芹沢俊介の世界観を踏襲した映画『家族の肖像』脚本家 堤健介さんロングインタビュー
—–僕たちは、この媒体「ティロワ・デュ・キネマ」が立ち上がる前から、映画についてあーでもない、こーでもないとやりあってましたよね。今回シアターセブンでの公開に際して、何度か舞台挨拶の司会進行として登壇してもらったわけですけど、振り返ってみてどうでした?
T:冒頭に、まさかの逆質問!?(笑)
時々、取材相手が飛ばして来る質問返しは苦手な一面もありますが(唐突な質問すぎて、答えが出ない)、少し答えてみようと思います。
司会者として初舞台を踏んで、今思う事は上映期間が14日間のうち4回の登壇でしたが、それでも自分には非常に有益な時間となったのは事実です。
何よりも観客の方と距離が近かったのは、非常に嬉しい体験でした。
初司会で質疑応答の時間を設けて、次々に手が挙がる瞬間は、作り手と観る側を繋ぐ架け橋に少しでも成れた様な気がして、あの瞬間が一番楽しいと感じた爽快な一時でした。
関係者の皆様、こんな自分を大きな器で受け入れて下さり、ありがとうございました。
主観的ではありますが、ライターとは孤独な存在です。
調べる、書く、掲載するの流れには、客観的な存在はありません。
ひたすら、文章との睨めっこ。
ただ読まれているのか、読まれていないのか分からない文章を書くことが、今の自分に最大限できることです。
と、ここまではつい先日、Twitterの自身のアカウントにて近い感想をツイートしましたが、文字数の関係上、ここ以降を書けなかったので、こちらで続けます。
振り返って思う事、それは、自身は物書きという人間です。
ここは変わりようがなく、不動です。
何がなんでも、ライターにしがみつく必要があります。
駄文であろうが、稚拙であろうが、それは関係なく、私は書き続けなければいけません。
30年、50年の先の未来、私は書いて、書いて、書き続けます。
やりたいこと、やってみたいこと、挑戦したいこと、たくさんありますが、それとは別に、私は書き続けます。
書き続けた先の、そのまた先の向こうに、必ず何か新しい発見があるはずです。
私は、そのために、今もこうして、文字を書き重ねるしか道はないと思っております。
では、堤さんへの質問タイムと参りましょう。
—–映画業界に興味を持ち、この世界に入ったのか?
堤さん:映画に興味を持ったのは、幼い頃です。
『ゴジラVSキングギドラ』を観たことで映画の世界を知りました。
キッカケは覚えていませんが、小学生の頃には弟や従兄弟とDVカメラを使って、映画撮影の真似事をしていました。
これが映画制作の原体験となり、今に繋がっています。
—–脚本家を目指すきっかけは、何ですか?
堤さん:なんだったんでしょうね。正直、覚えていません。
具体的にいつ目指したかは記憶にないんですけど、子どもの頃、剣道の団体に所属していて、脚本家志望の先輩がいました。
そこで、映画やドラマに脚本があるということを教えてもらいました。
脚本という形式が面白く感じられたので、最初は見よう見まねでやっていたのが、だんだんと深みにハマったということじゃないかと思います。
—–今回、どのような経緯で、本作の脚本を書き始めましたか?
堤さん:実は、別の長編を作ろうとして、準備していました。
それが、結果的に長引いてしまい、その主要キャストで予定していた主演の保坂直希さんという役者の方が、この方で何か一本作れないかと思っていた所に、監督の岸本さんが彼が主役でやるのであれば、監督がライフワークにもしている「団塊の世代」と「同世代」との確執を描けたらと、考えていました。
併せて、今の社会で問題になっている「孤独死」と掛け合わした何か物語ができないかと、提案を受けたんです。
そして、たった1枚の企画書から本作が産まれました。
この企画を元に、脚本を書いて欲しいと監督から依頼を受けました。
結果、私が脚本を書き始めました。
—–例えば、「団塊の世代」と「同世代(岸本監督の同年代)」というテーマはあまり聞かれないのですが、これは監督がライフワークとしている部分もあると思います。その点に関して、何か考えることはありますか?
堤さん:根本的な話をしますが、岸本監督の作品は常に「家族」が、テーマになっています。
基本的には、親と子の話のバリエーションが作品の中枢を占めます。
そして、保坂さんを主役に抜擢した時、家族の話で何かできるかと考えた時、この「孤独死」というテーマをミックスしたら、どういう化学反応や効果が生まれるのか、という視点があったと思うんです。
なぜ、彼女が孤独死を気になっていたのか忘れた節もありますが、意外と身近な問題として親の事を考えてみたら、分かると思うんですが、人とはどんどん老いて行く存在ですよね?
「死」とは、自ずから皆考えるようにもならざるを得ない問題です。
岸本さんの人生のテーマである家族の死と直面した時、それぞれの人間がどう反応するのかという部分は、自分たちにとっても遠い存在ではありません。
監督のデビュー作『ヘブン』から取り扱っているテーマで言えば、必ず「死」が関係しています。
昔の話ではありますが、一心寺(※1)という天王寺にある無縁仏のお寺があるんです。
あのお寺は、ある種頭の中の印象として強烈に残っています。
孤独死した方を納骨している寺であり、またその地域の近くには西成区もあったりと、家族と離れて一人で働き、一人で死んでしまうという現実が、僕たちには見えてない一方でもあります。
その点は、常に考えている所でもあります。
タバコ一本吸わせてください。
—–今思いましたが、現代社会において「孤独」って、付きまとうものだと思います。「孤独」とは、自分たちの身近にあるものでは?
堤さん:孤独が、身近に感じるものか?この作品から少し脱線しますが、孤独は感じていいものやと思います。
孤独とは、僕たちの身近にあるものなんです。
死もまた、同じく近い存在ですよね。
なんて言えばいいのか、孤独が身近にあるという感覚ですが、これは常に真横にあるんです。
としか、考えとして出てきませんが、孤独がダメな訳ではないという考えは持っています。
ただ、抽象的でいいので、もう少し質問を投げて欲しい。
—–難しいですが、孤独は、身近にありますね。それは、私自身、感じます。それは、家族と一緒に暮らしていようが、ルームシェアしていようが、結局は人は一人で産まれて、一人で死んでいく生き物。それが、世の常ですよね。だから、孤独が身近にあることは事実として受け止め、悪いとか悪くないという話ではなく、そういう身近にある孤独を作品で描く事によって、何か産み出されるものはありますか?
堤さん:身近にある孤独を物語として描いた時、産み出されるものとは?ですね。
おっしゃる通り、人間は一人で産まれて来て、一人で死んでいく生き物。
産まれてくる過程には、両親がいて、祖先という存在もありますが、当然人間は個体なので、一人で老い、死んで行くのが人の一生でしかないですよね。
ただ、僕は孤独自体はダメなものとは捉えておらず、一人で居る時間は必要です。
案外、自分のことを知ると、人からもたらされる場合もありますが、一人でいられる時間を作るということは、自分自身を見つめ直す時間となります。
コロナ禍では、時短時短と叫ばれ、自宅待機を余儀なくされ、人との関わりが薄弱となった昨今、振り返ると、この時間は非常に大切で、孤独とは自分を見つめる大切な時間だと言うことを改めて、思い知らされました。
一概に、悪いものとは言いきれないんですよね。
では、なぜ孤独に対するネガティブなイメージが、持たれがちなんでしょうか?
—–今現在、若者中心に孤独が悪と捉えられていますが、ぼっちがダメという風潮が増してますね。ぼっち飯、ぼっち映画(※2)と言われてますよね。でも、一人でもいいと思うんです。その代わり、協調性や人と合わす事は非常に大切ですよね。一人でいる時間や一人で考える時間は、本当はもっと大切で、そこから産み出されるモノもたくさんあると思いますが、これに関して何か思うことはございますか?
堤さん:自分で作った孤独じゃないものが、今存在しているって事じゃないかな?
だから、その孤独自体は、一体どこから来ているのか?
そこは、しっかり考えた方がいい部分だと思うんです。
なぜ、父親は失踪しなくてはならなかったのか?
事情があると思いますが…。
—–自然発生ではなく、自ら生み出した人為的な出来事ですよね。それを踏まえて考えると、人工的に孤独を生み出した節がありますね。人間自体が、自分の力で孤独を生み出してるという事でしょうか?
堤さん:分かち合えなさとか、生きづらさとは、何か?
結局、それは「らしさ」と比較の話やと思うんです。
過度の「らしさ」が、この社会に存在している訳です。
例えば、「男性らしさ」「女性らしさ」で当てはめてみると、「らしさ」が過剰にあると、生きづらさに繋がって行くんです。
ある程度、軽減できれば、必要なものやと思います。
動物は、生きていく上で、幼少期においては、親がいないと成立しないですよね。
獲物を獲ってくる存在があって、自分の面倒を見る役割。
これが「らしさ」ですが、これがないと世界は絶対に、成立しないんです。
その子どもを放置してても、育つのかと問われれば、人間の場合は絶対に育たないですよね。
だから、「らしさ」は必要なものやけど、それが過剰に求められていた可能性があるのではと、感じますよね。
—–ある一定の時代から地続きで、現在でも言えることですね。
堤さん:それは、現在進行形の問題と思っていますが、父親が失踪する背景にはあったものは、高度経済成長期と成れ果てのバブル崩壊やと思っています。
—–時代が、父親の人生を狂わせたのか?それでも、果たして時代だけのせいなのか?
堤さん:その点は大きな疑問として、存在し続けるのは、間違いないです。
世代間によって、価値観の差は必ず産まれてくると思います。
中性的男性という存在が、脅威を与えるものにもなりうるんです。
女性らしさがなくなって来れば、中性的女性も社会を萎縮させる存在にもなり得るんだと思います。
—–と言うよりも、もう少し人として、人を見れる社会が必要ではないのか?
堤さん:それは、間違いないですね。
物事を反対にさせると、逆説含みの話であり、過剰に反対してしまうと。
女性らしさを拒絶して行った先に待っているのは、男女平等を飛び越えて、女性が男性に、男性が女性になる現象もほぼ意味がなくなってしまうんです。
今の社会は、ジェンダーフリーと言いながらも、お話ししたことを踏まえて、女性が男性になる現象が起きてしまえば、ほぼ意味のない社会現象が起きてしまうんです。
社会では現在、その流れを過剰に進めている側面もまた、無きにしも非ずです。
—–今の社会は、マイノリティに対する認識があっても、理解が乏しい時代と言われていますが、この点について何が考えはございますか?
堤さん:理解し合えなさって、実は非常に大切ですよね。
—–でも、それが大切で、理解し合えなさを理解していく社会を作る必要があるんです。
堤さん:大事だと思うのは、溝があるなら、溝であって良くて、世代間に差があるのは当然のこと。
この差は世代毎に変わってもくるし、需要もまた各層でバラバラですよね。
だから、その域から脱出しないといけないんです。
ここから、また映画の話にも繋げていまきますが、大事なのは理解し合えない事を、まず理解するところからだと思うんです。
—–自分も今、シネマ・ライターをしながら、感じてる節は確かにあります。こういう事を映画を通して、発信できる自分でありたいと思っています。
堤さん:でも、その考えは非常に大事ですよね。結局、人はそこに回帰するんですから。
なぜ、孤独になるのかという問いにも繋がっても来るんです。
理解してもらおうとするからじゃないからでしょうか?
—–その考えを、今回の脚本にどうやって反映させましたか?
堤さん:孤独を反映させようとは、考えませんでした。
少しこの部分とは、話が逸れるかもしれんませんが、物語を考えることはストーリーと登場人物、そのキャラクター像を構築させることが重要になってきます。
彼なり、彼女なりの価値観が、最後どう変わるのかという主人公の成長を物語の核にして、テーマ的な部分を追いかけると、その部分に囚われてしまって、結論ありきの物語構成になってしまうんです。
矛盾するんやけど、構成はしっかり取っています。
それでも、過程は違うから構成し切れない点もあるんです。
だからこそ、考えるざるを得ませんが、この映画を通して、一つのテーマとして孤独がある中、言われて気が付いた節もありますが、全員孤独で分かち合えない。
主人公のタカシの父親は、蒸発し孤独死をしているという親の問題を抱えつつ、誰とも分かち合えない孤独を持っている。
彼の周囲の人間も何かしら、孤立し孤独を感じて生きています。
—–救いのない人物設定に悲しくなりますが、それがある時、主人公にとっての救いとなるよう祈るばかりです。
堤さん:結局、救いって何でしょうか?となりますが、これに関しては想うところもあり、答えが出ていない節もありますね。
それでも、必要な孤独は必ずあって、結果としてならざるを得ない孤独がある訳ですよね。
ライターと名の付く職業の人は、書く時は一人になりがちですよね?
何かを見つけようとした時、人間は誰とも分かち合えず、孤独になってしまいます。
でも、そんな時に傍にいてくれる人は、絶対に存在します。
孤独は、一概に悪いものではないんです。
自分の近くにあるものを発見する時は、一人で過ごしている時の方が多いんだと思います。
孤独とは、いい面ばかりでも、悪い面ばかりでもないですよね。
世間が、過剰に孤独を良くないものに仕立て上げている可能性は、ありますね。
—–この社会全体に対して、言える事ですよね。ぼっちが嫌とか、仲間はずれが嫌だという風潮になりつつある今、でも社会は一人鍋や一人カラオケを推奨している背景が、コロナ禍以降、顕著になりましたよね?いかに、孤独が便利であるかと言う刷り込みが、日本の社会全体で行われていますね。その二項対立とは、なんでしょうか?
堤さん:論点が曖昧なようで、曖昧ではないですね。
社会的に推奨された孤独と、若者たちの間でのはみ出してしまうという恐怖に対する孤独の話ですね。
—–大人社会の一人でもOKという孤独に対する価値観と子供社会のぼっちはヤバいというネガティブキャンペーンがありますが、この二項対立はなぜ生まれてしまったのか?
堤さん:それが先ず、二項対立の問題かどうか考える必要もあると思いますね。
それが本質的に、相反しているものかどうか、という事かなと思います。
どちらも社会が前提としてありますが、学校は閉鎖的空間であり、そこに異質なものがあると排除する動きが盛んになり、恐怖感が増しますよね。
それに関して言えばですが。ぼっち飯推奨、このコロナ禍以降の孤独推奨は、社会的要請が入ってますよね。
群れたくても、群れるなというお達しが、国からあった訳ですよね。
—–少し要素が違うのかもしれないですね。
堤さん:それでも、大人社会ではホッとした人間も大多数存在している事も事実だと思うんです。
だから、絶えず孤独になりたい種類の人間は、必ずいると思っています。
—–では、ロケ地を西淀川区にした事によって、脚本への効果はありましたか?
堤さん:当初の脚本では、こういう内容だと聞けば、誰もがそこだと思うロケ地を想定していました。
ですが、実際現地に足を運んでみたところ、私達が物語るという意味でのリアリティが感じられませんでした。
仮にその場所で撮影したとしても、自分達とかけ離れた絵空事になることは想像に難くありませんでした。
私は背景となる場所も含めてのキャラクター表現だと思います。
キャラクターの歴史は、生活環境と連動しています。
これは舞台となる場所が決まらない限り、物語の核となる失踪した父親像が描けないという意味です。
その後、私達は大阪市内各地へ足を運びましたが、ロケ地の決まらない状況は、脚本としても非常に苦しいものでした。
撮影が迫る中、焦燥ばかりが募りました。
悩んでいても仕方がないので、岸本の家の近所でも散歩するべやとなりました。
岸本さんの家から徒歩10分圏内、今回のロケ地となる古いアパートに辿り着きました。
その時、偶然出会った大家さんが気さくな方で、今回撮影で使用した空き部屋を見せてもらったり、退去された住民の方達の話を聴くことができたんです。
そこには、書籍やネットの情報では得られない生々しさ、歴史性がありました。
さらに孤独死というものが、気づいていないだけで身近にも起こり得るという実感は強烈なものでした。
そして、西淀川区には工業地帯としての側面もあります。
岸本さんの家から少し離れた場所にも町工場があり、工場労働者の姿を見かけることもできます。
物語の視点を通じて、西淀川区の見慣れたはずの景色を眺めた時、ようやく語るべき父親像を掴めました。
失踪後、どこかのタイミングで西淀川区へやってきた父親が、町工場で働きながら生活している姿が、実感を伴って想像することができたのです。
西淀川区が、この物語を成立させたのです。
—–本作において、シナハン(シナリオ・ハンティング)(※3)が、大きく影響したと思っても、間違いないでしょうか?
堤さん:間違いなく、影響しています。
今回の映画に限らず、シナハンは可能な限り行います。
イマジネーションが豊かなタイプではないので、現実に触れておかないと、執筆の際、苦悶しながら七転八倒することになります。
最近はGoogleマップで街の雰囲気を調べることもありますけど、やっぱり生の空気感に触れておくと違います。
街中にいる猫の姿を見るだけでも、なんらか物語には影響してきます。
だから、タイムスケジュールの都合でシナハンを行わなかった場合は、結構悲惨です。
撮影の現実問題もあるのでシナハンをした場所でロケが行われない場合もありますが、個人的な実感を手に入れる為に足で稼ぐことは必須事項です。
そこからまた、キャラクター造形であったり、ストーリーの構造、セリフの抑揚なども、左右されたのではないでしょうか?
—–作中に登場する「キャラメル」には、どのような含みを持たせましたか?
堤さん:キャラメルに限らず、食べ物は育った環境や生きている環境と繋がってますよね。
二人の登場人物の距離を近づけるのに、キャラメルは良いアイテムになるのではないかと思って導入しました。
あのキャラメルを見て、背景まで喚起される方もいると思いますし、そこまでいかなくとも筋道としては成立するようにしてあります。
——では、堤さんがいつも話す家族論は、自身のシナリオのどこに影響を与え、またその書籍が指し示す「家族」とは一体、なんだと思いますか?
堤さん:芹沢先生には、『親殺し』(08)という著作があります。
物騒なタイトルですが、出版当時頻発していた通り魔事件から視えてくる現代(「当時の」と括ったほうが正確かもしれません)の親子関係が分析されています。
私なりの解釈ですが『親殺し』では、親子関係の引き継ぎと受け継ぎから生じる問題に焦点をあてることで、いかにその分かち合えなさを乗り越えてゆくかの提言がなされています。
芹沢先生の離婚家庭の分析には、私自身が母子家庭の人間ということもあり、共感するものがありました。
芹沢先生が事例としてあげることから、私のような人間が一人ではないという実感を得ることができたのです。
救われたと言っても過言ではありません。
《私》という人間は、先行世代から引き継ぎを受けて形成されます。
私が生まれた瞬間、最初に出会うのが、親という《他者》です。
他者を知るということは、自己を確立するというプロセスです。
これは裏返せば、自分を知るためには他者が必要ということです。
この他者の存在が、何よりも重要です。
この考え方は、親子に限らず、全くの他者にも適用できます。
私なりに拡大解釈していますが、この他者とは、芹沢先生が引用する菅原哲夫氏の「隣る人」です。
実際は芹沢先生よりも、菅原氏のこの概念に影響を受けていると言うほうが正確かも知れません。
長いですが、芹沢先生の著作から引用します。
《子どもは自分の内部に「隣る人」という絶対的な信頼の対象の存在を感じることができるなら、「一人になれる」。
子どもは一人ではないから、一人になれるのです。
危機において自暴自棄に落ちいることなく、粘り強く自らを支えることができるのです。
(中略)内部に「隣る人」がいない状態、これが孤独です。》
「隣る人」は、射程範囲が広いものだと思います。
戦後から現在までの日本社会を「隣る人」の欠けた子どもとして捉えた、漠然としていたものが実態を伴って掴めた気がしました。
私は戦前の日本が良かったと言っているわけではありません。
この視点を獲得したことで、私は物語る上での道筋を発見しました。
かつての私にとって芹沢先生が「隣る人」であったように、自分の関わった映画が誰かの「隣る人」となることを願っています。
—–最後に、本作『家族の肖像』の魅力を教えて頂きますか?
堤さん:脚本は何を撮るかは提示できますが、どう表現するかは現場に委ねられます。
保坂さんとGONさんは、どう演じるかという点でアプローチが真逆でした。
保坂さんは論理的で、GONさんは感情的。
でも、二人ともこちらが仕掛けたことに辿り着いて、キャラを飛躍させていくんです。
現場で二人の演技を見てると、目からウロコがボロボロ落ちました。
正直、自分が脚本でできることが広がったと感じました。
だから、僕にとってのこの映画の魅力とは、保坂さんとGONさんという役者です。
—–貴重なお話、ありがとうございました。
映画『家族の肖像』は関西での上映は終了してしまいましたが、今関係者の方々があらゆる方面で動いています。いつか、また別の街、別の劇場でお会いできるのを楽しみにしております。Wị̂ khrāw h̄n̂ā!
(※1)一心寺https://www.isshinji.or.jp/(2023年5月2日)
(※2)若者言葉辞典~あなたはわかりますか?~「ぼっち」https://bosesound.blog.fc2.com/blog-entry-291.html(2023年5月2日)
(※3)シナリオ・ハンティングとは?|シナハンとロケハンの違いとやり方まとめ!https://sakka-no-mikata.jp/2020/09/12/scenario-hunting/(2023年5月3日)