次の世代に残してはいけない問題がここにある映画『遠いところ』工藤将亮監督インタビュー
—–映画『遠いところ』の制作経緯を教えて頂きますか?
工藤監督:制作経緯は、僕が助監督時代、様々な映画監督の下に付く事があったんです。その中でも東陽一監督が、沖縄を題材にしたドキュメンタリー映画を撮っていました。その時、僕はシグロという会社に在籍し助監督をしていましたが、その会社には、ジャン・ユンカーマン監督制作の沖縄を舞台にした映画『沖縄 うりずんの雨』を通して、僕自身が沖縄の特異性を知る契機となったんです。これをきっかけとして、今回のテーマの基となった若年母子、シングルマザー、DVや若年層の貧困問題を取り扱ったルポタージュやノンフィクション、社会学者さんが書かれた学術書を読み漁り、デビュー作を撮り終わった後、まず自分が向き合う題材はこれなんだと、発展した所から本作の制作が始まりました。
—–タイトルの『遠いところ』に込められた監督の想いをなど、お聞かせて願いますか?
工藤監督:たくさんあるんですが、例えば、僕は内地の人間です。主人公のアオイは、ウチナンチュ(沖縄の若い女性)です。性別も違えば、環境も違う。物凄く「遠いところ」にいる僕が、彼女を撮る。その意味は、何だろうか?彼女から遠いところにいる人達。なぜ、アオイのような声は、遠いところの人達には届かないのだろうか?ましてや、アオイ達はどこに行きたかったんだろう?遠いところに行きたいとミオは言って、遠くに行ってしまいましたが、アオイが行くべき遠いところは、どこなんだろうか?此処じゃない、何処かはどこにあるのだろうか?沖縄と日本、同じ国としてカテゴライズされていますが、この2つの地域は遠いところに位置しています。中国やアメリカ、日本ではない所の彼らから見た沖縄もまた、遠いところです。そんな社会的背景や若年母子、様々な所に色々な意味を、一つや二つではなく、たくさん込められている場所が沖縄であり、昔からずっと沖縄の方々が抱えている、また彼らのDNAに組み込まれているような遠いところに対する希求や想いを込めました。
—–主人公のアオイは私から見て、特別な存在として描いてないように写りましたが、監督にとって、アオイという人物像を、どう捉えておられますか?
工藤監督:アオイとは、僕の分身です。また、僕の母の分身、僕のおばあちゃんの分身、また僕が今まで沖縄で取材して来た何十人、何百人という若年母子の母親や若いキャバクラ嬢と話して来た結果、彼女達の分身でもあるんです。一人の美しい存在でもあります。色々な人の美しい部分が、入っているのがアオイです。
—–沖縄を舞台にした作品ですが、ロケ地が非常に印象的でした。メインストリートではなく、冒頭の路地裏など、沖縄の見えていない部分をロケーションする事によって、作品への効果はどう活かされましたか?
工藤監督:僕が選んだ意味では、その場所に特異性を含めた訳ではありません。彼ら彼女らを取材して行く中、必然的に出てきた場所、出会った場所です。あの映像に映っている、映画の中に登場する風景は、必然から産まれた構図で切り取っているんです。その場所や風景にアオイがいるのは、必要不可欠である事を重要視して選んだ場所です。限りなく、彼女達にとって、映画にとって必要な場所でした。
—–本作か取り上げておられる題材は、どこの地域でも見られる事案かと思いますが、沖縄を作品の舞台にする事によって得られる影響力について、監督はどう考えておられますか?
工藤監督:沖縄でしか起こらない事も、中にはあります。この沖縄でこの少女たちが、なぜこのような状況に陥るのかと言う社会背景の構造やそこにピントを合わせたりはしていません。ですが、必ず当事者や沖縄在住者、沖縄の社会情勢に詳しい方から見た時、必ず見えて来ない事に対して、どう思うのかというアプローチも含まれてもいます。必ず、これは沖縄の問題である。ただ、沖縄の問題ではあるものの、沖縄は日本です。ではなぜ、日本の方々がこんなにも沖縄が彼女達の貧困に代表されるような様々な社会的な理不尽さを背負わされているにも関わらず、日本という国の僕たちは、遠いところからしか、それを傍観していられるのであろうか?そんな目線を込めています。この映画を描く時、僕達は社会に影響させて、何かを変えようという意識は絶対に持たないでいようと話し合いました。プロデューサーや制作スタッフとも話し合いを重ね、政治家に対してこの作品を観てもらおうという意思は込めていません。ただ僕達は、この映画を観た時、社会が変わってしまう可能性はあると、逆に危惧しています。危険性を踏まえた上で、大事に題材を取り上げようと決めて行きました。
—–「社会が変わってしまう」とは、どう変わってしまうのでしょうか?
工藤監督:変わってしまうという意見で言えば、この作品が取り上げている題材に対して知らなかった人達が知った時、悪意を持って観たとするなら、今まで知らなかった事に人々が目を向けた時、本来、彼女達を救うべき目線が、敵になる可能性もあります。その点は、非常に危惧しています。また、絶対にケアしないといけない部分です。今お話した結果にならないように、僕達は最善の努力を尽くしました。
—–作品の制作前と完成後で、監督自身、若年母子、貧困問題、片親世代の問題への認識や見方への変化は、ございましたか?
工藤監督:僕は映画を通して社会的な何かメッセージを伝えたいと思って、作っている訳ではありません。物凄く極私的な理由で映画を作っていて、その理由の一つとして、知らなかった事を知る。自分が、この映画を作る前までの6年前は、沖縄の事を何も知らなかったんです。作品を作りながら、自分も変わっていきたいんです。そうでないと、母が自分を育ててくれた時に、どんな気持ちだったかと分かってあげられないと思うんです。それはやっぱり、人を変えるのではなく、自分を変えなきゃいけないという意思のみで作っていました。制作する前と作品が完成した今では、もちろん考え方は違います。沖縄に対しての認識や彼女達に対する愛情や眼差しは、どんどん自分の中で変わって来ました。
—–今だからこそ、何か感じるものはございますか?
工藤監督:エンディングでの演出から見えるもの、あの方法を取ったのは、映画がお客さんとの対話ができる唯一の場面だと思っているんです。アオイが、最後のあの姿を見た時に、社会を通してお客さんがどう見るかに、僕は希望を見出したかったんです。だけど、その半分、もしくは倍以上、この社会に絶望する人が多くいて、自分が今出来ること、映画を作る事を精一杯して、こんなにも社会に絶望を抱いているんだと思う事もある。だけど、その中に一人でも二人でも、この映画のラストシーンに希望を見出してくれる社会であるべきだなと、僕は思っているんです。自分は、その希望をずっと探し続けて行くんだろうなと、感じています。
—–あるインタビューの引用ですが、監督は「俳優さんが演じる事で、彼女達の奥底にある本音に迫ることができる」と仰られていますが、その「本音」を具体的にお話できますでしょうか?
工藤監督:佐久間さん演じる主人公の旦那役マサヤというキャラクターは、殴った事実やDVをしてしまった男は造作もなく描くことができますが、彼が取ったアクションや表現についですが、終盤のアオイのお母さんに詰め掛ける場面、あのシーンは台本上、暴力を振るってしまう場面ですが、彼は最後まで暴力を振るえないんです。あの演技こそが、役者の腹の底から出てきた姿だと思っています。あの場面に遭遇した当事者たちはきっと、殴れないんです。なぜなら、彼も社会の被害者であり、弱者だからなんです。それが役者の中から出てきた時、僕は感動しました。あの場面は、その時の演出方法でしか出せない演技が出て来たと思っています。
—–もう一点、インタビューの引用ではございますが、「人間を描く事は自分の映画の根幹にある。」と話していますが、監督の作品の根幹部分である「人間を描く」ことによって、作品がどう向上したと思われますか?
工藤監督:僕の中では、向上したと思っていないんです。ただ、愚直にアオイという人物を描きました。その周りの人間たち含めて、一生懸命描きました。そうする事によって、作品の純度や純粋さは、グッと上がったと思っています。それは、ひたむきに、沖縄と当事者たちと向き合ったからです。それは、ある種、僕の中での成果でもあり、自信にも繋がりました。映画全体で向上したかわかりませんが、今回で言えば、それを突き詰めた故に、より純粋な、より自分にしか作れない作品ができたのかなと、今は思っています。
—–最後に、本作『遠いところ』が今後、どのような道を歩んで欲しいや、また作品に対する展望はございすか?
工藤監督:僕の手を離れているので、僕がもう、この作品をコントロールする事はできません。ただ、願いがあるとするならば、この映画を広い視野を持って観て頂きたいです。その時に感じた社会の眼差しが絶望ではなく、明るい希望に繋げて行けるような作品になればいいのかなと思います。ただただ、それを願うばかりです。
—–貴重なお話、ありがとうございました。
映画『遠いところ』は現在、関西では大阪府の7月14日(金)よりシネ・リーブル梅田、シネマート心斎橋。京都府のアップリンク京都にて、上映中。7月21日(金)より兵庫県のシネ・リーブル神戸。8月25日(金)より兵庫県のシネ・ピピア。9月2日(土)よりシネ・ヌーヴォXにて上映予定。また、全国の劇場にて、順次公開予定。