映画『静謐と夕暮』梅村和史監督インタビュー
—–物語を産み出す上で、気をつけていたことはございますか?
梅村監督: 元々、お世話になった先輩を「ある人」としてまったく別な人間に要素を残したまま作り替えられるか、という事がまずひとつでした。
主人公自体は僕の投影ではなく、作品を観る方の視点からも第三者としてご覧頂けるような立ち位置の主人公にしたいと考えていたからです。
台本の物語を4、5回リライトしていても、物語の基礎となる主軸は変わらないように心がけました。
ただ、一番最初は「その人」が亡くなったと言う視点から軸足を置いて物語を考えていました。
しかし、「ある人」に関わる方々にインタビューを重ねる上で、もし「亡くなった」という部分だけを描くということは、「ある人」という方に対して失礼なんじゃないかと思うようになりました。
だから、「ある人」が「生きていた」ということを描こうと思いました。
この部分は、特に気をつけた部分です。
—–本作が、「卒業制作」としてお作りになられたとお聞きしておりますが、どのような経緯で作品の企画が産まれましたか?
梅村監督: ある時電車の中で、今回題材となった「ある人」の存在を思い出しました。
もちろん、忘れたことはまったくありませんが、その方の事が脳裏から離れられなくなりました。
「ある人」が作った卒業制作を観て、学生映画をもっと頑張ろうと思わせてくれる切っ掛けを作ってくださった方でした。
初めての短編を製作したきっかけは、その方からの影響でもあります。
そういう方をふと思い出した時に、その方から何かしてくれた訳でもなく、学内でも希薄な関係性ではありましたが、その人に対して僕なりに誠実なことがしたくて、卒業制作として考えました。
そんな事する必要ないのかも知れないんですが、自分の勝手な思いに何もできない自分にどことなく悔しさもあったからだと思います。
—–タイトル『静謐と夕暮』は、どのように付けられましたか?特に、「静謐」は普段、日常では使われない漢字だと思いますが。
梅村監督:題名に関しては実は、直感で決めました。出来上がる寸前だったでしょうか。
少し前まで編集段階で決まったと思っておりましたが、読み返してみると、脚本にも「静謐と夕暮」と書いているんですよね。
記憶違いだったのかも知れませんが、どの段階で決まったのか定かではないのです。
最初僕はこの作品を「静か」と表現したくなかったんです。
「何もない」という感じでもありません。でも、「日常」というのを、どのように出そうかと言うことをずっと考えておりました。
そんな時に、「日常」とは穏やかなものなのではないかと思いました。
ある意味、変化を除外し続けようとするものなんだと感じました。
まったく波も立ってないない湖のようなイメージなんです。
—–静寂とでもいいますか。
梅村監督:そうですね。でも静寂は、静けさのせいで寂しくなっていると言いますか、孤立している状態になってるのとでは、少し違うんですよね。
ドビュッシーの『月光』ではないんです。そうではなくて、「日常」にある「穏やかさ」が、意味合いにあればいいなと思ったところから、「静謐」という言葉を選びました。
たまたま何かで見て、すごくこの言葉に惹かれるものがありました。
まず、自分自身も初めて(「静謐」という言葉を見たときに)「何だこれ?」って、思ったんですよね。
—–「読めないわ」ですね笑
梅村監督:多分、この言葉に出会ったのは、この作品を作り始める前なんです。
撮り終わった後に、ふと「静謐」という言葉を思い出して「あれって、どういう意味なんだろう?」と興味を惹かれまして調べてみたら、「とても静かで穏やかな様」と書いてありまして、作品に合うのは「これしかない!」と思いました。
「夕暮」には、終わりがあるイメージじゃないですか。
「今」を生き続ける人たちと「今」が終わりゆく人たちを想像することができると思います。
—–素晴らしいですね!とても、ピンとくる説明です。「生きている者」と「去りゆく者」を表現しているのですね。
梅村監督:漠然となんですが、僕の中では「静謐」と来たら「夕暮」しかないと思いました。
枕詞に掛詞ではないですが。インタビューを受けたり、関係者の方たちとタイトルの意味を改めて考えていく中で、この題名の方向性が決まっていきました。
あの時に「夕暮」と付けたのは、そういう意味だったのかと振り返ることができました。
—–136分という上映時間が卒業制作としては、比較的長尺な作品ではありますが、この「時間」に込めた想いはございますか?
梅村監督:脚本自体の初稿が70頁ほどありまして、それが140分ぐらいの長さなんです。
撮影用に書かれた最終稿は、最初と比べて少ないシナリオとなりましたがどう考えても、見やすいと言われる90分の映画の分量ではなかったのです。
元々、唯野さんからは2時間の作品でいいと思うと言われたのですが、僕としては編集版を無理やり90分にしようと思いました。
やってみましたが、僕が編集したバージョンは、体感長く感じてしまうんです。
でも唯野さんが編集してきた2時間16分の時間が、僕らの中では体感時間として、とても心地よい感じがしました。
—–他の方もコメントを寄せているように、スルスルと頭や心に入ってくるのでしょうね。もしかしたら、編集が上手いのかなと感じます。
梅村監督:そうなんですよね。僕自身も感じますが、唯野さんの編集は本当に上手いんですよね。
京都造形芸術大学の映像学科の10期生では、その中では一番編集が上手いと感じており、ありがたい限りでした。
でも、それ以上に、90分にしたいと思っておりましたが、人間を描くということが、割り切った数字ではダメだろうと、ずっと思ってもいました。
エドワード・ヤン監督の『牯嶺街少年殺人事件』を観たりしていました。
この作品は、最後の展開があるための4時間という上映時間なんですよね。
—–そう考えたら、似ておりますよね。日常を描いているという側面におかれましても。
梅村監督:そうかもしれないですね。もしかしたら、そこは頭の片隅で意識したところかもしれないです。
全然、意図的ではございませんが、もしかしたら潜在的にあったのかもしれません。
先程もお話させて頂きましたが、僕らから「ある人」に対して、失礼のない作品を作りたかったのは、根底にありました。
そういう中で、「死」というモノを描かないといけないと思ったんです。
そのために色んな人にインタビューして作られた映画なんです。
インタビューを受けて頂いた方々は興味深いお話をしてくださりました。
ある方から「亡くなった方々というのは死んだことは“点”ではなく、その方が生きていた証なんじゃないのか」と説明を受けました。
「一番身近な人だったら、生きていた時のことを沢山覚えているのでは」と話してくださりました。
そしてその記憶を持って生きていく。それをお聞きした時、「先輩」に対して少し失礼なことをしてしまったなと反省しました。
だから、最初に書いていたシナリオを書き直して、日常の中に誰かの「死」がある。
色んな方々の時間の重なりの中で、それでもこの日常があると思います。
—–ただ死んだだけでなく、今まで生きてきた人生そのものが、その人の生きた証ですよね。
梅村監督:だから、その方が生きていたという時間や事実が、ちゃんとこの世の中を作り続けているひとつの柱なんだと言う作品にしないといけないなと思いました。
—–少し話を変えまして、撮影時大変だったことをお聞かせ頂けますか?
梅村監督:そうですね。元々セリフはあったのですが、ロケーション自体がとてもうるさい場所でした。
現場で俳優さんと話し合いをした結果、セリフをなくしたシーンもありました。
自分で書いた事とはいえ、撮影中に再度、考え込んでしまうんですよね。
各シーンに「あのシーンはああだから、このシーンはこうだ」という連続性の縛りより、このシーンの日常感をどうすれば出せるのだろうかと、スタッフ一同、静けさの中に日常がある状態を僕らなりに作り込むことに専念しました。
段取りだけに1時間以上要した場面もあります。家具の場所はこれでいいのかとか、細かい部分も気にしていました。
—–演出面にすごい魅力を感じましたが、ロケ地やカメラアングル、照明の当て方など、演出に力を入れられましたか?
梅村監督:そうですね。リアリズムよりも(映像の中で)起きていることを映したかったというのがあります。
フォーカスの場所をどこに置くかという視点が、ユニークだと仰っていただいたことがあります。
僕は必ずしも、人間にフォーカスが当たってなくてもいいと思っております。
本作はカゲの話ではあるものの、カゲがこの世界の主ではありません。
例えば、ある場面で川原にある石ころが何を見ていたのかなと、人物の視点だけでなく、物の視点からも考えることができると思うんです。
あと、カゲが徐々にフレームの中心に居なくなる場面が、顕著になるようにボケを使って、彼女が遠のいていく演出もしたりなど、ボケに別の意味をもたせようとしています。
—–公式ホームページで、「記録」と「記憶」について説明しておられますが、監督自身が思う「記録」と「記憶」の違いはありますか?
梅村監督:「記録」とは史実や実際に起こったものを文章や絵で残し、それを映し表して、忠実に再現するものが「記録」だと思います。
「記憶」とは、色々なところが省かれたり、都合のいいように編纂され直されたものであったり、美化されていることもあるのかもしれません。
でも実際、今の世界の時間を作っているものは、人間の「記憶」で、それ自体が原動力になって、次の過去を生み出しているんだと思います。
僕らの中では、映像の中で、あったことのみを指し示す「記録」にならないように、今見たものが自分の思い出すプロセスとシンクロできるような形にできるような形態(「記憶」を思い出すときのような)にしたいと思って、本作を作りました。
—–監督自身が感じる「死生観」とは、なんでしょうか?
梅村監督:正直分かりませんが、少なくとも映画『静謐と夕暮』の中での滞留している人達は、橋向こうに行けない人達の話なんですね。
十三や梅田が、(1)ハレとかケとかという訳ではありませんが、もっとロジカルなモノで形成されている都市と人情的なモノで形成されている都市。
これらふたつは、どちらが良い悪いではありません。
また、亡くなっていい人は、この世に誰一人いない。だけど、「逃げちゃダメだ」と僕らが言い切ることもできないんです。
その中で、この橋の立ち位置は、どちらにも行けない人達の話なんですよね。
老人は特に、何かを抱えて、ここにいるのだと思います。その場所で終わりゆく存在なんです。川の外にも行かず、その場で終わっていく存在です。
それはそれでいいと思うんです。僕自身、この映画を作って良かったと思っています。人間自身、美しい存在だったのだなと、気付かせてもらいました。
だからこそ、感動するセリフを言うとか、作品の中で変な仕掛けを用意する必要ないと思ったんです。
もっと「日常」と言う風景自体が、こんなにも美しいのにと言うところを観てもらいと思いました。
死生観に繋がるか分かりませんが、ある意味「死生観」がないという事かもしれません。
—–日常のありふれた、このありのままの風景そのものが、生きていて美しいのかなと、お話をお聞きして感じさせて頂きました。最後に、本作の魅力を教えて頂けないでしょうか?
梅村監督:「記憶」をテーマにした作品です。十三駅を歩いてて、男女二人や仲良い男三人とすれ違う度に、きっとあの人はこういう関係なんだろうなと思いがちですが、それは定かじゃないですよね?
兄弟かもしれない、訳ありかもしれない。でも、そんな曖昧な感じでも、世の中はちゃんと動いてるんですよね。
そこを意識できる人達は、人との関係を意識して生きていける人だと思います。そういう方たちに感動を覚えるんですよね。
この作品も、こうありたいと願っているんです。出てくる人達の「それまで」と「これから」と言うのは、観客の人達の中で、想像してもらいたいです。
このシークエンスの中で、実際にこの時間を体験してもらえるような映画です。
だから、登場人物の二人の関係性も、僕らが考え出した一例にすぎません。
本当に、そうなのかと言うのは、僕らもまだ定かではありません。
他の作品と圧倒的に違うのは、本作に登場する人物の関係性などを想像してもらいながら、観てもらえる作品になっていると思います。
観てもらった人の数だけ、映画『静謐と夕暮』という作品ができると思います。
映画『静謐と夕暮』は、十三のシアターセブンにて、3月12日より1週間限定上映。
(1)ハレとケとは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。 民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレは儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケは普段の生活である「日常」を表している。 ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。