映画『クレマチスの窓辺』永岡俊幸監督インタビュー
—–まず初めに、本作の着想を教えて頂けますか?
永岡監督:元々は、「バカンスもの」というジャンルで企画が、始まりました。
日本でしたら、一週間ほどでも長期休暇だと思いますが、その限られた時間の中で様々な人に出会って、帰っていくという設定をやろうとしました。
たまたま、一緒に脚本(ほん)を共同執筆してくれた木島悠翔さんという方がおられます。
彼は島根県出身で、たまたま映画祭で僕の前作を観に来てくれた方です。
その時にご挨拶して、話しかけてくれました。「君も島根県出身だよね?一緒に島根県を主体に企画を立ち上げたいね。」という話から、本作の企画が始まりました。
—–タイトルが『クレマチスの窓辺』に決まった経緯を教えて頂きますか?
永岡監督:元々、「窓辺」というキーワードでお芝居を作ることを考えておりました。
最初は、「窓」という仮タイトルが付いておりました。「窓辺」を軸に、話を組み立ててみようと物語の設定が、決まりました。
窓から出入りだったり、窓から目撃したり、色々「窓」に纏わるエピソードはあると思いますが、「窓辺」を中心に話を展開させようと考えておりました。
僕自身は「花」に関しては詳しくないんですが、ちょうど、「クレマチス」という花の特集を組まれている雑誌が、偶然コンビニの雑誌コーナーに陳列されておりました。
今まで聞いたことのない花だったんです。その花の感じがすごく興味をそそられて、「なんだこれ?」と表紙をパラパラと捲ってみて、初めてこの「クレマチス」の花の存在を知りました。
園芸植物の中では、蔓性植物の女王とも呼ばれているみたいです。
花言葉は「精神の美」「旅人の喜び」「策略」という、どれも目を引く言葉があって、好奇心が膨らむんですよね。
「策略」という毒の要素を含みつつ、美しい花という立場が面白いですよね。
しかも、「旅人の喜び」という点が、本作とピッタリかと思って、タイトルとして付けました。
—–花言葉の「旅人の喜び」と「窓辺」というキーワードを、お話をお聞きする中で、これから起こりうるであろうアクションや動きを何か象徴しているようにも感じ取らせて頂きました。
永岡監督:だから、「窓」ではなくて、「窓辺」でないといけいないと、考えました。人のいる空間を大切にしました。
「窓」だと、ただの物としての「窓」になってしまいますが、それを「窓辺」とすると、空間になるんですよね。そこでのお芝居、物語にすることが、できるんじゃないかと思いました。
—–島根県の松江市をロケ地にしておりますが、そこに決めた理由を教えて頂けないでしょうか?
永岡監督:僕自身は島根県出身で、益田市という町の出身なんです。
松江市は、15歳から18歳の学生時代の3年間を過ごしました。そこに馴染んでいたかと言えば、馴染んではなかったんですね。
寮と学校の往復でした。なので、自分自身の要素は考慮せずに、すごく客観的に見れるんです。
町そのものを客観的に見れますし、先入観的なものを除外して、作品に取り組めました。
まだ土地勘もありますし水辺の町というところで、ロメール的なバカンス映画という側面を組み込めるかなと、考えました。
その点は、作品とピッタリ嵌ったのかなと、改めて思うところがあります。
—–物語の冒頭と終盤の「カーテンの開閉」の演出は、どういう意図がございますか?
永岡監督:僕は「映画」そのものが、「窓」だと思っております。
「スクリーン」は、「窓」の形に似てますよね?「窓」を通して、外の世界を観れるように、「映画」や「スクリーン」を通して色んな風景や人、物語や音楽を知ることができます。
それが、「窓」に似ているなと感じていいました。映画館での映画が始まる時「カーテン」が開き、映像が投影される手順もそうです。
物語の始まりと終わりに、「窓」のカーテンが開閉しているのをやろうと決めておりました。
「映画館」のような事をしてみたかったのです。
—–シナリオの構成も気になりましたが、「1日目」「2日目」と区切り、物語を展開させる手法が最近、他の作品でも見受けられますが、この構成にした意図は何でしょうか?
永岡監督:やはり、「バカンス映画」という様相を、この手法に落とし込んでおります。
この方法は、完全にE・ロメールの作品から影響を受けております。
—–この手法は、E・ロメールを採用しておられるのですね。
永岡監督:そうですね。E・ロメールの映画にも、同じ構成の作品がございます。
映画『緑の光線』が、まさにその手法を用いて製作しております。
学生の頃、東京で監督の特集が組まれて、そこで彼の作品のほとんどに触れることができました。
—–作品のコンセプトとなっている「遺すということ、発見するということ」という考えが本作に込められておられると思いますが、「遺す、発見する」ことで、何を得られると思いますか?
永岡監督:そうですね。小さな発見を楽しむことが、人生で一番、楽しく幸福なことかな、と常々考えております。
それは、いつも通る通学か、通勤のための道で、梅の花が咲いていたり、桜の花が咲いていたり、そういう小さなことを発見すること。
また、その発見を楽しむこと。それは、気持ちの余裕がないとできないことではありますが、日々の多忙さに追われて、気づかないことも、心に余裕があれば、見つけて、それを楽しみ、それに対して感じることができると思っています。それが、「発見」というものですね。
また、「遺す」ということは、その「発見」に近い部分もありますが、おそらく遺されたものを誰かが発見してくれます。
また、発見されることは、新しくあり続けると言いますか、生々しくあり続けると、思っております。
実際、物語に登場するおばあちゃんの日記は、ロケ地でお借りした日本家屋にあったものです。
それを少し覗いてみると、とてもパーソナルな内容でして、それが凄く生々しかったのです。書かれている内容は、20年も30年も、昔の話ですが、それがすごく「今」に感じて止みません。
新しく、新鮮に感じる部分もございました。
そういう出会いや新しさが、遺っていれば、それを未来永劫、感じ続けることができます。
ただ、今話した内容をオープンに作品に投影させてしまうと、押し付けがましく、重くなりがちになってしまいますので、サラッと作品に入れております。
物語に対する「ライトさ」は、維持し続けたかったです。
表向きは、爽やかな内容ですが、大体的にはせず裏では今話した想いを作品に盛り込んでおります。
—–作品を観た印象ですが、「花」が全体のモチーフとして描かれているように感じましたが、この部分に込めた監督自身の「想い」をお聞かせて頂けますか?
永岡監督:そうですね。「花」とは、「死」というイメージに密接に繋がっていると思います。
「花」と「墓」と「死」が、繋がっており、要素として散りばめたという感じです。
前半におばあちゃんのお墓参りの場面が、さり気なく挿入されておられると思いますが、その前半の「墓」と後半の「古墳」を少しリンクするようにしました。
あまり大々的にやると全体の軽さを損ねるのでさりげなく。
また、本作の英題を『Only Flowers Live By Windows』としました。直訳すると『花々だけが、窓辺に生きる』です。
花を人に見立て、おばあちゃんや主人公、いとこやその婚約者たちを花に例えて、擬人化しております。そういう意味を込めて、「花」を作品のモチーフや、要素にしております。
—–ある意味、「花」や「クレマチス」が、物語の裏の設定の主人公のように、お話をお聞きして感じました。
永岡監督:最後の庭先に咲いている一輪のクレマチスを花瓶に差すことも、こういう部分と合わせて考え、演出しております。
—–最後に、本作の魅力を教えて頂けますか?
永岡監督:本作の魅力は単純に言えば、「景色」もそうですが、衣装もまた割と、配置や色を考えて、演出しております。
まず、画的にとても面白いですし、皆さんが仰っているように、「松江に行きたくなった」と言って頂けるのが、画像的な要素があると思います。
何度か観て頂ければ分かると思いますが、先ほど、質問していただけた「花」や「遺す、発見する」というキーワードを作中に散りばめております。
複数回鑑賞すれば、お気づき頂けるのかなと、発見できるものになっているのかなと、思っております。
—–貴重なお話、ありがとうございました。
映画『クレマチスの窓辺』は、5月27日(金)よりシネ・リーブル梅田、6月3日(金)よりアップリンク京都にて各1週間限定上映。また、全国の劇場にて絶賛上映中。5月28日(土)10:00の回上映後には、永岡俊幸監督と瀬戸かほさんが舞台挨拶が予定されている。