映画『噛む家族』言葉を忘れた私達の末路

映画『噛む家族』言葉を忘れた私達の末路

ゾンビ系・社会派エンターテインメント映画『噛む家族』

©テロワール

言葉を失くした大人達へ。私達人間は未来へと進む毎に、人類にとって最も大切な「言葉」を一つずつ忘れて行っている。人間同士がコミュケーションを取る上で重要とする言語の必要性を忘れて、言葉より先に手や足、口が出て、本能で生きる動物のように「暴力」で人間関係を図ろうとする。手が出、足が出、口が出る。暴力に頼らざるを得ない社会を、誰が作ったのだろうか?嫌なこと一つあれば、見境なく誰彼構わず、噛み付くように口が先に出る。物理的な噛み付くだけでなく、やっかみをしたり、誰かの噂話を広げたり、所構わず噛み付く習性は今も昔も変わらない。言葉で調和を図るより先に、暴力で世界を支配しようとする。噛む事でしか自身の感情をコントロールする事ができず、感染によって約束された心の均衡が崩壊し始める。私達人間の未来は、暴力によって支配された社会だろう。近い将来、私達は皆、暴力で心の満足度を満たし、潤わせる存在になるだけだ。それが今、ネット社会を象徴するSNSによって如実に現れている。映画『噛む家族』は、人を見ると噛みつきたくなってしまうゾンビの家族を主人公に、SNSと隣り合わせの現代社会の中で、誰もが簡単に他人を攻撃し追い詰めていく様子を描いた異色のゾンビ作品。

あなたは、「言葉」が消える未来を想像する事ができるだろうか?私達人類から言語を奪ってしまえば、一体何が残ると言うのだろうか?他者とのコミュケーションを取る為に頼っていた言葉を忘れてしまったら、人類は退化を始めるのか?はたまた、別の生き物へと進化を始めるのか?進化論を唱えたレオナルド・ダ・ヴィンチでさえ真っ青のまったく新しい進化論が、これからの未来、21世紀後半から22世紀以降にかけて、起こりうる可能性も否定できない。未来人、すなわち未来の人類が言葉や暴力以外の他者との伝達方法を身に付けるとすれば、一体それは何であろうか?言葉が必要としなくなった世界(※1)では、何が起きるというのだろうか?もし、非言語のコミュケーションツールが発達し、人々が思っている事を意思疎通(いわゆる以心伝心)だけで会話が成立する時代が訪れたとしたら、私達の生活基準はどう変化を与えられるのだろうか?そもそも、「言語とは何か」(※2)という言語学の基礎から未来における非言語社会を考えなければ、今事象として起きている失われつつある言葉との対峙ができないであろう。人は、言葉に縛られている生き物と呼ばれている以上、私達人類にとって、生きる上で言葉がいかに大切か理解できるだろう。言葉がなければ、私達はただの生物だ。言語を持たない生物は、動物か植物、昆虫達を指す。もし私達から言葉を奪ってしまえば、私達に何が残るのか?意思疎通を忘れてしまった巨大な昆虫となって、この社会を踏み荒らす害虫となるだろう。

いかに、私達人間にとって、言葉が大切であるか、誰もが身を持って体験しているだろうが、それでも、私達は今、私達が今持てる最大の武器である「言語」を手放そうとしている。言葉がなくても、ネットやSNS、携帯電話で意思疎通ができていると、根拠の無い理屈を持っている。でも、それはまやかしであり、単なる幻だろう。どれだけ社会が発達しても、どれだけテクノロジーが発達しても、私達には手放してはいけないものが山ほどある。そのうちの一つに言葉があると、考えても良いだろう。言葉の起源は、現生人類の出現後、約10万年から8万年前に出現したと考えられている(※3)。言語学者によって主張されている言葉の起源説には、大きく分けて3種類あると言われている。ある段階で突然言葉が生まれたと考えられている断続説。動物が持つコミュニケーションのやり方が徐々に複雑化して、言葉が完成したと考えられている漸進説。最後は、いくつかの言葉とは関係のない機能が組み合わさって言葉が完成したと考えれている準備説。あらゆる段階を踏んで、私達は言葉というコミュケーションツールを生活の基盤として習得して来た。
ではなぜ、世界中に言葉がいく数もあるのか?言葉が多言語である理由はいくつか考えられる。地理的な分離や接触、社会環境の変化、言語内的な要因などが挙げられる。また、人間の言語能力や、それぞれの地域で重視される価値観も多言語の形成に影響を与えていると考えられているのだ。また、言葉が多言語になった背景には、旧約聖書の創世記に書かれているバベルの塔のエピソードが有名で、人間が神に反抗して天に届く塔を建てようとしたのを、神が怒り、人間の言葉を混乱させて通じなくさせたという宗教的側面としての考え方もあるが、私達はこの言葉の壁が原因で長らく争いが絶えなかった。私達人類から言葉を奪えば、ますます争いが増えるだろう。言葉を話さなくなった人間達は、暴力でこの世を支配しようとする。他者に噛み付いて、暴れ回るだろう。映画『噛む家族』を制作した馬渕ありさ監督は、あるインタビューにて本作について、こう話す。

馬渕監督:「ジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ映画も風刺的というか、「お前ら、生きてても死んでてもやってることは同じじゃねーか」みたいな、人間に対する皮肉のようなものがあったと思います。そういったところにリスペクトして、現代のSNS社会の人たちの立ち回りの醜悪さをゾンビ映画でできたら面白いなと。最初はそこまで考えていなかったのですが、ゾンビものをやるなら、あれもできる、これもできる、と共同脚本の辻智輝さんと話し合って、こういった皮肉めいた作品ができました。」(※6)と、ゾンビ映画に欠かせない社会風刺の側面を作品に盛り込んだと話す。SNSやネットは、人を廃人にすると私は考える。「考える」行為を手放した私達は、脊髄反射のようにSNSに溢れる言葉達に無意識のうちに飛び付いている。思考を排除された私達人間が辿り着く場所は、「言葉」を忘れた世界だ。せっかく、他の生物と似て非なるものを持つ私達人類にとって、考えようとする思考や脳みそ、理性が必要不可欠であるにも関わらず、私達は今、それを手放さそうとしている。

映画『噛む家族』は、人を見ると噛みつきたくなってしまうゾンビの家族を主人公に、SNSと隣り合わせの現代社会の中で、誰もが簡単に他人を攻撃し追い詰めていく様子を描いた異色のゾンビ作品だが、単なるゾンビホラーでも、コメディでもない。言葉を無くしたゾンビの家族が、人間社会に溶け込むことを憧れ、SNS社会に交わろうとする姿に今の時代を生きる私達の姿を重ねる事ができるのではないだろうか?これは、今の社会で生きる私達人間への警鐘であり、警告だ。今後、言葉を忘れてしまった私達がどうなるのかをビジュアルで理解できる社会がそこにはあり、もしかしたら、今の世の言葉を捨てようとしている私達の姿が、目の前にあるのかもしれない。言葉を忘れた私達の末路が、そこにあるのかもしれない。

©テロワール

映画『噛む家族』は、6月25日(水)と6月26(木)の2日間大阪府のテアトル梅田にて、レイトショーにて上映予定。

(※1)「言葉がいらなくなった社会」では何が起きる? アート、意識、人間性から中野信子氏がひもとく近未来https://logmi.jp/knowledge_culture/culture/322943(2025年5月21日)

(※2)人は言葉に縛られる生き物ーー脳科学者・中野信子氏が解説する「言語ってなに?」https://logmi.jp/knowledge_culture/culture/322943(2025年5月21日)

(※3)【言葉は歌から生まれた?】ヒトの言葉の起源に迫る!https://ocw.u-tokyo.ac.jp/daifuku_2015a_asahi_okanoya/(2025年5月21日)

(※4)どうして国と国で使うことばが違うのですか/どうして世界中にはたくさんのことばがあるのですかhttps://mainichi.jp/maisho/articles/20190730/kei/00s/00s/017000c(2025年5月21日)

(※5)言語が違えば、世界も違って見えるわけhttps://1000ya.isis.ne.jp/1695.html#:~:text=%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%80%8E%E3%83%90%E3%83%99%E3%83%AB,%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82(2025年5月21日)

(※6)【独占インタビュー】「現実世界と隣り合わせのゾンビコメディです」。第18回田辺・弁慶映画祭で『噛む家族』がグランプリを受賞した馬渕ありさ監督にすこし・ふしぎ世界への思いを聞いた。 取材・文:後藤健児https://note.com/eiga_hiho/n/n6feebfdc3dd6(2025年5月21日)