映画『あらののはて』「舞台的映画を目指して製作」長谷川朋史監督にインタビュー

映画『あらののはて』「舞台的映画を目指して製作」長谷川朋史監督にインタビュー

2021年12月4日

映画『あらののはて』長谷川朋史監督 インタビュー

長谷川朋史監督

インタビュー・文・構成 スズキ トモヤ

https://youtube.com/watch?v=uqcoM2_WAJM
©️ ルネシネマ

—–本作『あらののはて』の製作の経緯など、ございましたら、教えて頂けませんか?

長谷川監督:「ルネシネマ」というユニットを俳優仲間と組んで活動しております。

最初は、しゅはまさんと藤田さんの三人で集まり、オムニバスを製作しました。

彼らを主演に迎え、製作した作品の後に、次はどんなことができるのか、と考えました。

そして『あららのはて』を企画し、製作しました。長年演出家しており、舞台のことは知っていても、映画のことを全然分からなかったんです。

なので、映画関係のプロの方と仕事がしたいと思っていました。

本作の主演の舞木ひと美さんは、キャスティング・プロデューサーをし、映画のプロデュースもされている方です。

こちらから「ルネシネマで一本、企画しませんか?」とお話を持ち掛けましま。

舞木さんから「ぜひ、やりたいです」と快諾してくださりました。僕が、プロットとあらすじを書きました。

キャストもスタッフも、舞木さんが普段仕事をしている方やオーディションでキャストを選びました。

僕自身、現場に行って初めて会う方ばかりでした。

今回、皆さんお手合わせみたいな感じでした。映像制作の現場は、こんな雰囲気なんだと勉強するような感覚を持って撮影に挑みました。

©️ ルネシネマ

—–タイトル『あらののはて』に込められている監督自身の「想い」があれば、お聞かせ頂けませんか?

長谷川監督:元々、このタイトルは『荒野の果てに』という賛美歌から頂きました。

キリストが産まれるその時に、人々が祝福し待ちましょうと。

荒野の果ての果てにて、救世主が遂に産まれるという喜びと期待に満ちた賛美歌です。クリスマス・キャロルでもあります。

メロディは、とても有名な旋律です。邦題『荒野の果てに』は、大正や明治に翻訳されたと思いますが、「荒野」と書いて「あらの」と呼びます。

どこか、素敵だなと感じた時のビジュアルイメージがありました。

「あらののはて」は、そこに呆然と立ち尽くし、どうしていいのか分からない人の印象が重なりました。

いつかは、このタイトルで一本作品を作りたいと、ずっと昔から持っていたタイトルです。

—–今回、このタイトルをお選びになられたのですね。

長谷川監督:そうですね。元々は『あらののはて』というタイトルではなく、企画を立ち上げた段階では、作品に対する題名はない状態でした。

やっぱり、本作にはこのタイトルがピッタリかなと付けることにしました。

©️ ルネシネマ

—–製作中に何か気をつけていたことや大変だったこと、良かったことなど、ございますか?

長谷川監督:サークル活動なので、目的として楽しく作品を企画して作っていくプロセスが、すごく大事だと考えておりました。

作品とは、パーソナルな部分に集約していってしまいます。

主役の方がいる、監督がいる、シェアできる楽しみは現場や試写しかないと思います。

参加した人が楽しめる、参加して良かったなと思えるような現場にするためには「何を共有すればいいのか」ということに気を配っておりました。

自分の作品を作るために、何かを犠牲にするとか、誰かに何かを無理強いするとか、我慢してもらうことがないように一生懸命、考えました。

現場でのプロセスは、大事にしておりました。

©️ ルネシネマ

—–舞台演出と映像制作は違うと聞きますが、長谷川監督にとって、その違いとはなんでしょうか?

長谷川監督:映像は例えば、この角度から観てもらいたいとか、ここを表現したいと作ることができると思います。

お客さんに対する表現が基本、サービスや提示で成り立っていること。舞台演出は、お客さんに無理を強いることです。

興味を引いてもらった上で、今ここを観て欲しい、ここに注目して欲しいという流れを作る必要があると思います。

例えば、会話であったり、シチュエーションであったり。

演劇は、その点が比較的不自由な部分かなと。不自由だからこそ、自分としてはすごく鍛えられて、流れを作ったり、見せたりするスキルを磨きました。

映画は逆に、そのスキルを感じることは正直、ありません。

演劇時代の演出家として培ったスキルを使って、映画を製作すれば、作品としては、成立するのではないかと考えました。

自分の中では、演劇的映画として完成させました。

©️ ルネシネマ

—–今回、主演としてご出演されている舞木ひと美さんとは、どのような経緯でご出演が決まりましたか?

長谷川監督:元々、舞木さんは演技や演出のワークショップを開催した時の受講生でした。

その時も、彼女はすごく目立っており、その当時は20代後半。

若い子の中で一人落ち着いた雰囲気を出しており、年上の方かなと感じておりました。

後で聞いたら、先程のご年齢で、ビックリしました(笑)。

「ルネシネマ」を結成する上で、現場のスタッフワークができる人は、非常に重要な立ち位置でした。

公開待機中の「ルネシネマ」の三作目となる作品がございますが、その作品のキャスティングや制作部を手伝ってくれる人を探しておりました。

その時は、舞木さんにお願いしておりました。潤沢な資金がない状態でしたので、ギャラを支払う代わりに舞木さんの企画した作品を「ルネシネマ」で主役として作りませんかと、お話をさせて頂きました。

すると、彼女から「ルネシネマ」に参加したいという話がありました。

現在は一緒にグループで活動しています。本作『あらののはて』の撮影段階では、まだこちらからオファーをし、主演でプロデュース作品を一本作って頂くという約束で話が進みました。

©️ ルネシネマ

—–演出面で何か気をつけていたことは、ございますか?

長谷川監督:特に、若手の俳優さんでもある高橋くん、眞嶋優ちゃん、成瀬美希ちゃんの三人は、キャラクターがしている分、とっても達者な役者さんでした。

高橋くんが演じた「アラン」と舞木さん演じる「風子」は、不思議ちゃんのキャラクターです。「不思議ちゃん」って、基本的になぜ不思議かと言うと、突拍子もない言動をしているにも関わらず、自分で分かってない子が「不思議ちゃん」ですよね。

役者には、感情を自分の中に落とし込むために、こういう理由で怒っているとか、過去のバックボーンがあるから、こんな振る舞い方をすることが、非常に不安だと思います。

うまい俳優さんは、それを作るのがとても上手なんです。脚本自体、噛み合わない会話をしている主人公。

実際に演技をすると、噛み合わせようとするし、二人とも噛み合せる力があります。そうすると、ズレた恋愛ドラマになっちゃいます。

とにかく噛み合わないように演出上注意しました。このセリフを言うことに、逆に理由はないということに、普段の違う演技で、すごく戸惑ったと思いますが、そこを上手く組んでくれました。

主役が「不思議ちゃん」として上手く機能してくれれば、あとはみんな「不思議ちゃん」に振り回されたり、見守ったりする役柄なのです。

この点の演出が、苦労だった事でもあり、肝だったと思います。

©️ ルネシネマ

—–主人公の女性が、過去の出来事と対峙して成長するプロセスですが、過去の出来事と対峙した後に、人は何を感じることができますでしょうか?

長谷川監督:恋愛っていつになっても変わらないスタートで、多分恋愛に終わりはないと思います。

振られたからと言って、終わりではないと思います。

要するに感情は、終わることがないと思います。

初恋も同じで、アランとの出会いや風子にとっての出会いも、出来事の終わりですが、彼女がアランをどう想っているのかという感情については紐解かず、特に描写することもせず、好きなんだろうなぐらいの落とし所にはしております。

終わらないことが、多分感情なんだなと、自分は思いました。なので、同じ事を繰り返している事を含めて、恋はコントロールできないものです。

自分でコントロールできているようで、できてないものです。その意味では、運命論者ではないですが、すべて翻弄されて生きている感じが、ちょっと切ない寂しい感じもします。

自分にとっては救いかなと思いますし、ハッピーエンドやデッドエンドは、リアルじゃなくなることでしょう。

©️ ルネシネマ

—–自分の知り得ないことが、世界を作っていると。その不自由な世界の現実を描いていると仰っておられますが、監督自身、「知り得ないこと」とはなんでしょうか?

長谷川監督:最初にお話した「映画ってサービス」になっており、特に最近の映画では辻褄があっていることが重要視されており、少しでも違うと重箱の隅をつつくように論(あげつら)う方が、たくさんいると思います。世の中そんなに整合性が取れた世界ではないのに、映画の世界ではそうじゃないと許さないと言う方が増えたと思います。

登場人物が、なんで怒っているのか分からないとか、なんで泣いているのか分からないとか、そんなもの理解しようと努力する必要ないと思います。

不思議ちゃんなので(笑)。分からないから成り立つ映画なので、映画がサービスではないという一環だと思います。

例えば、描いてない部分にすべてがあって、たまたま見ているその瞬間に映っている部分しか見ないと思います。「風子」が、一体どんな人物なのか、アランが一体どんな人物なのかなんて、少しも分かるはずがないと思います。

映画とは、窓なので、スクリーンに映っている部分にしか情報がないので、それ以外のこともいっぱいあるはずです。

その部分は描く必要もないですし、知る必要もないと思います。

だから、それが現実世界と一緒なのです。自分たちは現実って、やっぱり自分が知っている世界でしか、現実世界は存在しないと思います。

世の中には、自分たちの知らない世界がたくさんあります。ただ、目の前にあるパソコンやテレビ、スマホなどに触れる情報でしか、世界は存在しません。

そういう意味では、接触することができる部分でしか、世界は存在しないと定義しました。

なので、積極的に前提として、途中から会話が始まっていたり、よく分からない状況でも、いいのかなという考えは持っております。

—–最後に、本作をどのような「想い」を込めて、製作されましたか?

長谷川監督:僕は80年代90年代の映画に非常に影響を受けて、お芝居や演劇をしておりました。

映画に刺激を受けて、影響受けて演劇をして、そのお芝居で培った経験を映画に戻しているという認識です。

なので、映画の手法もそうですが、今の世相とはだいぶズレています。本作を製作するきっかけになった一番の理由がありました。自分が好きだった80年代の作品を観た一部の方が、ネットの映画評で観る価値がないと、口を揃えて発信しているのです。

「観る価値がないのか」と感じて、映画って観る価値がないものなんだと断ずることができてしまう事実に、すごく悲しくなりました。

だから、観る価値がある作品を作らないと、映画監督としては存在できないのかと思ってしまいました。悲しくて悲しくて。そんなの何のサービス業だろうかと感じます。

一瞬足りとも目をそらさず、飽きることもなく。楽しむ映画はものすごく実力のある監督が、すごい予算をかけて作っているから面白いのか。

それはそれで、ものすごくいい事だと思います。それ以外の作品は、価値がないのかと思うと、自分にとって価値があって、人にはもしかしたら価値がないのかもしれない。

ということを、もう一度自分に問いただしたいと思って、この作品の製作に取り組みました。

なので、自分にとってはすごく大事だけど、人にとってはものすごく感動したり泣いたり、大笑いできる上、退屈せずに観てもらえるとは思わない。

だけど、この作品に価値がないと言われれば、自分は作品を作ることはできないという感情を持って、携わりました。

削ぎ落として、サービスしないで、作らせて頂きました。

自分の中では、100%ではありませんが、本作を観て良かったなと、次も観たいという方がおられたら、続けていけるなと思いますし、自分を守りません。

優しい気持ちで作品を観る時代が、戻ってくれればいいなと、思います。

©️ ルネシネマ

映画『あらののはて』は、12月4日(土)よりシネ・ヌーヴォにて公開。京都みなみ会館では、12月17日(金)から上映予定。