終わるので、主人公は夜の山を彷徨う設定にはなってしまうのですが、この作品の製作予算規模で考えた時、夜の山で撮影することが現実的には厳しいということは経験上、最初から分かっていました。

なので早い段階から、カメラマンとは相談をして、どのような表現が一番この映画にしっくり来るのか考えたんです。

脚本の段階から「境界線」の映像表現が、チープな表現になってしまう危険性は感じていました。

悪い意味で、他の場面とトーンが違って浮いてしまうのは、一番避けたかった事でもあります。

そんな中、撮影監督が、カメラに通常入っているフィルターを抜く映像表現方法を提案してくれて、テスト撮影もした結果、この世とあの世の境目を表現できるのではないかと、僕なりに発見することができました。

©️OOEDO FILMS

—–先程もお話されていましたが、骨董屋を夢見る若者がいる設定が、自分の中で少し違和感や疑問を感じました。今時、古美術商を目指す青年が、果たしているのかどうか…。そういう点を踏まえて、本作における「骨董屋」や「骨董品」を作品のキーワードにするエッセンスとは一体、何でしょうか?

平波監督:この物語を最初に受け取った時から、骨董屋が主人公という設定に対して、どう飲み込んで咀嚼していくのかというのは、自分自身の課題でした。

そういう意味ではこのストーリーを、ある種の別次元の物語に落とし込むしかないと思ったのは正直な所です。

物語というものは従来、大なり小なり観客との距離というものが存在すると思うんですが、大体の物語はその距離を如何にして縮めていけるかどうかだと思うんです。

ただ、今回に関してはお客さんがこの映画に対して客観性を持つことを恐れない、という選択肢を取りました。

それが自分に課した命題でもあります。

ただひたすら、観客の方々は骨董屋を目指す主人公の七転八倒の物語を辿っていく、安易な感情移入を求めるという訳ではなく、ただただ過酷な運命を辿っていく主人公の物語を笑って欲しいのです。

骨董屋の青年という設定を足掛かりにした物語を書き進めていくことによって、自分の中で芽生えた要素としては、「記憶」なんです。

その要素を取り入れることによって、ノスタルジックなものに惹かれながら生きてきて、記憶や思い出を非常に大切にしようとする主人公という人物像が、自分の中で出来上がって来ました。

その反面、山谷花純さん演じるヒロインの佳奈は、「私は、忘れることが悪いとは思えない。」と、ある種、逆の価値観を持っています。

ヒロインを恋愛の相手としてだけでなく、対極の価値観を持った存在として主人公と対峙させることができれば、この映画を自分の目指すものに近づけることができるのではないかと考えました。

©️OOEDO FILMS

—–プレスにて、平波監督は、「餓鬼とは、こんな時代に生きながらも、常に満たされない私たち自身かもしれない」と仰っておられますが、私たちの中に眠る「餓鬼」という存在が、作品にどう影響を与えていると思われますか?

平波監督:「餓鬼」と言うと、一見ネガティブな要素として捉えられがちですよね。

先ほども人間そのものを「餓鬼」と揶揄したと申し上げましたが、僕は映画を作る上で、そこに出てくる登場人物を誰一人として、否定したくないんです。

僕自身の考えとしては、この混沌の時代を生き抜いて行くために、「餓鬼」と言われる欲望が、本当に必要な時もある思っています。

誰もが生きたいと願い、食べたいと願う根源的な欲望はありますよね。

そのためのある種のタフさは必要ですが、それ以上に、狡猾さやずる賢さといったネガティブに捉えがちな言葉も肯定して、どん底から這い上がるエネルギーに変えて行こうとする、強い想いはありました。

でも、それはある意味「強くないと生き残れない」というマッチョな思想になってしまうかもしれない。

そこに反発するように主人公の大は、いつまで経っても踏み出せないで、過去にばかり囚われてばかりな男ではあるのですが、それでも彼の中の、脆弱であり、臆病でもある、その人間らしさを信じたいと思っています。

そういう意味では、「餓鬼」でもある、「ガキ」でもある、結局は生きていくための大事な事を描きたいと思った時に発想したのが、この言葉でした。

—–生きていく上で、大切な事とは…。

平波監督:それが、「餓鬼」的な精神なのではと思っています。

そうした中で、出た結論などを、頭ごなしに、否定したくないですよね。

如何に、ネガティブであったとしても、卑怯だったとしても、生きて行くのが大変な時代ですが、生き抜くための処世術や気の持ちようが、時代に応じて変化して行くものだと思っています。

そういう面では、「餓鬼」的な思想に対して、否定はしません。自分はいつだって強くありたいと思っています。

かと言えば、弱い自分という存在もまた、自分で自分を否定してはいけないと思うんです。

©️OOEDO FILMS

—–映画の公式ホームページでも、「本来、私たちが思う地獄より、この世に存在する地獄の方が恐ろしい」と言う事ですが、本作でのこの世の「地獄」とは、何を示唆しておられますか?

平波監督:それはやはり、山から帰って来た主人公に降り掛かる状況ですね。

人間が欲望のままに生きてしまったら、踏みとどまるための心のブレーキが無くなってしまったら、そんな人が人を平気で傷付けるような世界が、一番地獄では無いでしょうか?

もう20年以上前の話ですが、ただ映画が好きだったあの頃の僕が、9.11の映像を観た時に、人間の底知れない悪意に対して、絶望だけでなく、人間がこんなにも恐ろしい事を引き起こせるんだという可能性というものを感じてしまいました。

可能性と言えば聞こえは良いですが、あの悪のパワーを真逆に利用すれば、もっと素晴らしい世界が拡がる可能性を人間は誰もが秘めているのではないかと思ったんです。

それが自分が映画という表現を志すきっかけになった事ではあります。

結局、この世界では、未だに戦争もしていますよね。コロナ禍の時代になり、現世を「地獄」と言い切ってしまうと単純かもしれないですが…。

—–最後に、映画『餓鬼が笑う』の魅力を教えて頂きますか?

平波監督: 東京で昨年末から上映して来て、観ていただいた方の感想が、面白いくらいにすべて違うんです。

どんな作品でも受け取り方は様々だとは思うのですが、賛も否も含めて、こういう観た人のなかで解釈が拡がっていく作品を作りたかったんだと、思いました。

主人公が置かれている絶望的な状況の中、それがどう希望に反転して行くのか、一種の客観的な「物語」として、観て頂いてもいいんです。

ひたすら、映像と展開に振り回されて観てもらうのも、楽しいかと思います。

自由な企画ではありましたが、そこに表現の自由さや、僕らスタッフやキャストが込めた映画に対する愛情を感じて頂けたらと思いつつ。

自分なりに大切な記憶や思い出の要素も孕ませつつ、ただただ純粋に楽しめる娯楽作品として作ったので、是非劇場の大スクリーンで楽しんで頂けたらと、願っています。

—–貴重なお話、ありがとうございました。

©️OOEDO FILMS

映画『餓鬼が笑う』は現在、関西では2月3日(金)より京都府の京都みなみ会館。2月4日(土)より大阪府のシネ・ヌーヴォ、兵庫県の元町映画館にて上映中。また、全国の劇場にて、順次公開予定。

(※1)ZAZEN BOYSの「自問自答」https://youtu.be/vjWFAMpLFrI(2022年2月2日)