ドキュメンタリー映画『シネマスコーレを解剖する。~コロナなんかぶっ飛ばせ~』「映画が如何に面白いかを知ってもらうか」坪井篤史副支配人独占ロングインタビュー

ドキュメンタリー映画『シネマスコーレを解剖する。~コロナなんかぶっ飛ばせ~』「映画が如何に面白いかを知ってもらうか」坪井篤史副支配人独占ロングインタビュー

2022年7月16日

坪井篤史副支配人が仕掛ける独創的なイベントが目玉のシネマスコーレにライトを当てたドキュメンタリー映画『シネマスコーレを解剖する。~コロナなんかぶっ飛ばせ~』坪井篤史副支配人独占ロングインタビュー

©メ〜テレ

—–まず初めに、坪井副支配人は、映画館シネマスコーレに籍を置かれて20年ほどですが、劇場の副支配人になられた、または映画館にお勤めになれらた経緯を教えて頂きますか?

坪井副支配人:僕自身はちょうど、大学の四回生の時ですね。それまでも、シネコンでアルバイトをしておりました。

大学四回で中退してしまうんですが、その時にずっと働いていたシネコンの方から、社員にならないかと、お話を頂きました。シネコンでの映画との関わり方が、自分が思っている映画との関わり方と、だいぶかけ離れていると気が付きました。

映画を「商品」として扱っているのが間違いではないですが、あまり作品には感情を入れない。とにかく、「商品」としてお客さんに提供していくことが、シネコンとしての考え方だったんです。

少し迷っておりました。

実は、自分が住んでいる名古屋に老舗のミニシアターが、二つあります。

そのうちの一つが、ここシネマスコーレと、もう一つが今池にある一年先輩の名古屋シネマテークさんです。

当時、この二つの劇場が求人を出していることは存じておりましたが、ダメ元で「お金はいらないので、働かせて頂いたい」と、自分からシネマスコーレに足を運びました。

当時の先輩スタッフが、支配人に話しておくと言って頂き、支配人からすれば無給で働いてくれる人が来てくれるのは有難いので、すぐに働かしたいという話から、現在20年が経ちました。

—–凄いバイタリティですね。

坪井副支配人:シネコンで働きながら、空き時間を有効活用して、ボランティアのような感じで働き始めました。

ミニシアターという場所は結局、いつでも人が足りておりません。

今でも常に人材は不足している状態なので、チラシ配りをしてくれる学生や、企画やイベントをする時に手伝ってくださる方は、大変貴重な存在なんです。

そういう状態を知っていた訳ではありませんが、おそらく映画に一番近い場所で働けるのは、ミニシアターという印象が、自分の中でありました。

映画の宣伝の仕方も違いますし、ポスター1枚貼る場所でも全然、違う感覚がありました。

仕事は、ポスターを貼らせて頂く仕事だけでも、チラシを折るだけの仕事でも何でも良かったんです。

自分としては何が何でも、ミニシアターで手伝いたいと思っていました。

結局、ボランティアのつもりで初めて劇場側としてシネマスコーレに行った時に、支配人含む他のスタッフさんの方々から、「平日はシネコンで働き、土日はシネマスコーレにおいでよ」と言ってもらえたんです。

土日は普通にシネマスコーレでアルバイト、平日はずっとシネコンでアルバイトという二足の草鞋状態でした。

やはり、そういう中で、温度差を感じてしまいまして、自分が行きたい場所は完全にミニシアターでした。

土日がこんなに満たされるのに、月から金までいる場所は、同じ映画館にも関わらず、実際まったく満たされなかったんです。

それで、働き出して一週間ほどで、支配人に「もし良ければ、シネコンを辞めて、シネマスコーレで働きたいです。」とお願いしました。

ちょうどその時、アジア映画のブームが到来している時期でした。

当時、アジア映画のグッズを売るお店がありました。

そのお店が、ちょうど人が足りてないので、週末はシネマスコーレ、平日はグッズ販売店の店長をしてみないかと言って頂きました。

そのお店は、映画館の前にありましたので、常に劇場と連動して、様々な企画ができました。

あとは支配人に直談判して、持ち込みでイベントを行う時もありました。

数年間、土日は劇場、平日はグッズ販売のお店の店長の兼任でした。

アジア映画ブームが終わる2006年頃、人手不足も相まって、劇場運営のスタッフとして呼んで頂きました。

その時から、ずっと今のスタイルで働いております。

©メ〜テレ

—–お答えできる範囲で構いませんが、シネマスコーレでの副支配人としての坪井さんの主な業務を教えて頂きますか?

坪井副支配人:ほぼ全般を任されておりますが、自分だけの仕事と言うよりも、捥り、掃除、映写の基本的な事から、番組のブッキング、ゲストのアテンド、やってないことはないんじゃないかと言うぐらい、ほとんどの仕事をこなしております。

それがシネマスコーレの仕事量かと思います。

その中で、プラスアルファの仕事としてしているのが、配給会社を通さずに、 直談判で上映して欲しいと来られる、インディペンデントでご活躍されている映画監督さんや、出演者の方々の作品をブッキングし、番組編成をしていく仕事や、企画上映も仕事としてしております。

どこのミニシアターでもそうですが、どこにも属していない強みが単館系です。

大手だと、大手の作品を上映する必要がありますが、ミニシアターのいい所は、独自性を発揮できるので、常に自分たちがやりたいプログラムを組める場所でもあります。

僕自身、企画を押していかないとミニシアターは、残れないと思っており、ただ上映しているだけでは、シネコンと変わらないと思うんです。

シネマスコーレでしかやれない企画をやることが、運営していく中で、最も重要なことだと思います。

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—–誰もマネできない事ですが、坪井さんがシネマスコーレの企画において、率先して観客と一体となって、劇場を盛り上げようとしていらっしゃる姿。その原動力は、何でしょうか?

坪井副支配人:多分、どのミニシアターの方も同じ事を考えるかも知れませんが、自分が強く思っていることは、映画を観に来てくれた観客の方に、その作品を観ましたと言えるのは、誰にでも言えることです。

例えば、シネコンでもそうですが、新作を観ましたとスラッと言えますが、今の問題点は、その作品をどこで観たのか、分からなくなってしまっているのです。

シネコンなので、どこどこの映画館で観たと言うよりも、観た作品だけを記憶として残ればいいと思うんです。

どこどこの映画館で観たという概念は存在せず、劇場そのものの記憶が人々の中で朧気な状態なんです。

映画館で映画を観た事が、重要になってくるんです。

僕自身はその考え方に対して、少し懐疑的です。

映画には、前後左右の記憶があると思います。

例えば、映画を観る前の記憶から観た後の記憶までを体験として残さないと、劇場は残っていかないと思います。

では、劇場関係者として何ができるかと申し上げますと、全国でヒットしたある作品に対して、「シネマスコーレ」で観たと言ってもらわないと、僕らは商業には勝てません。

そのためには、イベント含め、お客様の記憶にどれだけ、劇場としての思い出を残せるのかが、大きな課題になっており、キーポイントなんです。

どこでも上映している作品ではない映画をミニシアターはかけておりますが、もしつまらない映画を、シネマスコーレで鑑賞したと言ってもらえたら、それで御の字なんです。

何か人に記憶を残せるような劇場にしていく必要が、あります。

面白い企画やトークイベントが、記憶として残って行くことで、同時に劇場という存在も残っていくと思います。

ここでしかできない事をやって行くことが、ひとつの目標です。

自分の中のテーマでもありましたが、やはり東京にも、大阪にもたくさんのミニシアターがあります。

名古屋にもあることはありますが、東京と大阪をメインに考えられていた時代がありました。

名古屋には昔、「名古屋飛ばし」という言葉があるほど、東京と大阪にしか注目されておらず、名古屋はどうしても、飛ばされる時期が幾らかありました。

僕自身、それが引っかかるところがありまして、名古屋で一番面白い劇場を作り、ここで止めてやると思いました。

全国で一番になるつもりはありませんが、名古屋で一番面白い劇場があり、監督たちや役者の方々が、そこで特別な事をしているという事に、東京や大阪のファンの方々に気付いてもらえたら、と願っております。

名古屋でオンリーワンの体験をして頂くことが、今の活動の原動力に繋がっていると思います。

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—–少し踏み込んだ話になるかも知れませんが、コロナ禍で劇場の運営が危ぶまれる中、坪井さんは苦渋の選択を迫られておられましたよね。20年お勤めになって、映画愛に溢れた坪井さんが劇場業務から離れようとしていた当時のご心境を、話せるところまでで構いません、お聞かせ頂きますか?

坪井副支配人:やはり一つには、見えなくなってしまったんです。

どこの職種の方も同じと思います。映画もまた、コロナが原因で未来がないのではなく、今自分が務めている劇場に未来を想像できなくなってしまったんです。

その原因は、先程お話したオンリーワンの体験をしてもらうために、映画館業務に勤しんで来たことに、今までのような熱意を入れることができなくなってしまったんです。

冷めたつもりはなく、通常業務を行う自分はいますが、心のどこかが満たされない状況だったんです。

もちろん、コロナ禍が原因でもあり、劇場にも多くの制限が掛けられました。

今はもう慣れたと思いますが、あの時は慣れようと思えば慣れたと思えたのに、その時の環境になかなか慣れなかったんです。

企画やトークイベントがすべて、開催しづらくなってしまいました。

それがちょうど、2020年の秋頃でした。

そのような気持ちが起きた時に、映写機が壊れてしまう事態が起きました。

心臓部の映写機が壊れて、自身の中でペースが崩れてしまったような気がしました。

不幸が、より不幸になってしまいますと、更に深い不幸が起きることを、その時実感しました。

コロナ禍でお客様も足を運ばない劇場で、更に映写機が壊れてしまうのは、外部の力で「止めろ」と言われているような感じになってしまいました。

当然、映写機は機械ですので修理できますが、新しい映写機を目の当たりにしても、自分には魅力的に感じられませんでした。

多分、壊れた時のショックが大きすぎたんです。

映画が上映できる以上に、壊れた時のショックが尾を引くほど、大きかったんです。

そのうち、企画していた映画やイベントにお客様が、戻りつつある中、自分の中の満足度は低いままだったんです。

その上、お客様の満足度が低いのかも知れないと、勝手に想像している自分もいました。

どんどん負のスパイラルに入って行き、もしこのまま続けて行くと、誰かに迷惑かけるぐらいなら、一旦辞めた方がいいのではないかと思い始めました。

家族にも相談して、退職を決意しました。

ただ、唐突に辞めると伝えるのではなく、関係者皆さんに納得のいく説明をする必要があると感じました。

納得してもらえる話ができないのなら、退職そのものも考え直す必要がありました。

ちょうど2021年の1月頃でした。その時、2021年から2022年の1年の間に、何ができるのだろうかと模索しながら、以前と同じ情熱を取り戻せるなら、続けて行ける決意も生まれると思いました。

もし、このまま低空飛行で、更に気持ちが落ちてしまうような事があれば、退職をも辞さない気持ちでいました。

そして、2021年の1年間は、続けてみました。未だに、誰かに「このままずっと、いますよね。」と聞かれたり、「シネマスコーレ大好きですよね。」と言われた時に、素直に返事できない自分もいるんです。

なぜなら、自分がここに居たいという気持ちを奮い立たせれば、居続けたい感情が生まれるだろうと。

模索しながら、考えております。

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—–離職も考え、映画館業務から気持ちが離れていく中、シネマスコーレをご退職されずに、残ろうとしている坪井さんの強い意志を感じます。坪井さんに、何がそう後押しさせているのでしょうか?

坪井副支配人:コロナ禍で考案した新しい企画の成功率を目の当たりにして、自分にはまだまだやれることが、たくさんあると確信したんです。

一番大きい存在は、映画監督達や俳優さんです。

自分が繋がって来た大切な方々です。

気持ちが塞がり、不安定な事を考えていても、シネマスコーレで何か面白い事をしようと、声をかけて下さるんです。

その声に応えたいと思う自分がいるのも、正直な想いです。

やはり、行動をしないと、製作サイドの発表する場は、失われてしまいます。

当然、ミニシアターとして、自身がパイプとして、若い監督からベテラン監督たちまでの想いを繋げていく場所ではないかと感じつつ、本当は限界を感じていました。

かなり気持ちが折れてしまっておりましたが、声をかけて下さる方々が、シネマスコーレや自分を介して、活動したいと望んでいると、再確認できるのも非常に大きかったです。

自分が居なくても、シネマスコーレは大丈夫なんです。

でも自分がいるからこそ、ここと関わりたいと言って下さる監督たちがいるという存在は、とても大きいです。

それに、若手の監督たちの頑張る姿を見て、この劇場である種の経験をして頂けると、実感しております。

そんな彼らの姿を見て、自分を奮い起こさせ、再度昔と同じように面白い事ができるのではないかと思っております。

この部分に後ろ髪を引かれたのではないかと、今は思います。

—–まだまだ「可能性」を感じますね。緊急事態宣言を解除後に、坪井さん自身、営業再開ではなく、劇場の再オープンと仰っておられますが、その時のお気持ちや、具体的な劇場運営についてのお考えは、ございますか?

坪井副支配人:とにかく、新しい方に来て欲しいという想いがあり、シネマスコーレとしての第2のステージという部分は、ありました。

最初は若い方に来て欲しいという考えでしたが、やはりしっかり考えたら、年齢関係なくミニシアターの事は知らないのが現実です。

その方々の多くを取り入れる必要であったり、その人たちに合わせた上映ができるか、ですよね。

緊急事態宣言が開けた時に、色々考えました。

ただ、正直な気持ちを言えば、新装開店と言ってから、果たせるチャンスが来たと感じるまで、2年かかりました。

その数年の間に、辞めたいと思った時もありました。

何をやっても、どれだけ魅力的な作品を上映しても、人は来なかったんです。

それはコロナのせいとして、片付けられるかも知れませんが、そうはしたくありませんでした。

どこでも同じ状況です。第2のシネマスコーレと言って、オープンしたにも関わらず、2年間は本当に、試行錯誤の期間でした。

あの時からちょうど2年が経ち、3年目に突入し、作品に対して再度興味を持って下さる方がおられて、続けて行きたいと思えるように、やっとなれました。

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—–坪井さんにとって、映画館「シネマスコーレ」とは、どういう存在でしょうか?

坪井副支配人:公言すると支配人に怒られるかも知れませんが、「命」そのものなんです。

映画も、映画館も、人生そのものという言葉をよく使っておりましたが、今はその時以上に価値観が変わってきており、恐らくシネマスコーレという存在は、ライフラインです。

もし劇場が止まってしまったら、僕自身も終わるんだろうなって、よく理解できております。

やはり、危ない橋も渡っておりますし、落ち込む事があっても、心臓が止まってない限り、多分まだ何かできると分かってきているので命そのものなんです。

自分の何もかもを動かしてくれているのが、映画、映画館なんです。

初めの頃は、それに人生を賭けておりましたが、今は命を賭けて、映画館の灯を守り続けたいと思っております。

今後も色々な障壁はあると思いますが、自分にとっての「命」であるシネマスコーレを運営して行けたらと思っております。

©メ〜テレ

—–現在の映画文化を100年先、残していくには何をどうして行けば、よろしいでしょうか?

坪井副支配人:恐らく、映画に興味のない若い方々に、映画が如何に面白いかを知ってもらうかですね。

既に映画を知っている方々は、自分たちで動いていきます。

今なら、自分で調べれば、すぐ情報は入ってくる時代です。

よく支配人は配信のことを気にしておられますが、僕としては配信は気にしておりません。

それは、映画産業をしっかりと支えてくれている一面は、十分にあると思います。

それを観れている人は良いと思いますが、そこまで至ってない方々も恐らく、世の中にたくさんおられると思います。

その方々を映画好きに、如何に染められるかが、100年後に映画を残していく「鍵」だと思います。

配信か、映画館か、と言われますが、今始まった訳ではありません。

両立しても、配信で観ていた方が、年に一回、映画館に来るようになってくれたら、それはそれで御の字です。

そこが上手に噛み合えば、映像文化としても、映画館文化としても、生き残れると思います。

でも、映画館を利用している方々も、配信を利用するかも知れない。

それが今の時代だと思いますので、とにかく何よりも映画が面白いという事を、ゼロの方々に示せるかどうかで、100年後消滅しているか、残っているかだと、思います。

—–本作『シネマスコーレを解剖する。~コロナなんかぶっ飛ばせ~』の魅力を教えて下さい。

坪井副支配人:正直な事を言ってしまうと、誰が観るドキュメンタリーなんだろうと思ってしまいます。

要するに、地方の劇場の、ある期間のお話ですよね。

ただ僕としては、どこまで魅力を伝えられるか分かりませんが、名古屋にこんな映画館があると知ってもらえる窓口になると思います。

今足を運んでいるミニシアター以外にも、名古屋にもこんな面白い映画館がある、と知って頂けらと思います。

映画を観て頂きまして、面白いと感じた方は来て頂けるかも知れません。

映画館の名前が、作品の題名になっている事が魅力であり、覚えてもらえる一歩かと思います。

あとは、名物支配人がおられることも含めて、若松孝二監督が設立した劇場だと、全国から知ってもらえたらと。

最後は、興行側の仕事として、足を運んで頂きましたら、唯一無二の映像体験をご提供させて頂きます。

—–貴重なお話、ありがとうございました。

©メ〜テレ

映画『シネマスコーレを解剖する。~コロナなんかぶっ飛ばせ~』は、7月15日(金)より京都府の京都みなみ会館、7月16日(土)より大阪府のシネ・ヌーヴォ、兵庫県の元町映画館にて上映開始。また、全国の劇場でも、順次公開予定。