ドキュメンタリー映画『パトリシア・ハイスミスに恋して』強く願った世界に

ドキュメンタリー映画『パトリシア・ハイスミスに恋して』強く願った世界に

パトリシア・ハイスミスの知られざる素顔が明かされるドキュメンタリー映画『パトリシア・ハイスミスに恋して』

©2022 Ensemble Film / Lichtblick Film

作家パトリシア・ハイスミスは、アメリカ近現代文学史において最重要人物の一人という位置付けだ。でも、戦後アメリカにおける文壇界を席巻した彼女の足跡は、まだまだ未知のヴェールに包まれている。本作『パトリシア・ハイスミスに恋して』は、そんな彼女の知られざる真実と素顔に迫ったドキュメンタリー。アメリカ文学界では、アウトサイダー(もしくは異端児)として認識され、その作家人生の多くをヨーロッパで過ごしている。専ら、犯罪映画『太陽がいっぱい(1960)』『見知らぬ乗客(1951)』『アメリカの友人(1977)』と言った映画作品の原作に知名度があるが、その他には『死刑台に接吻(1969)』『ガラスの独房(1978)』『ふくろうの叫び(1987)』『ギリシャに消えた嘘(2014)』『リプリー 暴かれた贋作(2005)』『ライク・ア・キラー 妻を殺したかった男(2016)』と数多くのパトリシア・ハイスミス作品が、近代にかけて映像化されている稀代の名作家だ。当時の女性ミステリー作家アガサ・クリスティとは、人気を二分するサスペンスの女帝として一時代を築いたが、その反面、パトリシア・ハイスミス自身の私生活は、ほとんど語られていない。そんな中でも、彼女自身は同性愛者(ないしは、両性愛者)として公言しているが、自身の作品に色が付きたくないという理由で、小説『キャロル(The Price of Salt)』はクレア・モーガン名義で執筆しているのは、非常に有名な話だ。2015年には、映画『キャロル』として初めて映像化され、全世界で人気が高まったのは記憶に新しいが、私達は同性愛者というパトリシア・ハイスミス本人や彼女が生きた時代背景を知らずにいるのも事実だろう。本作は、そんな私達に開眼する何か手助けをしてくれる作品にもなっている。

©2022 Ensemble Film / Lichtblick Film

先にも書いたように、クレア・モーガン名義で書いた小説『キャロル(The Price of Salt)』の内容は出版当時、非常に文壇界を大いに賑わせ、賛否両論の嵐が起きた。その内情は自身のレズビアンとしての実体験を織り交ぜつつ、同性愛の世界を赤裸々にかつ情欲的に描き、そして物語のラストをハッピーエンドとして描いている点。この小説が発表された当時、同性愛という観点で言えば、今の時代ほど、オープンでもなく、許容された時代とは言えなかった。そんな時代背景にも関わらず、クレア・モーガンという偽名ではあるものの、パトリシア・ハイスミスが当時の社会に投げかけた問題提起は凄まじかったのだろう。この時代は、今では想像できないほど、同性愛に対しては差別的で保守的だったに違いない。『キャロル』という小説が世に出たのは、1952年。戦後間もないアメリカでは、日本とのサンフランシスコ平和条約(日米安全保障条約(正式には、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」)が締結された年。まだまだ太平洋戦争の影響が色濃く残る年代ではあったが、それでも時代は前へ前へと前進しようとしていた時代でもある。同性愛の世界の観点から言えば、この1950年代前後にして、マイノリティの人々が少しずつ、自身の声を世間に対して発そうしていた時代でもある。当時のロサンゼルスでは、アメリカ初の同性愛者団体 マタシン協会(マタチーネ協会)が創設され、スウェーデンでは スウェーデン・レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー権利連合 (RFSL) が立ち上がった。1952年には、フランスで最初の同性愛者団体アルカディーが結成された。また1951年にはギリシア、1956年にはタイ王国で同性愛を非犯罪化する動きが起きた。ただ、その一方で、アメリカ合衆国で「ホモ狩り」が始まり、190人が性的指向を理由に政府から解雇される強烈な差別も起きていた事も事実として受け止めなければならない。世界的に見て、同性愛に対する認知と許容、そして差別偏見が大きく入り乱れたこの時代に、パトリシア・ハイスミスが自身の実体験を基に書き上げた小説『キャロル』が、この時代に登場したのは大いに意義深いだろう。この物語が、同性愛という問題に対して、当時の人々がどう対処する必要があるのかを指し示したと言っても過言ではないだろうか?本作『パトリシア・ハイスミスに恋して』は、2021年に刊行された『Her Diaries and Notebooks:1941-1995』を基にして制作された作品だが、本作を監督したパトリシア・ハイスミスを敬愛するスイス人の女性監督エバ・ビティヤさんは、映画『パトリシア・ハイスミスに恋して』における彼女自身がレズビアンであったという事実や人生の中の重要性について聞かれて、インタビューにてこう答えている。

Eva Vitija:“Auf jeden Fall. Vor allem die Tatsache, dass jemand ein Doppelleben führt – was in jener Zeit ganz normal war, wenn man lesbisch war –, ist schon sehr entscheidend. Und es hat auch ihr Werk extrem geprägt. Das geschah eher indirekt. Zum Beispiel beschäftigte sie sich häufig mit Fragen der Identität. Was hat man überhaupt für eine Identität? Und steckt da nicht immer noch eine andere Identität dahinter? Highsmith ist 1921 in Texas geboren und in einem konservativen Milieu aufgewachsen. Man kann sich vorstellen, was das in Bezug auf die Haltung gegenüber Homosexualität bedeutete. Da war nichts möglich. Beziehungsweise es war alles möglich, aber nur versteckt. Es gab ja auch in den USA damals eine unglaublich schillernde Welt der Homosexualität, viele Bars, Clubs und so weiter, wo man seine Sexualität und seine Liebe ausleben konnte. Aber offiziell war man natürlich nicht lesbisch.”(※1)

ヴィティヤ監督:「何よりもまず、誰かが二重生活を送っている事実は非常に重要です。レズビアンであれば、当時はそれが普通のことでした。そして、それは彼女の仕事にも大きな影響を与えていたのでしょう。たとえば、彼女は物語にアイデンティティの問題を扱うことがありました。一体、どんなアイデンティティを持っているのでしょうか?そして、その背後にはまだ別のアイデンティティがあるのではないでしょうか?ハイスミスは1921 年にテキサスで生まれ、保守的な環境で育っています。これが、同性愛に対する態度の観点から何を意味するか想像できるでしょう。そこでは、同性愛者として何もできませんでした。すべてが可能だったはずですが、すべてを隠されているだけでした。ただ彼女は、自身のセクシャリティとして、愛に生きる選択肢をしただけです。」と、作家パトリシア・ハイスミスは自身のセクシャリティを受け入れ、その愛の中で懸命に生き、性を貫き通したと、本作を制作したヴィティヤ監督は話す。

©2022 Ensemble Film / Lichtblick Film

最後に、パトリシア・ハイスミスは同性愛に対して差別意識の高い時代に作家として活動しながらも、自身の性自認はどこまでも正直であった。生涯、レズビアンとして生きた彼女は、自身の作家人生における処女作となった小説『キャロル(The Price of Salt)』で同性愛者同士のハッピーエンドを描いている。これは、彼女自身が社会や世の中に求めた事実ではないだろうか?およそ、70年前に書かれたLGBTQを題材にした小説は、70年後の今日においても、社会で非常に重要な位置を示している。それでも今の世の中は、パトリシア・ハイスミスが願った世界にほんの少しでも近付いていると言えるだろうか?確かに、小説『キャロル(The Price of Salt)』が登場した当時の同性愛者を取り巻く時代背景や環境は、年を経る毎に格段と改善されているのは事実ではあるが、恐らく、パトリシア・ハイスミスが強く願った世界はまだまだ先のようにも感じて止まない。近年、日本国内では性的マイノリティーの方から発せられる自身の権利に対して、世の中はまだ当事者たちに冷たい言葉を投げている。それは、人間の無意識の深層心理の下にある差別意識が問題でもある。一方、パトリシア・ハイスミスの出生地アメリカでは、米国の連邦最高裁がある同性カップルへのサービス拒否は“表現の自由”(※2)という結論を裁判で示した裁決が今年7月、世界で大きく報道された。この事実に対し、アメリカのバイデン大統領は「今回の判断が性的マイノリティーの人たちに対する差別を助長しかねないことを深刻に懸念している。判断は人種的なマイノリティーや障害がある人、女性を含むすべてのアメリカ人を長年、差別から守っている法律を弱体化させるものでもある」と述べ、性的マイノリティーの方々の権利を保護する法律を早急に可決するよう議会に投げ掛けた。同性愛者に対する環境が変わりつつある昨今、それでも差別や偏見は世界中のどこにでもある。果たして、パトリシア・ハイスミスが小説『キャロル(The Price of Salt)』で願った社会が、日本のみならず、世界中に存在するのだろうか?95年に亡くなった彼女が、もし今の時代に生きていたら、今のこの問題に対して、何を思うだろうか?本作『パトリシア・ハイスミスに恋して』は、作者本人が心から強く願った世界に生まれ変わるように全世界に問いかけているようだ。

©2022 Ensemble Film / Lichtblick Film

ドキュメンタリー映画『パトリシア・ハイスミスに恋して』は現在、全国の劇場にて公開中。

(※1)«Sie ist ja eine Spezialistin für Abgründe»https://www.woz.ch/2202/loving-highsmith/sie-ist-ja-eine-spezialistin-fuer-abgruende(2023年11月5日)

(※2)米連邦最高裁 同性カップルへのサービス拒否は“表現の自由”https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230701/k10014115211000.html(2023年11月6日)