映画『ステキな彼女』夜明け的前夜的作品として

映画『ステキな彼女』夜明け的前夜的作品として

伝説が始まる前夜的映画『ステキな彼女』

齊秦のデビュー曲である楽曲『又見溜溜的她』で幕を開ける映画『ステキな彼女』は、台湾ニューシネマを代表する生きた伝説、ホウ・シャオシェン監督の処女作だ。

本作の出演者には当時、台湾で隆盛を誇っていた歌手やアイドルを起用している。

作風は男女の恋愛による三角関係をコメディ・タッチに活き活きと描いた台湾発のラブコメだ。

この時代、日本でも人気を博した「アイドル映画」が台頭していたが、本作『ステキな彼女』もまた、「アイドル映画」を様相としつつも、「音楽映画」としての顔を持つ作品として仕上がっている。

ホウ・シャオシェン監督と言えば、台湾の田舎町を舞台に、少年少女、子どもたちの情景を心豊かに、そしてノスタルジックに描く手法が評価され、その作風が監督自身の真骨頂になっている。

その一方で、本作は望郷的な感情は抑えつつ、若い男女の複雑な恋愛を、軽快な音楽や効果音に乗せて、小気味よい笑劇として昇華させている点が、作品のポイントだろう。

出演には、当時の台湾を代表するケニー・ビー、アンソニー・チャン、フォン・フェイフェイらが、集結した。

このケニー・ビーとアンソニー・チャンは、80年代の台湾で人気のあったグループ、The Wynnersのメンバーで、ケニーがリードボーカル、リズムギター、キーボード。アンソニーがドラムを担当していた。

また、台湾の人気歌手、フォン・フェイフェイが本作のヒロインを演じ、二人の男の狭間で恋や結婚に揺れ動く都会の女性を佳麗に演じている。

本作は、「アイドル映画」「音楽映画」という側面から、当時ヒットしていた齐秦の『又见溜溜的她』『长发溜溜的姑娘(The Cirl with Long Hair)』や凤飞飞の『雨中之花』と言うような台湾ポップスをフィーチャーしている点にも、注目する部分だろう。

また、「あらすじは?」と言えば、親の手伝いをする心優しき金持ちの娘ウェンが、フィアセントと一緒にフランスに行くために、フランス語のレッスンを受けている物語から始まる。

ある時、土木学を研究する貧しい農村出身の青年、ダカンに恋をしてしまう。

彼の交際を反対した父親と衝突した彼女は、家出を決意し、叔母と一緒に田舎に引っ込んでしまう。

彼女はある日、平和な田舎道で偶然にも、恋人ダガンに再会。若い二人の恋仲は、再び動き始めるのだった。

都会娘が、田舎の生活を通して、瑞々しい恋愛を成就させようとする姿をコメディ路線で作り上げた秀作だ。

それではまず、80年代の台湾の時代背景や80年代以前の台湾の歴史が、一体どのような時代だったのだろうか?

台湾史実から作品について考えると、また何か新しい視点が見えてくるのかも知れない。

手始めに、日本と台湾は切っても切れない深い関係で結ばれており、その昔日本は台湾を自国の植民地として統治していた時代があった。

学校の歴史の授業で学ぶほど、アジア圏の歴史において最重要な出来事だろう。

日本の植民地として台湾が歩んだ歴史は、およそ50年に及ぶ。

時は、1894年の日清戦争。下関条約が結ばれ、清の国が台湾の領土を明け渡している。

1895年から日本が台湾に猛攻撃し、日本の植民地化に成功している。

これは、太平洋戦争によって大東亜帝国(当時の日本の名称)が敗北を喫した1945年までの50年間続き、台湾総督府の従属国の支配権に治まっていた。

日本の兵力は、台湾人たちによるレジスタンス運動を篩落しながら、属領地支配を押し広げていた。

台湾国家が、産業や教育の普及に力を入れ始めたのは1930年頃。

台湾の現地人が、武装して日本人に抵抗した霧社事件が起こったのも、この時期だ。

日中戦争時には、創氏改名が昂じり、第二次世界大戦の台湾では日本軍の南へ歩を進めるための本拠地とされた。

戦後、第二次国共内戦に敗北した中華人民共和国の国民党政府が、中国本土から台湾に移り住んだ。

蔣介石・蔣経国総統による戦後1949年から1987年までのおよそ40年近くの間に起きた軍律(この戒厳令の長さは、世界最長と言われている)の元、台湾外部からの圧力で、長い長い統御が行われた。

1950~60年代には中国と台湾の政府が、海門を挟む形で、睨み合いが続き、緊迫した関係性が続いた。

その期間中、米国は台湾との軍事同盟により、アジア全体の社会主義化の抑制に当たる。

1971年に米国が中国と外交関係を劃一化したため、台湾は国連政府代表権を失墜し、79年にはUSAと断行してしまう。結果として、今に至る中華民国(台湾)は、国際社会において独立的主権国家として認知されていない。

ただ、米国は米華相互防衛条約に取って代わる台湾関係法を定め、実質的には両国の接触を保っている。

70年代後半には、北米資本のサポートで当時の台湾国家の指導者の統率力により、工業や産業の近代化・都市化への計画が練られ、80年代に突入する頃には、IT企業などの成長によりNEIs(新興工業経済地域)の一つとして認識され始める。

その間、国家非常事態法の元、政治的随意の抑制に対する抗議活動も強まった。

1987年には、遂に戒厳令が解消され、翌88年には李登輝がいよいよ内省人として国の大統領に選出され、デモクラティゼーションを推し量った。

1996年には、初めての直接選挙が開始され、国家の総統が選ばれている。2003年には官選によって、民進党の主権が結成された。

台湾の政治的歴史上、初めての政権移行が遂行され、国民党がトップの座を譲った。

この期間、中国との関係は、エコノミカルな結び付きもあった。

台湾独立の活動に対し、中国政府との緊張感も張り詰める状態が長年、続いていたのも事実だ。

少し長くなり、脱線してしまったが、台湾の近代史を紐解きながら、話を進めてみた。

1981年に台湾で公開された本作『ステキな彼女』が、どのような立ち位置なのか、少しでも理解できれば幸いだ。

この時代は、先にも記述したように、台湾国家そのものが外相力を付け、国外との関係性を築きながら、一気にモダニゼーションへと走った時代だ。

そんな時代に誕生した本作には、近代化が進む都会で暮らすモダニズムな女性が、帰郷した台湾の田舎町でひと騒動起こす姿を瑞々しく描いている。

彼女が帰省する郷里に選んだ本作の撮影場所は、台湾の南投県​​鹿谷郷の広興村、朱峰村、朱林村、つまり小半天觀風景区の近くの村だ。

南投県

鹿谷郷

また、第二次世界大戦後からしばらくの間、台湾は中国国民党政府の撤退、二・二八事件や戒厳令施行などに象徴されるような省籍矛盾を背景とした内政問題、中国大陸での中国共産党政権成立に伴う国連脱退や諸外国との国交断絶など一連の政治的混乱の中で、社会的・経済的にも停滞が続いていた。

しかし70年代に入ると、当時の行政院長であった蔣経国の指導下で十大建設に基づくインフラ整備が進められるなど経済発展が加速した。

台湾社会が農業社会から工業社会へと変貌を遂げ経済力をつけていく中で、人々の生活にも次第に余裕が生まれ、70年代には映画が市民の娯楽として定着するに至った。

そのような状況下で、人々の需要に答えるべく、アクション映画や恋愛映画など娯楽ジャンルを中心に数多くの作品が台湾でも作られるようになった。

しかし、それら作品の内容は次第にパターン化・マンネリ化して観客に飽きられるようになり、人々の目が香港映画や洋画などに向けられるようになっていった。

香港映画が従来のコメディ路線に加え、アン・ホイなど「新浪潮」(香港ニューウェーブ)の旗手たちの手による写実的な作品を台湾の映画市場に参入させ、電影金馬奨など台湾国内の映画賞を次々と受賞する一方で、国際映画祭はもとより、国内の映画コンテストでも賞をとれないレベルの作品しか作られないなど、80年代初めの台湾映画界は大きく低迷し、また観客動員数も減少した。

そんな時代に彗星の如く登場したのが、現在でも映画監督として活動し続ける台湾映画界の巨匠、ホウ・シャオシェンだ。

彼は、現在までに数多くの作品を世に送り出しており、監督処女作となった本作『ステキな彼女(1981年)』の他に、『風が踊る(1981年)』『川の流れに草は青々(1982年)』『坊やの人形(1983年)』『風櫃の少年(1983年)』『冬冬の夏休み(1984年)』『童年往事 時の流れ 童年往事(1985年)』『恋恋風塵(1987年)』『ナイルの娘(1987年)』『悲情城市(1989年)』『戯夢人生(1993年)』『好男好女(1995年)』『憂鬱な楽園 (1996年)』『フラワーズ・オブ・シャンハイ(1998年)』『ミレニアム・マンボ(2001年)』『珈琲時光(2003年)』『百年恋歌(2005年)』『それぞれのシネマ「電姫戯院」(2007年)(短編)』『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン(2007年)』『黒衣の刺客(2015年)』の計18本の長編作品が存在する。

またホウ・シャオシェン監督は、22本の出演作やプロデュース作にも携わっており、生涯において1984年の第6回ナント三大陸映画祭にて、映画『風櫃の少年』が金の気球賞(グランプリ)を受賞したのを皮切りに、第30回アジア太平洋映画祭監督賞、第31回アジア太平洋映画祭審査員特別賞、第46回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、第46回カンヌ国際映画祭審査員賞などを受賞しており、2020年には台湾で開催されている第57回金馬奨という映画祭にて、生涯功労賞を受賞している。

ホウ・シャオシェン監督は、台湾の国立芸術学院の映画部門を卒業した世界を代表するクリエイターだ。

彼は、2015年に全世界で公開された史劇モノの映画『黒衣の刺客』に関するインタビューにおいて、作品の着想を聞かれた際に、自身の台湾の映画業界に入った経緯や、当時の台湾ニューシネマが流行した背景を話している。

(※1)“然後一開始進入電影界,就 是台灣新電影時期,新電影是拍自己的記憶開始,拍自己的成長,然後這樣一路上來。其實我拍自己成長的經驗之前,我拍 了很多商業片,《就是溜溜的她》、《風兒踏踏踩》、《俏如彩蝶飛飛飛》、《蹦蹦一串心》,光聽這些名字就知道,很賣 座的,(笑),非常賣座。後來就開始新電影時期。新電影時跟楊德昌他們一群,那時候其實是受德國新電影、法國新浪潮、 意大利新寫實電影,二戰之後的、香港新浪潮的影響。台灣新電影就是我們這一群,蠻多人的,很多人是從國外念電影回來, 我們就開始拍不一樣的電影。这是台湾新电影的开始。”

「最初に映画業界に入ったのが、台湾の映画新時代でした。実は、自分自身の成長体験(半自伝的作品)を撮影する前に、「ステキな彼女」「風が踊る」「俏如彩蝶飛飛飛」「蹦蹦一串心」など、多くの商業映画に携わりました。タイトルを聞くだけで、これらの名前は知られているはずです。非常に人気がありますから(笑)。それから、82年頃から新しい映画の時代が始まりました。新作はエドワード・ヤンらと一緒でしたが、当時はドイツのニュー・ジャーマン・シネマ、フランスのヌーヴェルヴァーグ、イタリアのネオレアリズモ、70年代後半に起きた香港ニューウェーブの影響を受けていました。台湾の新しい映画のブームは、私たちのグループが作り上げました。あの時代は、非常に多くの台湾人監督がいて、多くの関係者が外国で映像製作を学び帰郷し、様々な種類の映画を作り始めました。これが、台湾ニューシネマの幕開けです。」

台湾ニューシネマの大まかの流れは、周知の事実ではあるが、これを当時の流行の最中にいた人物の口から直接耳にし、目にするのとでは、まったくニュアンスは変わってくる。

ネットが普及するまでの90年代頃までの情報が乏しくなりつつ今、この時代の証言を発信している媒体は、とても貴重な存在でもある。

本作『ステキな彼女』が公開された後のホウ・シャオシェン監督のご活躍は、万人の知る事実ではあるものの、デビュー時代やその以前の監督の動向は、あまり知られていない中、このような発言には、どのように台湾ニューシネマが隆盛を図ったのかと認知するのに、とても説得力がある。

80年代の台湾の映画新時代のムーブメントの一番先頭で牽引してきた本人の言葉だからこそ、筋の通った信憑性がある。

さらに、本作を取り上げる上で、避けては通れないのが、おそらく「台湾ニューシネマ」の存在だろう。

これは、80年代を中心に、台湾の映画業界で起きた映画新時代のムーブメントを指し、フランスのヌーヴェルヴァーグや戦後イタリアのネオレアリズモ、イギリスのブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ(イギリス・ニュー・ウェイヴ)、ドイツのニュー・ジャーマン・シネマ、チェコのチェコ・ヌーヴェルヴァーグなど、先に起きた映画運動から大きな影響を受けている。

この「台湾ニューシネマ」は、世界的に見ても映画史の中ではある一つの契機として位置づけられており、とても重要な映画運動の一つだ。

その渦中にいたのが、本作を製作したホウ・シャオシェン監督や映画『牯嶺街少年殺人事件』のエドワード・ヤン監督が有名なのは、周知の事実だ。

ただ、その他にも柯一正、陶德辰、張毅、陳坤厚、曾壯祥、萬仁、王童、李祐寧、麥大傑、陳國富、吳念真など、この時代の台湾から多くの映画人が誕生したが、残念ながら、現在名前が残っているのはホウ・シャオシェンとエドワード・ヤンのみだ。

「台湾ニューシネマ」の台頭と共に隆盛を誇った80年代の台湾映画界は、当時も今も変わらぬ存在感がある。今も台湾のホラー映画が、話題を攫っており、今後も台湾映画の動向に一挙手一投足、見逃せない。

このブームの源流を作ったのが、他でもない映画運動「台湾ニューシネマ」の真っ只中の活動の中心人物となったホウ・シャオシェンらの功績は、非常に大きい。

この「台湾ニューシネマ」には様々な定義があり、(※2)taiwan panorama台湾光華雑誌というWEBサイト内の記事“今も世界で影響力を持つ1980~90年代の「台湾ニューシネマ」”に記載されている内容では、「オムニバス映画『光陰的故事』を、当時人気の高かった恋愛やカンフー、青春ものといった商業映画と一線を画す作品と評しており、写実的スタイルの同作品は、文学的な手法で作られていると言われている。これが台湾ニューシネマの幕開けと見られている」と記述がある。

また、写実性だけでなく、70年代までの台湾映画は、現実社会とは乖離したいわゆるヒーローものが中心に製作されていた時代。

これらの作品には、台湾人の日常生活や当時の台湾社会が抱える問題などに真正面から対峙し、彼ら台湾人自身が抱く問題を丹念に追うことで、台湾社会の暗部にまでスポットライトを当てているとも、言われている。

上記の定義を基に、本作が持つ要素を照らし合わせた時、もしかしたら、映画『ステキな彼女』は「台湾ニューシネマ」の作品群として数えることができるのかも知れない。

70年代まで人気のあった恋愛モノではあるので、上記の「台湾人自身が抱く問題を丹念に追うことで、台湾社会の暗部にまでスポットライトを当てている」には当てはまらないものの、写実的スタイルであったり、文学的な手法や台湾人の日常生活を作中で表現されている、と伺える。

例えば、田舎の原風景の中、登場人物たちの日常生活を活気に描いている。

また文学的手法には、まるでシェイクスピアの有名戯曲『ロミオとジュリエット』のような男女の三角関係を丹念に描いている。

当時の台湾の風土に合わせて、現代風にも仕上げ、悲劇ではなく喜劇として作品を昇華させている。

キャピュレット家やモンタギュー家のような家族間の血生臭はなく、現代風に置き換えて、どこか垢抜けた印象を与える

多くの作品で男女の三角関係は描かれているものの、本作『ステキな彼女』を「台湾ニューシネマ」の夜明け的前夜的作品として捉えてもいいだろう。

もし、この作品が産まれなければ、ヒットしなければ、今のホウ・シャオシェン監督はいない。

世界的に認められる事もなく、「台湾ニューシネマ」の知名度も今ほど、なかったのかも知れないと、考えられる。

台湾映画新時代というある一定の時代に誕生した本作『ステキな彼女』は、映画史の中で最重要な「台湾ニューシネマ」において、非常に重大な立ち位置的作品だろう。

ただし、70年代に台湾で公開され、国内未配給の作品や、本作が公開された81年前後の作品を観比べ、精査して、そこでやっと結果や答えを見いだせる。

現段階は、この作品一本という断片的な判断でしかないことにお詫び申し上げる次第である。

この作品が、後の「台湾ニューシネマ」に続く存在として、夜明け的前夜的作品として、再認識される事を願うばかりだ。

齊秦のデビュー曲『又見溜溜的她』

齐秦の『长发溜溜的姑娘(The Cirl with Long Hair)』

鳳飛飛の雨中之花

(※1)台灣金馬導演侯孝賢獨家專訪(Part I)https://www.cinespot.com/interviews/%E5%8F%B0%E7%81%A3%E9%87%91%E9%A6%AC%E5%B0%8E%E6%BC%94%E4%BE%AF%E5%AD%9D%E8%B3%A2%E7%8D%A8%E5%AE%B6%E5%B0%88%E8%A8%AA-1(2022年8月12日)

(※2)今も世界で影響力を持つ1980~90年代の「台湾ニューシネマ」https://www.taiwan-panorama.com/en/Articles/Details?Guid=a540a766-1eaf-4de8-a9bc-aedd77c0e016&langId=6&CatId=8(2022年8月14日)