昭和モダンを生きた若者たちを描いた映画『たまつきの夢』田口敬太監督インタビュー
—–まず、本作『たまつきの夢』の制作経緯を教えていただけますか?
田口監督:2019年の1月、2月あたりに、自身の祖父が生きた時代を映画という形として残したいと、また祖父が生きた時代の記憶を映画にしたいと思ったのが、最初のきっかけでした。玉突きとはビリヤードの事ですが、祖父から話を聞いていく中、大正から昭和初期、戦前にかけて、日本で娯楽として流行していた話を聞いていたんです。自身は、岡山県津山市という田舎出身ですが、そこにも撞球場(ビリヤード場)があったという話を聞きました。祖父の話を聞くまで、ビリヤードは戦後に日本に入ってきた娯楽文化だと、私は勝手に思っていたんです。その事実も非常に驚きで、戦前に四つ玉と呼ばれるポケットがないビリヤードがあるんです。赤二つ、白二つの四つだけの玉を使うビリヤードで、少しルールが違いますが、既に戦前には文化として日本全国に根付いていたというのを初めて知りました。自身もその歴史に驚きつつ、それが面白いと思って、戦前を舞台にしたビリヤードの映画を作りたいと思ったのが、最初のきっかけでした。その後、ミュージックラボの企画として、寺尾紗穂さんの楽曲『ねぇ、彗星』という曲と出会って、その曲をこの劇中のレコードから流れる曲として、使用したいとお願いをして、今回は使わせてもらえるようになりましたが、改めて戦前の曲調に変更を行い、歌詞の一部も寺尾さん自身に書き換えてもらって、新たに収録し直し、本作の主題歌として使わせてもらったという流れがあります。もう一点、少し長くなりますが、ビリヤード場を実際に撮影するとなった時、自主映画ではロケセットを組む予算はないので、インターネットで全国の情報を調べていたんです。すると、営業自体は50年前にはストップしていた群馬県の下仁田町に古い撞球場や建物だけが残されているという情報を手に入れたんです。実際に、現地に行ったら、私自身もその場所を非常に気に入り、所有者を探したら、その方が東京にいらして、お会いして、使わせて頂きたい話をさせてもらい、撮影できました。ただ、そのままだと撮影できなかったんで、地元の大工さんや地元の方に協力してもらいつつ、撞球場の修繕を進めて行きました。2019年の春頃から準備を進めて行き、11月に撮影して、その後コロナ禍に突入してしまい、しばらく間が空きましたが、2021年末に、ようやく長編として完成させる事ができた作品です。
—–ロケ地の日本家屋は、雰囲気が出ており、非常に素晴らしかったです。
田口監督:たとえば、建物やお座敷もまた実は、同じ建物の撞球場の二階の場所を使わせて頂きました。撞球場になったのが、昭和10年と言った昭和初期でした。非常に雰囲気がある建物だったです。建物と出会った事によって、更に、物語が膨らんで行き、実際に、こんな映画にしようという、アイディアが膨らんで行った感じはあります。
—–ビリヤードを主題にした作品は、国内国外含め、多くはないと私は思います。この度、タイトル『たまつきの夢』の「玉突き」に対して、私自身、語感に惹かれるものがありました。他にビリヤードを示す言葉があると思いますが、なぜこの「玉突き」という言葉をお選びになられたのでしょうか?
田口監督:少し調べて行けば、ビリヤードという言葉自体は当時からあったんです。ビリヤードとも、玉突きとも呼んでいましたが、今でもビリヤードやっている方は玉突きという言葉を使用しています。俗語と言えば良いのか、一般的な正式名称ではありませんが、ビリヤードの事を玉突きと呼ぶと知りました。その『たまつきの夢』というタイトルが、比較的、初期の段階から思い浮かんでいました。この作品に限らずですが、先にタイトルがぱっと決まってから、その段階から色々思い浮かぶ事が、私自身の作品では多いのかなと思っています。今回、タイトル『たまつきの夢』がイメージとして思い浮かんだ段階で、色々膨らまして行きました。
—–今でも使われている言葉なんですね。いい意味での、古めかしさを感じました。たとえば、「ハスラー」(本来は、ビリヤードを指す言葉では無いが、国内ではビリヤードを指す言葉として常用されている)というスタイリッシュな言葉もありますが、その言葉よりも「玉突き」という言葉の響き方が非常に映画の内容とマッチしている印象を、私としては受けました。非常に良いタイトルだと思います。
—–作中における、節々のセリフが非常に耳に残るものが多いと、私は思いました。それでも、セリフは少なめにされているそうですが。 脚本を書くにあたり、どのようにセリフを紡ぎ出しましたか?
田口監督:時代設定は太平洋戦争直前の1939年を舞台としていますが、脚本を書く段階では、各シーン毎に、当時の状況を説明するようなセリフを書いていました。ただ、一度脚本を完成させた後に、現場で本読みをする中、説明しすぎている部分を削って行く作業をしました。実際に、その場に居て、普通に会話をしていたら、そんな話を口には出さないという事はありますので、その点、伝わらなくても良いという意味でもセリフを削って行き、今のような内容の映画となったんです。
—–最初は、セリフがたくさんあったんですね。
田口監督:セリフ量は、たくさんありました。あと、ビリヤードの試合に関して、ビリヤードのルールや勝敗の行方を、どこまで映画の中で説明するかについても、自身でも少し作りながら悩んだところもあったんです。当初は、細かくセリフで説明しているような描写の脚本を書きましたが、説明セリフに振ってしまうと、そこまで描いてきた映画の雰囲気が、少し違う方向に行ってしまうなと思い、最後の対決シーンでは、ビリヤードのルールや勝敗の行方は、少しぼかして幻想的にして、音も無くして、だんだん夢の中に入って行くような作り方にしてみました。
—–この時代に生きた若者たちは、私から見て刹那的に感じました。彼らは、恐らく、監督自身の祖父のお話をモチーフにしていると思いますが、作品を観て感じたのが、私たちの祖父や祖母の存在を感じさせるものがありました。今の時代に通じるものもあると思うんですけど、この私たちと似ているものとは、なんでしょうか?
田口監督:その点に関しては、自身も映画を作りながら、考えたところです。元々、祖父が生きた時代の記憶を残したいという想いから始まりましたが、もっと突き詰めて言えば、自分自身のルーツや、今の自分に照らし合わせて、自身を重ねて行く作業だった気もしています。 太平洋戦争直前の日本はまだ、戦争とは日本の外の中国で戦っている認識だったと思います。まさか、日本国内で空襲され、爆弾が落とされて、戦争が始まるのは、日本人にとっては、まだ考えられないような時代だったんだと思うんです。戦地に行って、戦って、日本が乏しくなって、苦しい生活を送らなければいけない時代になりました。どこか遠い出来事ではありますが、たとえば、映画館が閉鎖され、ダンスボールが閉館し、ビリヤード場自体は規制はかからなかったんですが、ビリヤードで遊ぶ事自体が風紀を乱すと見なされて、取り締まりに合った時代だったんです。文化の自由さが、文化の面から徐々に無くなって行った時代だと思っているんです。もしかしたら、今の時代にも、知らず知らずのうちに、声を上げないうちに、どんどん自由が失われて行ってしまう背景が、今の時代に似ているのかなと感じています。ただ、映画の中で描きたかったのは、社会的な一面よりも、あの時代の中で生きている人々の、彼らのありのままの日常や人々が持っている感情の部分が、どの時代にも変わらない一面を描きたかったんです。その側面を映画で作りながら、制作中、ずっと考えていました。
—–ビリヤード場や蓄音機、昭和レトロな美術が作品に色を添えていると、改めて観て思いますが、これら美術に関して、監督自身、何か強い拘りは、お持ちだったのでしょうか?
田口監督:実際に、登場する蓄音機やフィルムカメラは、ヤフオクで当時の品物を見つけて、買って揃えました。あと、レコード盤も当時のものを探しました。実際に、作っていますが、まず自分がイメージするビジョンを伝えるため、美術館の山下さんと相談しながら、実際の具体的な作業としては、美術の方に作り込んでもらいました。
—–レトロなポスターも取り寄せたりのでしょうか?
田口監督:ポスターに関しては、東京の神保町にある古書店を回って、当時の世界地図や化粧品のポスター、レコードのポスターを自分で買い集めて、昭和初期の世界観を演出しました。
—–すごく作り込んでますね。
田口監督:本当に低予算の映画なので、自分が思っている世界観を表現するために、拘った映画ではありますが、自分がやりたい事をピンポイントで作れたかなと思っています。それが、61分という短い尺の中で表現できているのではないかと思っています。
—–本日から(取材は、10月2日に行いました)某テレビ局では、昭和初期を舞台にしたドラマが放送開始されましたが、今現在私たちは令和初期に生きています。現代において、およそ100年前である昭和初期が、クローズアップされる必然性とは何でしょうか?
田口監督:社会的には分からない部分もありますが、本当に自分自身が感じている事だけで言いますと、さっきのお話したように、昭和初期をどんどん調べて行くと、今放送中のドラマは終戦直後のお話ですが、自分が思う昭和初期は太平洋戦争が始まり、日本が戦争していて、軍国主義で「天皇陛下、万歳」という思想が横行した時代。偏ったイメージを持っていましたが、調べて行けば、昭和初期という時代はもっと自由で、髪の毛も長髪を許されていました。映画が伝来され、ダンスが発達し、文化が広がった時代だったんだと思うんです。戦争が原因で、文化が一度、断絶され、途切れてしまった時代かなと思っています。もしかしたら、今お話した価値観が、今の時代に通じているのかもしれないです。ただ、今が令和時代を加味したところ、現在進行形で生きている自分たちは、感じづらい部分もあると思うんですが、ただ、明らかに自身は今、37歳ですが、自分が10代や20代の頃より、どんどん生きづらくなっていると思います。それが、経済的な意味においても、生きづらくなっていると思うんです。自由さおいても、生きづらくなっているようにも感じています。技術は、発達していますが、果たして、それが生活を豊かにしているのかと問われると、どうなのかと、最近ずっと感じ続けています。もしかしたら、昭和初期を描く事によって、何か、今を生きるヒントになるのかもしれないですね。
—–本作の監督のコメントにて、「この物語は現代を生きる私たちの中には、渇望や希望、不安、そして夢に似ているかもしれません。」とおっしゃっていますが、現代の私たちにとって、その時代から続く普遍性とは何でしょうか?
田口監督:今思いついた事から言ってしまえば、ずれているかもしれませんが、元々この映画を作る時に考えていた事が、作品自体が普遍的なものでありたいと思っていました。たとえば、100年経った後に、この映画がもし残っているとしたら、この作品を観た人が、100年後に生きている人たちに通じるものが、何か残るものにしたいと考えて作っていました。理想を実現できたかどうか分かりませんが、そんな希望を抱きながら作った映画です。タイトルの「夢」にも繋がるかもしれませんが、人間にとって大事なものは、夢や希望を抱き続ける事。その夢が、叶うかどうかは、時代や生活の状況によって、変わって行くと思いますが、そんな夢を持ち続ける事や、夢に向かって進もうとする人間の根源的な欲望のようなものは、どの時代も変わらないんです。その点に関して言えば、恐らく、100年経っても、人間が持っている一番変わらない部分ではないかと思っています。
—–昭和初期とは、非常に特殊な時代背景や時代設定ではあります。この上映時間中に、私たち観客は不思議な世界に誘われる特別な時間を、この作品を通して、体験できるのかなと思いますが、監督から見た昭和初期とは、どんな時代だったでしょうか?
田口監督:自身も昭和初期は、たとえば溝口健二や小津安二郎と言った戦前の映画の中や書籍でしか読んだ事ありませんが、実際の昭和初期は、自身に限らず、誰も見たことはない世界であって、実際の昭和初期のリアルを映すのではなく、あの時代から得た自分の思い描く昭和初期を映画にしたいと思いました。実際、どんな喋り方をしたのか、どんな歩き方をしていたのかは拘らず、ファンタジーまでは行きませんが、あくまで、昭和の時代を想像しながら、思い描いて作りました。
—–でも、おっしゃる通り、現実的な話と言うより、寓話的な物語ですね。その世界に連れて行かれるような作品かなと思いました。上映時間の1時間だけ、私たちは令和初期から昭和初期に誘われる作品かと、私は思いました。最後に、本作『たまつきの夢』が、今後どのような道を歩んで欲しいとか、何か作品の展望はございますか?
田口監督:今は群馬県で上映していますが、この後、2週間後に神戸の元町映画館と大阪のシアターセブンで上映が始まって、その後も全国で上映できたらと思っています。自分は、岡山県津山市出身ですが、この地域は映画文化がない街で、自分はそこで育ちました。過去にはありましたが、今は映画館が一館もありません。東京に来てから、自分は映画文化に触れて、自分が知らなかった世界をしって、一番の映画の魅力とは固定概念化されたものでは無いものが、スクリーンにあると思っています。固定概念に凝り固まったものではないと思わせてくれたものが、自分にとっての映画です。そう思わせてくれるものに出会えるのが、映画館だと思います。そんな映画に出会った方が、映画人になろうとする一つのきっかけになれればと願っています。大阪と神戸の上映を回って行く中、この映画と出会ってくれる人が一人でもいてくれたらと思いながら、これからの上映活動を続けていきたいと思っています。
—–貴重なお話、ありがとうございました。
映画『たまつきの夢』は現在、関西では本日10月14日(土)より大阪府のシアターセブン、兵庫県の元町映画館にて、上映開始。シアターセブンでは、10月14日(土)・15日(日)17:30の回、上映後、舞台挨拶予定。元町映画館では、10月14日(土)・15日(日)・20日(金)の3日間、舞台挨拶予定。