文・構成 スズキ トモヤ 協力 堤 健介
「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」
これは、当時の陸軍大臣の東條英機が示達した戦陣訓の一部だ。
生きて捕虜になるような恥をかかせるな。
虜囚という汚名を残すなら潔く自決を選べ。
という意味だ。
もしこの誓いを破り、生きて帰った暁には、非国民としての制裁が待つ。
捕虜になったことが知れ渡ったら後ろ指を指され、子供たちは学校で「捕虜の子供」と言われ、いじめられる。
だから、虜囚として捕まった日本兵たちは、年齢を伏せ、偽名を使っていた。
戦時中、日本政府は捕虜はいないと公表し、捕まった日本兵たちの存在を隠蔽していた。
ドキュメンタリー映画『カウラは忘れない』は、オーストラリアのカウラで実際に起こった捕虜たちによる収容所脱走事件を追った作品だ。
豪軍の機関銃に抗うため、捕虜となっていた日本兵はナイフやフォーク、手作りの斧などを手にし、1944年8月5日午前1時50分。
突撃ラッパのけたたましい音と共に、収容所を飛び出した。
脱獄のために1000人以上の日本兵が、暴動を起こした史実だ。
映画の前半では、当時の生存者である元日本兵や現地の専門家一人一人に丁寧な取材をしながら、過去のオーストラリアでの事件を追う構成だ。
それぞれに戦争で心に傷を負った者たちが、自身が体験した事実や収容所での経験を語っていく。
ある方は「収容所の待遇が良かった」と話す。
その背景には「戦争時の捕虜に対する扱いを人道的にする必要がある」という1864年に日本が締結した「ジュネーブ条約」がとりわけ、関係していると言われている。
シベリア抑留兵への扱いは非人道的だったと言われている反面、カウラでの待遇は比較的、良好でもあった。
それでも脱走したくなるほど、精神的に追い詰められたのは、日本軍が提唱した戦陣訓が影響しているからだ。
後半は打って変わって、現代の話が中心となって描かれる。
カメラは、元兵隊の日本人と高校生たちの交流に焦点を当てる。
老人は人生でもう一度、カウラの土を踏みたいと口にする。
彼は、老衰した身体では渡航できないと断念する代わりに、女子高生たちが現地に赴く。
映画は、現代の豪州へと紡がれる構成だ。
オーストラリアでは、日本と豪人の演劇集団が、カウラで起きた過去の事件をフィクションとして再現する舞台が上演されている。
現地のある女優が「過去を変えることはできない。
代わりに、私たちは未来に向けて何を発信していくかが大切」と発言。
また、未来の象徴でもある高校生たちがそれぞれの想いを独白する。
作品の終盤には、当時憎しみ合った両国の老人の姿が。
豪人が「日本人はもう敵じゃない。今では良き隣人だ」と話すシーンが印象的。
時代は既に希望へ向かっていると実感させるほど、とても大切な場面だ。
オーストラリアと日本。
過去と現在。
老人と若者というように、本作はあらゆる側面を対比することで「未来」と結びつけようとする。
これからの時代を生きる日本人が、過去に何が起きたのかを知る必要もある。
太平洋戦争で起きた事件は、現代に至るまで数多くの事実が掘り起こされて来た反面、それでもまだ知らない真実がこの世に存在する。
本作『カウラは忘れない』が取り上げたのは、1944年オーストラリアのカウラで実際に起きた最大規模の収容所脱走事件だ。
歴史の闇に葬られた本事件は、中野不二男氏によるルポタージュ『カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットはなぜ死んだのか』や2008年に放送されたTVドラマ『あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった〜カウラ捕虜収容所からの大脱走〜』でも問題提起されてきた。
名も無き日本兵たちが、祖国のために命を落としたことを、私たち日本人は忘れてはいけない。
映画『カウラは忘れない』は、関西では9月9日(木)から大阪府のシネ・ヌーヴォで現在、公開中。また、9月17日(金)から京都府の京都みなみ会館、9月25日(土)から兵庫県の神戸元町映画館、12月3日(金)から宝塚シネ・ピピアにて、順次公開予定。また、全国の劇場で絶賛上映中。