映画『葬送のカーネーション』力強くも小さな小さな希望

映画『葬送のカーネーション』力強くも小さな小さな希望

リアリズムと虚構《ファンタジー》が交差する映画『葬送のカーネーション』

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「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」

これは、中国の儒教の創始者である孔子が、生き方すら分からないのに、死後の世界についても理解できることはないと放った言葉だ。世界の偉人であっても、「死」「死後の世界」は分からないものである。そもそも孔子は、生き方すら分からないと言っているように、人はどうやって生きれば良いのかさえ、分からない生き物だ。私達は、どこから産まれ、何のために産まれたのか?その目的は、如何なものか?そして、なぜ老いて、死んで行くのか?その疑問は、紀元前からずっと研究されて来た事ではあるものの、その答えは誰にも見い出せていない。なぜ、私達は生を受けて、死を受け入れるのか?そして、その死の先には何が待ち受けるのか?それは、死んだ者しか分からない究極の聖地だ。生がある者、いずれ死に行く運命だ。生が何を意味するのか、死が何を意味するのか?生と死の間(※1)で生きる私達にとって、生きる事や死ぬ事はコインのような表裏一体の存在だと言われる。それならば、私達が生きる一人一人の人生は、ギャンブルみたいなようなもの。勝つか負けるか分からない中、ただ一つ言えるのは、私達は私達の人生を誰よりも一番、楽しむべきである。人生とは、生と死とは、誰よりも楽しんだ者が勝ちである。それこそが、人生という名のギャンブルなのだ。映画『葬送のカーネーション』は、亡き妻を埋葬するため棺を背負って歩き続けるトルコ人の老人と孫娘の姿を非常に静謐に描いた作品だ。本作は、ヒューマン・ドラマ、ロードムービーと言うジャンルとして区分けする事もできるが、その根底にあるのは人の「生死」に関する荘厳なテーマが横たわる。実際には異様な光景に映るかもしれないが、死体を運ぶ行為こそに崇高な思想があると言える。日本人の日々の習慣の中で、死体を運搬するという光景は、既に非日常だろう。ちゃんとした納棺師がいて、斉場があり、火葬場がある。どこかの墓地に棺桶ごと埋葬する事がない私達日本人にとって、この老人と孫娘の姿は歪な光景に写るかもしれないが、目的地へ死体を運ぶ行為に対して、私達は何を思うのか、じっくり考えて欲しい。でも、この老人と孫娘が、埋葬地を求めて旅をする姿は、もしかしたら、能登半島地震の被害に遭われたご遺族の姿にも少しだけリンクするのかもしれない。少し不謹慎に感じる方もおられるかもしれないが、現在、火葬場が被災した被災地(※2)では、遠く離れた斉場にまで御棺を運ばなければならない状況は、「遺体を運ぶ」と言う行為に何かしらの意味がある。ある種の運命に引き寄せられ、何かしらの意味があるからこそ、私達は時に遺体を運搬しなければならない。それは、異様にも感じるが、家族の亡骸を運ぶのは神聖な行為でもある。

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また葬儀屋ではない一般の人が、棺桶を運んで、死者を弔うのは罪か、そうでは無いかと問われれば罪ではない(※3)。でも、遺体の処理に困って、葬儀もせず、家で放置するのは死体遺棄罪(※4)が成立するのは、周知の事実だ。衛生面や感染予防の観点から言えば、推奨はされていないようだが、自身の生涯で最も大切な家族や人を最後に弔う行為に対して、誰が異を唱える事ができるだろうか?夫婦であるなら、結婚してからウン10年、親子であるなら産まれてから(出産してから)、ウン10年の歳月を家族として過ごして来た大事な人と最後の日々、もしくは最後の数時間を過ごす事こそが、尊い時間でもある。大切な家族の遺体に哀悼の意を捧げながら、最後の旅をする老人と孫娘は、内戦が続くトルコの社会情勢に弾かれた小市民だ。最後に、妻が産まれ育った故郷に亡骸を埋葬したいと身一つで棺桶を運ぶ旅の道中は、誰もが想像絶するほどの苦難の連続だろう。あまり日本では遠方への遺体の運搬の話は聞くことはないだろうが、今回の能登半島地震と同様に、今からおよそ13年前の2011年3月11日に起きた東日本大震災の時、東北地方での火葬が対応できなくなった結果、多くの身元不明の遺体が東京で荼毘に付された事(※6)を、ほとんどの日本人は知らないのではないだろうか?海外では、内戦が多発する地域もあるだろうが、日本の場合は何かしら有事の時、自然災害が起きた時、本作の老人と孫娘のように、荼毘に付すために家族の遺体を遠方へ送り出さなければならない時が来る。そんな時が来ない事が一番の願いではあるが、いつ何時、大災害が起きるか分からないからこそ、私達はその来たる有事に備えて、家族の遺体の運搬をどうするのか、今からでも家族同士で話し合う必要があるのかもしれない。自身の人生の最期をどう彩り、どう飾るのかは、今生きている間に考える事。また生きて来た人生の生き様そのものが、人生の終焉に現れることを念頭に起きながら、今を大切に生きなければいけない。大切に丁寧に生き抜いた人生だからこそ、最期のその瞬間に輝く事ができる。生きる事と死ぬ事は表裏一体であるからこそ、私達は今を真剣に生き抜く事に価値を見出した時、きっと今後、どうやって生きて行くのか、その答えを見つける事ができるだろう。本作を通して、家族と共に過ごす時間、家族がいると言う事実と存在、愛する人への感謝、大切な人が目の前にいる尋常一様が如何に高遠であるか再認識できるはずだ。

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今まで遺体を運ぶ物語の映画なんて、聞いたことがない。本作『葬送のカーネーション』は、非常に斬新なアプローチで展開される作品だ。もし同じような題材の作品を挙げるとするなら、昨年からAmazonプライムビデオで配信がオリジナル作品『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』という作品がある。国際霊柩送還士(※7)とは、海外でお亡くなりになった日本人や日本国内で死亡が確認された外国人のご遺体をご遺族の元に送り還す尊い仕事を指す。非常に荘厳な職種でもあり、人の死を扱う観点から言えば、納棺師にも近い存在だ。それでも、本作『葬送のカーネーション』に登場する老人と孫娘達が置かれている環境は、日本の環境と大きく違って来る。彼等、孫と祖父はトルコの内戦に追われて、祖国の地で祖母の棺桶を埋葬する為に奔走する。作品の背景には、現在のトルコ内戦が描かれているが、私達が日々見聞きしている戦争と言えば、ロシア・ウクライナ戦争やパレスチナのガザ地区における戦争が日夜、ニュースで取り上げられているが、2019年に起きた「トルコ軍によるシリア侵攻」(※8)が本作のバックグラウンドとして鎮座するが、この紛争は2011年に行われており、その間にトルコ側からシリアに向けた侵攻は3回、越境攻撃している。1度目は、2016年8月から2017年3月に起きたユーフラテスの盾作戦対IS。2度目は、2018年1月から同年3月に起きたオリーブの枝作戦対ロジャヴァ。最後に、3番目となる現在進行形で2019年10月から継続している平和の泉作戦対ロジャヴァが、長きに渡り戦争が続いているが、この情報が日本の一般層には届いていない。また、なぜ、シリア侵攻が行われるのか?その背景(※9)には、日本でも報道された2010年に北アフリカのチュニジアから始まり、エジプトやリビアに広がった民主化運動「アラブの春」(※10)が発端とされている。この反政府運動が大規模化し、長期化した結果、それぞれの国の背後に反政府軍のクルド人やトルコ人が援軍する形で参戦したとされる。ロシア・ウクライナ戦争やガザ地区の侵攻で傷を負った市民たち同様に、この紛争には、直接的に関係のない多トルコ国民が巻き込まれたのだろう。本作『葬送のカーネーション』に登場する妻(祖母)の遺体を運ぶ老人と孫娘は、そのトルコ国民の一部だ。彼らの背後には、戦争で犠牲となった多くのトルコ人が血を流し、涙を流し、心に深い傷を負っている。本作を制作したベキル・ビュルビュル監督は、トルコのあるインタビューで冒頭の少し分かりにくい長い結婚式と棺桶を運ぶ車には、どんな関係性があるのか問われて、逆説を話さている。

Bülbül“Bu sekans ile sufilik doğrudan bağlantılı. Yani Mevlana’nın dediği gibi: Ölüm bir düğündür. Ölüm bir düğünse doğum da bir düğündür. O kalabalığın arasından geçip de yola çıkmak bende ana rahminden çıkış hissi uyandırdı. O yüzden çok sevdim bu fikri. Senaryoyu eşimle birlikte yazdım. Ondan da benden de gelen birçok fikir var ve artık hangi fikir nereden geldi karıştırıyoruz açıkçası. Fakat bu fikri çok sevdik ve kullanmaya karar verdik.”(※11)

ビュルビュル監督:「スーフィズムは、この一連の流れと直接結びついています。つまり、メヴラーナが言ったように、「死は結婚式だ」ということです。死が結婚式なら、誕生もまた結婚式です。その人混みを抜けて道路に出たとき、子宮から出てきたような感覚がありました。だからこそ、私はこのアイデアがとても気に入りました。妻と一緒に脚本を書きました。彼と私から出たアイデアはたくさんありますが、今ではどのアイデアがどこから来たのか混乱しています。しかし、私たちはこのアイデアが気に入ったので、使用することにしました。」と話す。「死は結婚式、誕生もまた結婚式」。結婚式の参列は、女性の産道や子宮口のように「生」を意味すると話す。スクリーンを通して、その場面を冒頭に観る私達は、作品を介して、産まれ変われた存在なのかもしれない。生と死が、介在する場所は至る所に存在するが、その象徴とされるものが本作の冒頭のシーンにあると捉えても良いだろう。

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最後に、本作『葬送のカーネーション』は、生き方も死に方も知らない人間の姿を表顕的に描いた作品だ。紛争で死者を弔う神聖な場所を無くして、否応無くに祖国に追われた老人と孫娘の2人は、戦争が続くトルコ国民に対して、辟易としているのだろう。それは、紛争に限った事ではなく、何らかの有事の時にでさえも、死者を弔う為に遠方へ運ばなければならない。昨年2月にトルコやシリアでも現実とは思えないトルコ・シリア地震という巨大地震が起こった。そして、1年も経たずして、ここ日本でも1月の年明けに能登半島地震という大規模な地震が起きた。私達日本人とトルコ人は、それぞれ遠い国に暮らす異国の民の存在であるが、有事を体験した国民として同じ共同体を背負っているとシンクロさせてしまうだろう。祖国で埋葬するために、必死に棺桶を運ぶ老人と孫娘の2人は、家族と共に過ごす最後の時間を共有する。それは、何事にも変え難い非常に貴重で有意義な時間だ。そして、彼等が棺桶を運んだその先に、僅かながら小さな希望を見出そうとする。戦争も自然災害も時間が経てば、小さな希望の光が差し込むように、今回の地震で被災した方々、家族の遺体を遠方で荼毘に付さなければならなかった方々、きっとこの先には僅かながらでも、力強くも小さな小さな希望が待っていると、本作が優しく伝えてくれている。

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映画『葬送のカーネーション』は現在、全国の劇場にて上映中。

(※1)生と死についての新しい哲学https://www.acropolis.jp/articles/33(2024年1月20日)

(※2)母と兄の遺体を5時間かけライトバンで運んだ… 火葬場の被災で最後のお別れすらままならない能登の現状https://www.tokyo-np.co.jp/article/302934(2024年1月21日)

(※3)遺体を自家用車で運ぶのは違反?︱原則合法も感染予防など制限あり https://www.ja-saitamamizuho.or.jp/info/legal_2106_01.html(2024年1月21日)

(※4)死体遺棄とは|構成要件や法律上の遺棄の意味・刑法の罰則についてhttps://keiji-pro.com/columns/200/(2024年1月21日)

(※5)シリア紛争の現状は?原因や終わらない理由や難民の生活を紹介https://spaceshipearth.jp/syria-conflict/(2024年1月21日)

(※6)「ご遺体は初夏まで東京の火葬場へ搬送した」 東日本大震災で全国から霊柩車を出動させた業界の苦闘https://www.sankei.com/article/20230311-RKIJ2HBRGZHTJI7TEY22OHDR5A/(2024年1月21日)

(※7)楽しく職業理解を深めようシリーズ「国際霊柩送還士」https://public.sodateage.net/yss/tachikawa/blog_2305_2/(2024年1月21日)

(※8)パレスチナ・ガザ地区とは 「どこ?なぜ問題?」をわかりやすく解説https://eleminist.com/article/3007(2024年1月22日)

(※9)新興国・途上国のいまを知る トルコのシリア侵攻――誤算と打算https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2019/ISQ201920_036.html(2024年1月22日)

(※10)シリア紛争の現状は?原因や終わらない理由や難民の生活を紹介https://spaceshipearth.jp/syria-conflict/#%E5%86%85%E6%88%A6%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A(2024年1月22日)

(※11)Sınırdan Öteye Kendine Doğru: Bekir Bülbül ile Bir Tutam Karanfil (2022) Üzerine Söyleşi
https://filmhafizasi.com/bekir-bulbul-ile-bir-tutam-karanfil-2022-uzerine-sohbet/(2024年1月22日)