アフター震災世代をリアルに描く映画『港に灯がともる』
今回は、震災に関する記録映像と共に30年前の阪神・淡路大震災を振り返り、これからの30年後に思いを馳せて欲しい。
1995年(平成7年)1月17日(火曜日)5時46分52秒。今までに類を見ない程の未曾有の大震災が、兵庫県南部(淡路島北部)を中心に大都市の神戸を襲った。第二次世界大戦後において、戦後最大の被害をもたらした阪神・淡路大震災。「須磨が長田が、めちゃくちゃになっとる。」と、当時の状況を記録に収めようとカメラを回し続けた撮影者の胸の内にある災害に対する小さな怒りが胸に迫って来る。死者は、6434人。損壊・焼損含む建物被害は、住家約52万棟。1995年1月23日時点では、約31万6678人が、学校、公民館、公園などに避難。大阪から神戸へ向かうはずの鉄道網は、全線壊滅状態。市内に乗り入れするには、数時間要する交通網を迂回する鉄路を余儀なくされた。また今では、医療業界で普及しているトリアージの存在は、この時初めて実施された。震災後の混乱の最中、トリアージの概念を適応し、運ばれて来る患者の中から助かる人を最優先させる処置を取った兵庫県立淡路病院の医師や看護師の皆様方。混乱する医療現場で、助かる助からないと命の選別を不可避にさせた大災害に、ただただ私達は為す術もない。家を損壊し押し潰され圧死した人々、損壊した家に挟まれ迫り来る炎に生きたまま巻かれた子ども達。家も仕事も思い出も、何かもを奪われ、路頭に放り出された被災者達。命があるだけめっけもん、命拾いしたと言う人もいるが、あの過酷な状況の中、その言葉を口にできるだけ、皆さん人間ができている。映画『港に灯がともる』は、阪神・淡路大震災の翌月に神戸市長田で生まれた在日コリアン三世の女性・灯(あかり)の葛藤や成長を描いた作品。それでも、1995年の時だけが止まったままの人々が、たくさんいる事を忘れてはいけない。
地震は、いつ何時、どこで、どのタイミングで起きるのか、科学者でさえも誰も予測できない。ある日突然揺れたかと思えば、命だけでなく、人生や生活のすべてを奪い去る。その時に亡くなる人、生き残る人で命運は別れてしまうが、命が尽きるのは非常に残念ではあるが、生き残ったとしても生き地獄が待っているだけだ。震災の記憶に苦しむ者、生死の境を彷徨う者、後遺症やPTSDを発症し長く病気と向き合う者、あの日の記憶は簡単に忘れる事はできない。災害とは、そういうものだ。この首都直下型地震である阪神・淡路大震災は、当時の観測史上最大と言われ、いかに震災と向き合うのか問われた震災元年の契機となった地震だ。阪神大震災以降、近年に至るまで数多くの地震や震災の危機を乗り越えて来た日本。その原動力となったのは、紛れもなく、阪神・淡路大震災の経験があったからだろう。令和6年能登半島地震、新潟県中越沖地震、東日本大震災、熊本地震、平成30年北海道胆振東部地震、大阪北部地震、鳥取県西部地震、芸予地震、十勝沖地震、岩手・宮城内陸地震、能登半島地震(年代順不同)(※1)が発生しているが、これは名前が付いている災害名だけで、ごく一部に過ぎない。ピンからキリまで、多くの震災が数日から数週間単位で常に起きている。また国内に限らず、世界規模で地震が発生しているが、つい先日、2025年1月21日午前0時17分(台湾時間)、嘉義県を震源としてマグニチュード6.4が台湾南部(※2)で発生した。日本の震災史において、戦前戦中戦後に起きた鳥取地震、昭和東南海地震、三河地震、南海地震は歴史に埋もれた四大地震(※3)として記憶に留めておきたい。他にも海外では、過去にチリ地震、カリフォルニア地震、四川地震と大規模な地震が、世界各国で起きている。そして私自身、様々な国の年代の発生した地震を震災史として辿ってみて、今新たに発見した事がある。たとえば、国内の震災において、平成19年(2007年)に起きた能登半島地震と令和6年(2024年)に起きた能登半島地震は、まったく同じ地域で起きている。にも関わらず、被害が同じように発生しているその背景には、国や政府、地方自治体、地方含む政治家、国家公務員達の怠慢が、再び悲劇を引き起こしている。彼等は、日本に暮らす国民の為に何をして来たのか?この同地区で起きた2つの震災を通して、私達は何かを学習できるだろう。私達は、次の震災に向けて、民間レベルで取り組まなければならない事がある。それは、地域の結束力や団結力だ。近年、他者との距離感や地域内での交流が希薄となっている背景があるが、今だからこそ、震災30年を節目に、今一度、私達ができることを探さなければならない。携帯の画面をばかりを見つめるのではなく、目の前にいる人の顔、隣に暮らす人の顔、確認しません?相手を知り、譲り合い、助け合う事が次に起きるであろう震災を生き抜き、乗り越える術となるだろう。
本作『港に灯がともる』に登場する主人公の女性・灯は、阪神・淡路大震災の翌月に生まれた在日コリアン三世として被災者二世として、様々な葛藤の中にいる。でも、震災で苦しんでいるのは彼女だけではない。彼女の苦悩は、すべてにおける氷山の一角に過ぎず、今もどこで震災によって苦しみつつも、声を発せていない人々は神戸の街のどこかに暮らしている。未明の大地震により、神戸の街並みは一瞬にして瓦礫の山となり、至る所で火災が発生した大災害。30年前の今、日本は混乱の中に身を投じた。高速道路は、数百メートルの間で倒壊し、駅舎は押し潰され、電車のレールは見事に歪み、道路の至る所で陥没が起こり、その結果、救急車や消防車といった緊急車両が走れず、消火活動やレスキューに遅れを生じさせた。また、防火水槽の水が無くなり、消火活動ができなくなり、燃え移る火を食い止める事ができず、悔しさを滲ませる消防士。真冬の極寒の中、文句一つ言わず、バケツリレーを繰り返す住民達。トイレは汚物で溢れ、衛生環境は極限。炊き出しやスーパーの開店に並ぶ長蛇の列。よく地獄のような被災の日々を生き抜き、乗り越えた来たのだろうと、同じ関西地区に住む私は胸を痛ませるが、神戸の市民達は互いを助け合い、励まし合って、地獄のような被災の日々を乗り越えて来たのだろう。実際に、「地震がなければ…」(※)と30年経った今でも思い続け、自身を覚め続けている人の想いに寄り添って欲しい。1995年は、「ボランティア元年」(※5)そう呼ばれた年。神戸の被災地には、多くのボランティアの方々が押し掛けた(その一方で、様々な問題も浮上したのも事実であり、ボランティアへのガイドラインが設けられたのは阪神・淡路大震災以降からだ)。私達日本人が今、忘れつつある事は奉仕の精神、助け合いの心だろう。先述したように、人間関係や地域交流が希薄になりつつある昨今、私達は自身のこの瞼で何を見つめなければならないのか、再度立ち止まり考える必要があるだろう。映画『港に灯がともる』を制作した安達もじり監督は、あるインタビューにて本作の「大切なものは何か」について、こう話している。
安達監督:「人と人って理解し合いたいけれど、どこかで絶対理解し合えないものでもある。それでもともに同じ時間を生きなければならないという現実がある中で、どう生きていくのか。その答えは人それぞれです。灯と家族はあくまでもその一例で、あの家族がハッピーエンドのような形を迎えるにはすごく時間が掛かることだと思うし、そこを急いで描くと綺麗事に見えてしまう。この作品は“時間”を描くものなのだと、作りながらそう感じていました。」(※6)と話す。時間は、人によって感覚が違う。この30年間があっという間に過ぎたと感じる人もいれば、長く暗いトンネルをゆっくりと通り抜けるような感覚を持って過ごして来た方もいただろう。時間が持つ概念は人によって違うかもしれないが、それでも、確かにここに居た。今日、今を、この時間を生きている事実は変わらない。私達人間が平等に一律に持っている「時間」の大切さについて、再度考え直したいところだ。
最後に、映画『港に灯がともる』は、阪神・淡路大震災の翌月に神戸市長田で生まれた在日コリアン三世の女性・灯(あかり)の葛藤や成長を描いた作品だが、この女性の苦しみは全体に対しての氷山の一角に過ぎない。彼女の痛み苦しみ焦燥感は、今現実の世界の神戸で暮らす方々の心にズシッとのしかかっている。私達日本人は皆、その事を忘れないでおきたい。この30年の間に、神戸の街は驚くほどの速さで復興を成し遂げた。あの時の震災の光景は、どこにも見当たらない程、街全体が生まれ変わり、当時の活気を取り戻そうとしている。昨年2024年には、復興事業は完了(※7)したと言う。でも私自身、同じ関西人としてここ10年、毎年毎年、この日を追って来て、実感した事がある。それは、毎年の震災の日になると、必ずと言って良いほど、上がって来る当時被災した市民の心の苦しみだ。今年、やっとその声が減ったと実感するも、まだまだ癒されず、あの日のまま時計の針が止まってしまった方(※)が多く存在しているのだろうと…。昨年取り上げられていた男性の数奇の人生には、同世代の関西人として涙無しで見られない。街の復興は見える部分にしか着手せず、手付かずの部分も多くあると聞く。報道では、「街は復興した、街は復興した」とよく耳にするが、私はそうは思えない。復興とは、その街に住む人々の生活に活気が溢れる事を「復興」というのではないだろうか?多くの神戸市民が、あの日に取り残され、止まったままの時間を過ごしている。この30年間、市の職員は市民の心のケアに邁進したであろうが、これはもう、市の行政レベルではなく、国全体の国策として取り組む必要がある事案だ。これからの30年は、市井の人々の「心の復興」が最優先され、数多くある震災後のモデルケースとして音頭を取って欲しい。その点で言えば、「心の復興」はまだまだ時間がかかるが、この先の未来を豊かにする唯一の方法では無いだろうか?「港に灯がともる頃」これは、体験者の実際の体験の話だが、阪神・淡路大震災が起きた1月17日の夜。ガスも電気も水道もライフラインのすべてが機能しない中、避難所の窓から見えた港側にあるハーパーランドに初めて灯が灯った時、人々はすすり泣き、歓声を上げ、涙したと言う。それは、被災における希望の光であり、あの日から今日までの30年間の道を照らし続けた唯一の光だったのだろう。今、世代は変わりつつあり、あの日の体験を語れる語り部が少なくなる今、次の30年は震災を知らない若い世代が市民の心に寄り添い、「心の復興」を手助けする存在になって欲しいと願うばかりだ。神戸の更なる復興は、次の世代に今、引き継がれている。神戸の被災地で生まれた合唱曲「しあわせ運べるように」(※9)が人々の「心の復興」のシンボルになったように、次の世代の、そのまた次の世代に「心の復興」を継承する事が望ましいだろう。
映画『港に灯がともる』は現在、全国の劇場にて公開中。
(※1)日本付近で発生した主な被害地震(平成8年以降)https://www.data.jma.go.jp/eqev/data/higai/higai1996-new.html(2025年1月23日)
(※2)台湾|地震の発生(最大震度6弱)https://www.tokutenryoko.com/news/passage/17810(2025年1月23日)
(※3)歴史に埋もれた4大地震https://www.f-daiichi.jp/blog/kazuyuki_yamamoto/5456/#:~:text=%E5%AE%9F%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AB%E5%9F%8B%E3%82%82%E3%82%8C%E3%81%9F,%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82(2025年1月23日)
(※4)連載:亡き子と家族の30年 阪神・淡路大震災 第3回 「弟と地震の記憶が欲しい」 生後4カ月で消えた命と家族の30年https://www.asahi.com/articles/AST1D31H3T1DPQIP014M.html(2025年1月23日)
(※5)阪神淡路大震災から30年 減少する震災経験者 記憶を語り継ぐため「よりそう」神戸の街 復興に力を果たした「ボランティア」の力を能登へ 全国へhttps://news.yahoo.co.jp/articles/36abbc34b96f5c21a717fa5a7e9e6b1ebb6a2dc0(2025年1月23日)
(※6)『港に灯がともる』安達もじり監督 × 富田望生 大事にしたのは“時間”を描くこと【Director’s Interview Vol. 465】https://cinemore.jp/jp/news-feature/3828/article_p1.html(2025年1月23日)
(※7)阪神・淡路大震災から30年 復興事業は昨年完了、財政に負担残る
https://www.asahi.com/articles/AST1J2PCZT1JPTIL003M.html(2025年1月23日)
(※8)「助けられずごめんなさい」あの日の帰路から癒えない傷 阪神大震災https://mainichi.jp/articles/20250121/k00/00m/040/337000c(2025年1月23日)
(※9)初めて公の場で歌った児童が30年ぶりに“原点”の地で再現 各地の被災地で受け止めた人々は… 「♪ しあわせ運べるように」 の30年 【阪神・淡路大震災30年】https://www.ytv.co.jp/ten/corner/other/ffm5uf8ibbikglxl.html(2025年1月23日)