立ち上がれシンデレラ。映画『シンデレラガール』緒方貴臣監督インタビュー
—–まず、映画『シンデレラガール』の制作経緯を教えて頂けますか?
緒方監督:今から7、8年前に遡りますが、SNSで偶然見つけた一枚の写真が、本作制作へのきっかけになります。その写真には、外国人の女性が義足を付けて、歩いている姿を撮ったものでした。一目見てかっこいいと思ったんですが、同時に、僕は義足や車椅子には身体的な不自由さを補うための道具としてしか考えていなかったので、オシャレとは縁遠いものと、自身の中に思い込みがあったと、気付かされたんです。その気づきを原動力にして、映画化できないかという思いに至りました。
—–実は、緒方監督の作品は、前作『飢えたライオン』を観客として鑑賞させて頂きましたが、その時と打って変わって、本作は非常に明るく、前向きな作品として捉えることができました。今までの作品と比べて、今回の制作では何か違ったアプローチや過去の作品とはまた違う方向性で制作されましたか?
緒方監督: 個人的には、違うものを撮ろうという意識は全くなかったんです。企画のスタートもまた、自身の中にある偏見や間違いに気づいた事が、着想のきっかけです。着想からの変化は全く変わっていませんが、もし一番大きく変わったとすれば、撮影中の演出が変わりました。今までは、自分が思い描いた世界観に、役者さんをピースとして嵌める意識しか持っていませんでした。ただ、映画『飢えたライオン』の時に筒井真理子さんと一緒に現場を作らせて頂きましたが、本当に素晴らしい現場体験になりました。筒井さんは、僕が想像している世界以上のものを役者として現場で見せてくれました。その時、初めて役者さんの演技の力に気付かされて、今回は役者さんへのアプローチや演出の方法を変えて現場に挑みました。なるべく、役者さんを信用して、その場の演技をお任せしました。もちろん、僕が思い描く映画の方向性ついては説明していますが、個々のキャラクターについては、役者さんとディスカッションする中で決めていきました。その点が、過去の作品と大きく違うと思います。
—–現場では、委ねる所は委ねて、ご自身が描きたい部分はしっかり伝える流れで演出されたんですね。
緒方監督:演技の面では、今までの過去作品とは違う部分です。ただ、ご質問で頂いているのは、多分、映画の見え方について、ご指摘していると思います。今まで僕の作品は、暗かったり、嫌な気持ちになる要素が、全面的に出ていますので、本作を初めて観た時、作風が変わったと思われる方が多いと思いますが、ポジティブな映画に仕上げているのです。前半の14分で、本当に「緒方監督、どうしたんだろう?」と思うような作品になっていますが、冒頭を通り過ぎてからの本編は、今まで通りです。この映画には、大きく分けると、3つのパートに分けています。ドラマパートである第1部、そして事故に遭うまでの第2部、最後に事故後の長い黒みの後からのラスト・カットまでの第3部となります。 最後のパートは、まさに僕の今までの作り方と全く同じように黒みと暗転を多用して、物語性を使わず、排除した作りとしています。僕としては、前作と大きく変わりましたという意識はありません。ただ、演出に対するアプローチの仕方は変えていますので、その部分が見ている人にとっては、違った作風に見えるのかもしれないです。
—–病気で失った脚の代わりに、義足が主人公のアイデンティティの一つであると、セリフでは表現されていますが、障害者が持つ特性は、その人本人を表すプラスな一面もまた要素であると、私自身も思います。監督は、なぜその部分をアイデンティティと呼ぶのでしょうか?
緒方監督:皆さんは、それぞれネガティブな一面をお持ちだと思いますが、何かしら、自信が持てない部分や苦手な部分、また人に誇れない部分を持っている方は大勢です。事実として、義足を隠している人は世の中にたくさんいます。日本では、特に多いと感じますが、最初に一枚の写真を見た僕がかっこいいと思ったように、オープンにそのまま見せる行為ができる人の何がかっこいいかと言えば、ビジュアル的な部分ではなく、内面的に脚がなく義足を付けている自身を肯定的に思えているかどうかだと思います。その事実に気付いて、彼女にとってのアイデンティティの一つが、現実としてある義足が逃れられる事実ですよね。それに対して、彼女が肯定的に思えている言葉を、表現したかったので、セリフとして入れています。結局、僕が一番言いたかったのは、外見的な美しさでなく、自身の外見含めて、自分を肯定的に思えた時に、彼女が本来持っている表情をできるかどうかです。それまでは、義足である事を隠すか隠さないかと、世間はそんな部分でしか判断せず、人々は彼女の外見的な特性でしか見てない訳です。今の世の中は、SNS含めて、自身を見せる場面がたくさんあると思いますが、すべて他人からどう見られているのかという事。世の中には、他者の視点での美しいか美しくないかという視点でしか判断基準がありません。けど、彼女自身が初めて自分の視点で自身を美しいと思えた所までのプロセスを、この映画で描いています。だから、TikTokやYouTubeといったSNSが登場しますが、このツールは他者に向けて、自分を表現するものですよね。だから、自分をどう見せるか、どう見えるのかという考えでの視点でしかありません。けれど、そんな事は関係なく、自分が美しいと思えるプロセスが、非常に大切になってくる訳です。
—–如何に、自分を愛せるか、ですね。それは障害など関係なく、本当にネガティブな部分をネガティブとして受け入れるのではなく、それを如何に前向きに、ポジティブに愛して行けるかが、この作品の中の一つの要素にもあるのかなと、私は受け取りました。
緒方監督:正直に言えば、ネガティブかどうかは、もう分かりません。ネガティブが、ポジティブに変わる事もあれば、ポジティブがネガティブに変わる可能性もありますよね。結局、自分がどう思うでしかないと思います。その点は、この映画の作りにも反映させていて、本作は60分強のコンパクトな作品です。音羽の身体的な特徴を、メタファーにしています。この映画では描かれてないですが、通常ならば、彼女が障害者として泣いていたり、苦しんでいたり、一生懸命リハビリをする姿が特徴的ですよね。障害者を扱った映画で描かれがちな場面は、無い事は無いんです。ただ、僕が敢えて、表現させない事によって、音羽の強い部分だけを一つの作品として表現しています。60分の上映時間ですが、表現する事によって、また違った想像力で世界が開かれると思っています。僕は観客の方々の想像力に任せている一面もありますが、想像するだけで新しい世界が見えて来る作品に仕上げています。
—–社会では、本作の主人公のように、社会の外へと自らの意思で進出しようとしている実際の障害者の方々がおられると思います。これに関して、私自身は非常に肯定的に捉えています。監督は、近年のこの動きをどう捉えていますか?
緒方監督:僕自身も、肯定的に思っています。ただ、自らの意思で発信するのと、メディア側が描くのでは、大きな違いがあると思います。たとえば、今まで某国民的チャリティー番組を中心に、障害者が頑張っている姿が描かれて来て、それによって、その障害者は頑張る人、頑張っている人というステレオタイプが作られて来ました。ただ、世の中には頑張れない人、頑張りたくない人もいるのも事実です。障害のあるなし関係なく、人であるなら、皆さんお持ちだと思います。障害者の人=頑張らないといけないという風潮が、障害者の方々を苦しめています。また、その表現に対して、嫌悪感を示す方がおられるのも事実です。自ら発信するのであれば、問題ありませんが、僕自身もメディア側の人間として、メディアが障害者に対するステレオタイプな印象を植え付けたり、決めつけで描く事に対して否定的であり、この作品では、メディアの表現の仕方に対して、アンチテーゼとして作っています。
—–某テレビ番組もまた「感動ポルノ」と呼ばれており、今のお話をお聞きして、改めて、自身が感じたのは結局、健常者から見た世界が障害者の世界を描いているだけなのです。 一切、障害者の事を理解しようとしていないのかなと、思います。健常者目線で描くのと、障害者の人から自ら発信する状況や環境は絶対に違いと思います。だから、メディア側から描くには、責任が伴うと感じます。
緒方監督:表現する事自体が、悪い訳ではありません。感動させるために、元気を与えるためだけの目的のために、障害者が題材になっているのは、少し違うと思います。たとえば、余命ものの映画も含まれますよね。人の命や病気を使って、感動させるために障害者を使って、作品が作られるのは違和感があります。先程、映画『飢えたライオン』の話にもなりましたが、僕は過去に映画『子宮を沈める』という映画を作った時に、人の不幸をメディア側の人間として、映像化しています。それに対して、僕は社会的意義があると思って作りました。特権意識を持っていた訳ではありませんが、僕がメディア側だから、何をやってもいいぐらいの気持ちも持っていたのは事実で、その反省から僕は映画『飢えたライオン』を作りました。情報を扱うメディア側が、人を傷つけてしまう加虐性にも繋がると考えています。だから、その先に、本作『シンデレラガール』があるんです。結局、自分がメディア側の人間として、その気をつけないといけない、注意しないといけないという意識から、この作品が生まれした。
—–プレスにて、監督は将来、「義足が一つのオシャレやトレンドとして、思ってもらえる社会が来ればいい」とお話されていますが、私自身もそのお考えに対して、同意できます。ポジティブに考える事も大切ですが、たとえば、今回は身体に関する問題を抱えた人物を描写していますが、世の中には身体障害者ではない障害者の方がたくさんいるのも事実です。身体障害者の方含め、すべての方が安心して暮らせる社会にするには、将来どうしたらいいでしょうか?
緒方監督:具体的には、バリアフリーを増やすなど、色々言われています。もちろん、住みやすくするために、物理的な工夫も大事だと思います。ただ、資金の問題など、様々な問題があるからこそ、簡単に整備するのは難しいと思います。それでも、一番大事なのは、心の問題だと、僕は思っているんです。ただ、皆さん、何かしらコンプレックスや障害、病気を持ち合わせていると思います。だから、身体障害があるからと言って、差別心がないかと問われれば、そうではありません。他の差別が存在し、そこに差別意識が生まれます。ただ、僕が少しでも思うのが、身近な人に関心を持つ事、もっと他者に対して想像力を働かせる事ができれば、社会や人はもっと寛容にもなると思います。今の世の中は、自分で物事を考えない事が増えていると思うんです。映画の作り方に反映されていますが、説明はしないような作りにしています。答えは、自分で探して、考えて欲しいんです。本当に想像する事が減った今、まずは考えましょうとお伝えしたいです。今、分からない事はすべて、ネットで検索すれば出てくる時代です。何にでもタイパ、コスパという時代ですが、その手間こそが一番重要だと思っています。手間を蔑ろにするからこそ、他者に対して、想像力が働かないようになっていると思うんです。近頃、想像力の欠如が問題になっていると感じていますので、僕は映画を通して、まずは想像力を働かせましょう、とずっと発信しています。具体的に、差別を無くすには、将来的に遠い事かもしれませんが、相手を思って想像する事が実は一番近道だと思っています。
—–他者への思いやりが、大切ですね。最後に、本作への何か展望はございますか?
緒方監督:この映画は本当に、先程も言ったように、60分ちょっとの短い作品ですが、普通に観てしまうと、サラっと終わってしまいます。ただ、皆様の想像力を使えば、60分が2時間や3時間になるぐらいの体感できるような作りにしています。今後、僕が一枚の写真から共感を得て、この映画を作ろうと思った作品です。僕の今までの古い価値観や間違った価値観を変えてくれたのが、たった一枚の写真です。本作にも、そんな力があると僕は信じています。映画には、社会を変える力があると信じていますので、この映画を観た人たちが。今までメディアがずっと作り続けた障害者像が間違っていた、自分たちを感動させるために、ずっと利用されていた事に気づいて、もっと違う側面で障害者の方々を見てもらえればと思っています。特別ではなく、僕らと全く変わらず、一緒なんだと気づいて欲しいです。
—–貴重なお話、ありがとうございました。
映画『シンデレラガール』は現在、関西では12月1日(金)より大阪府の扇町キネマ、京都府のアップリンク京都。12月2日(土)より兵庫県の元町映画館にて上映開始。また、映画『シンデレラガール』のオーデション風景裏側を撮影したドキュメンタリー『私が私である場所』も扇町キネマにて12月2日(土)より公開。12月2日(土)、扇町キネマにて伊礼姫奈さんと緒方監督の舞台挨拶を予定。