子どもの頃にはもう戻れない映画『ナナメのろうか』深田隆之監督インタビュー
—–本作『ナナメのろうか』の製作経緯を教えて頂きますか?
深田監督:この映画は、丸2年ほど前に撮影をした作品です。
実際の祖母の家を使って、本作の撮影を行いました。
僕の祖母は、施設に入っているんですが、劇中でも施設に入っている祖母の家に姉妹が片付けに来る話です。
その家は改築される予定になっており、孫たちが祖母の代わりに片付けにやって来る設定になっています。
実際の僕の祖母も、この家には既に住んでいないんです。
僕自身も幼少期に何度も訪ねていて、兄弟や従兄弟とよく遊んだ記憶があり、家の風景という景色を映像に残したいと思っていました。
その気持ちを形にしようと思ったのが、最初のきっかけでした。
—–全編モノクロの映像で凝った演出をされていますが、その意図は何でしょうか?
深田監督:モノクロであったり、画面サイズが4:3というスタンダードサイズにしたのは、昔の映画のフォーマットです。
ただ、いわゆる古い映画のオマージュとして捉えている訳ではないんです。
実は割と具体的な話で、肉眼で見れば何も気付きませんが、カメラのレンズを通して祖母の家を見た時に、壁の色が黄ばみがかっていて、少し変な色をしているんです。
カラーグレーディングという作業で色を変更する事も技術としてできますが、今回はそれがどうしても上手くいかないと、撮影前から分かっていました。
色の変更が、カラーグレーディングの作業でもできないことが分かっていましたので、本作ではモノクロに色を変える判断をしました。
映画の画面をスタンダードサイズにした理由は、物語が家の中で完結する事を最初から決めていたので、家を横長で映す手法は、どうしても両端の情報量が増えてしまいます。
スタンダードサイズにすることによって、画面に情報の無駄を無くす事ができるんです。
—–極力、無駄な余白を無くそうとされたのですね。
深田監督:廊下を映した時に、画面の両端4分の3がほぼ壁になってしまう構図なんです。
劇中、その状態がずっと続いても、日本家屋は狭いので、どうしても無駄な情報量が増えてしまう。
そうした時に、横長よりは真四角とまで行かなくても、それに近い4:3の方がいいのかなと、選択しました。
—–あえて、狭くする事によって、画面を通して家の雰囲気を全体像として捉えることができるのですね。
深田監督:そうですね。あと、人物の収まりがいい事ですね。
これは、古い映画を観ているからそう思う事かもしれないですが、俳優たちの収まりもいいと感じてしまいますね。
—–最初の目的でモノクロした事によって、また別の効果も生まれた来た事もあるのではないですか?
深田監督:そうですね。劇場公開後、その効果が分かって来たと感じています。
モノクロにするという事は色という情報が無くなるという意味なのです。
この画は後半になるにつれて、出来事自体がドンドン抽象的になっていく構造になっています。
世界が具体的過ぎないと言いますか。どこか、時間や空間が別の場所になるんです。
恐らく、この映画がカラーだとすると、自分たちが生きている場所と地続きの空間として強調されると思います。
ですが、モノクロする事によって、映画全体が抽象的になり時空間が分からなくなる感覚があります。
昔の話ですと言われても、未来の話ですと言われても、どちらにも捉える事ができるんですよね。
そういう感じが、この映画にとっては、効果として良い方向に働いていたとは思います。
—–時間軸は実は同じであって、少し並行的な部分もあり、ただ、世界自体は別の時間のお話としても捉えることができるかもしれないですね。
深田監督:主人公たちの行動は、非常に現実的な一面もあります。
タラレバでしか言えませんが、もしカラーで撮っていたら、隣の家の事ぐらいに、感じられるのかもしれないですね。
—–タイトル『ナナメのろうか』に込めた意味は、何でしょうか?
深田監督:最初の場面で、ビジュアルにもなっていますが、姉妹がビー玉を廊下に置いて、家が斜めかどうかを確かめているんです。
そういうシーンが最初にありますが、その行動から題名にしました。
実際、廊下が斜めになっているかどうは明言されていません。
ビー玉を転がして、斜めになっているかいないのかを話すという他愛ないエピソードですが、それが作品の一番最後にも伏線として絡んでいます。
この「ナナメのろうか」は、作品の全体像を考えて、名付けました。
—–「ビー玉が転がる」という事柄が、物語と直結すると考えられますか?
深田監督:僕が意図して作った訳ではありませんが、よく言われるのが、姉妹の関係性とビー玉が呼応しているのかと質問を受けます。
映画の中では彼女らの関係が歪になっている背景や状況がずっと描かれています。
ケンカしたりもしますが、人物同士の関係が「ナナメ」として反映されていると、捉えて頂ける方もおります。
ただ製作当時は、そこまで意識して作ったつもりはありませんでした。
あとは、最初の場面で妹がビー玉を廊下に置く行動ですが、妹は家が傾いているのではないかと疑問を持つ一方、姉は傾いてないと言って意見が分かれるんです。
彼女らの主張が、お互いに対立しています。
それが、物語における一番の起点になっているんです。
—–この物語に登場する主人公の姉妹の年齢設定ですが、比較的、ある程度歳を重ねた、また人生経験が豊富な人物として印象を受けました。30代から40代程の年齢の方が話すセリフが多いと、彼女らの会話を通して感じました。中年あたりの年齢の女性を設定した理由など、何かございますか?その点から浮き彫りになる物語の効果は、ございますか?
深田監督:設定された年齢というより、妹を20代後半、姉を30代半ばに設定している姉妹の年齢差が、作品の肝です。
妹が置かれている状況と、姉が置かれている状況が、大きく違ってくる訳です。
姉には子どもがいて、夫もいる家庭環境。
姉はほぼ家庭に関する事で手がいっぱいな状態が続いているんです。
妹に関しては、子どもができたが、シングルマザーになるろうとしている背景があります。
自分で身を立て、生活を一人でできる状態にある環境です。
この状況の差が、姉と妹の関係上、明確に違って来るんです。
それは、年齢的な事でもあり、その差が非常に重要でした。
—–本作の作中で使用されている「ビー玉」には、作品の物語と深い関係性があると思いますが、「ビー玉」に関して作品におけるメタ的要素はございますか?
深田監督:どうでしょうか?皆さんが様々な意見を仰ってくれますが、実は、その「ビー玉」を象徴的に捉えることは、製作段階ではほとんど考えていませんでした。
ただ、深く考えて頂けるのは非常に嬉しい事でもあります。
昔、ワイドショーのテレビ番組で、家の欠陥を調べるコーナーがありました。
その企画内で、欠陥住宅かどうか調べるためにビー玉を転がすんです。
あの行為が、非常に衝撃的だったんです。
頭の中の記憶として今も残っているので、その影響があるかもしれません。
—–本作のような題材は、懐古的な設定として、取り壊しの決まった祖母の家を片付ける印象があります。取り壊されるから、整理しに行くという一連の流れもあると思いますが、今回は敢えて、改装する祖母の家という設定において、姉妹と祖母と家はどういう関係性がございますか?取り壊すか、改装するかで、祖母、姉妹、家の方向性や存在は、変化があると思います。この点におけるお考えは、何かお持ちでしょうか?
深田監督:取り壊される設定は、脚本を書くプロセスの中でも考えました。
例えば、家が取り壊されて無くなるよりも、家はあるが自分の知らない空間になってしまう設定の方が、姉妹にとって重要な事として受け取れると思います。
存在がなくなってしまうのではなく、外見の存在が変わらない分、自分が知っている場所ではなくなるという環境。
その設定の方が重要であると感じました。
これは、妹が抱える背景と交わっている部分でもあると思っています。
妹が子どもを産もうとしている反面、産んだ後にはもう、やりたい事ができない、時間が作れない環境が待っているでしょう。
彼女自身は変わりませんが、子どもという存在によって、彼女自身の環境や感情が変化して行くんです。
家レベルや人物レベルで、映像を通して変化の兆しを表現するために、実験的に試してみたかった事かなと思います。
—–その点は、監督自身、振り返ってみて、成功していると言えますか?
深田監督:どうでしょうか…。成功しているかどうかは、なかなか言えないところはあります。
ただ、取り壊しでなくて良かったなと思います。
取り壊しの設定だとしたら、また違うニュアンスが作品全体の中に漂っていたと思います。
—–前作『ある惑星の散文』では、人同士の距離感について、お話されておられてましたが、本作ではあるインタビューで「記憶と記録」についてお話されてますね。この人との距離感と本作を通して描かれた「記憶と記録」を結ぶとするなら、何が影響し合うと思いますか?
深田監督:人物は二人しか出てきませんが、姉妹の距離感ですね。
この映画では人と家の距離感を描いているという側面もありますが、一番は姉妹の関係性に尽きると思います。
子どもの頃は、親元に産まれた二人として、平坦な関係で居られたものが、大人になって行くに連れて、だんだん考え方も違って来ます。
別の人物にもなって行きます。
その意味では、人になると距離が離れて行くんです。
だけど、同じ家で育っているからこそ、距離が近づく瞬間もあります。
その複雑な関係性が、ただ友達や恋人ように、別れました、それで終わりですとは、ならないんです。
近くも遠くもあり、ある姉妹の姿が今回の作品においての距離だったと言えます。
—–今の距離感のお話と今回の「記憶と記録」が、影響し合っていると思いますか?
深田監督:そうですね。ただ今回は、記録的な部分は出てこないかもしれないですが、記憶に関しては作中においても関係して来ると考えられます。
かつて、みんなで遊んでいたおもちゃ箱が階段から落ちて来て、そこから思い出が溢れて来ます。
その点が、「記憶」の部分です。
それをきっかけとして、二人が遊び始めます。
それは、身体に染み付いた記憶なんです。
どうやってこの家で遊んでいたのかが、再現されています。
今回は、これらの点において、強く描いているかなと思います。
—–最後に、本作『ナナメのろうか』の魅力を教えて頂けますか?
深田監督:今回の『ナナメのろうか』は、44分という非常に稀な尺です。
中編映画という枠組みになります。
観客の皆さんに言って頂けるのは、2時間ぐらいの映画を観たような感覚になりましたと、感想を言って下さる方が多くおられます。
観ていて疲れたという訳ではなく、様々なジャンルの要素を感じられるからかもしれません。
気軽に観られる作品の尺ですが、色々な映画の姿を体験できるのが、本作の魅力かと思います。
あとは、自分の兄弟姉妹、家族や親という存在を主題にしていますので、この作品を観た後に、自分の家族や幼少期を振り返って、思い出してみてくれたら、尚嬉しい事です。
—–貴重なお話、ありがとうございました。