想いを巡らす時間の豊かさが凝縮した映画『ある惑星の散文』深田隆之監督、富岡英里子さんインタビュー
—–まず、本作『ある惑星の散文』の製作経緯を教えて頂けますか?
深田監督:この映画は、2015年に企画が始まりました。横浜にある本牧という地域に1年間ほど通いながら脚本を書いていました。
その1年後の2016年の2月~3月の間、の14日間で撮影をしました。
2週間で撮影を終わらせて、1年ぐらいゆっくり時間をかけて編集作業で煮詰めて行き、翌年に完成しました。
—–1年、2年かけて、完成に漕ぎ着けたのですね。
深田監督:そうですね。作業している時間が1年間ということではないですが、編集した映像を一度寝かせてから、もう一度鑑賞し、要らない場面を切ったりした作業を繰り返して、結果的に1年はかかりました。
—–それが、2015年前後のお話でしょうか?
深田監督:2016年に撮影が終わってそこから1年ほどの話なので、作品としては2017年には一応完成しています。
その年辺りから映画祭などに出品して今に至ります。
—–映画は、一般の方の目に触れるまでが、すごく長いですよね。お話をお聞きして、そこまで苦労されていることが、よく理解できます。
深田監督:今回はたまたま知人の紹介を通して池袋シネマ・ロサさんで番組編成をされている方に観て頂き、ありがたい事に上映が決まりました。
—–池袋シネマ・ロサで上映が決まるのは、大きいですよね。インディペンデント系の作品が、こちらの劇場で上映が決まれば、全国に上映が広がりますよね。
深田監督:1月ぐらいに池袋シネマ・ロサでの上映が決まり、どう展開していこうかと迷っていた時に夏井さんに声をかけました。
以前配給の経験があったということもあって、全国に展開したのは夏井さんの力がかなり大きいですね。
—–主役のオファーを受けた時のお気持ちをお聞かせ頂きますか?
富岡さん:えっと・・・いつ受けました?
深田監督:2015年じゃないですか?
富岡さん:台本制作の段階から、オファーをいただいていましたよね。
深田監督:シナリオを書いている段階からオファーはしていました。「今、こういう段階です。」と報告しながら、改稿していく過程でも脚本を見せていましたね。
富岡さん:映画『ある惑星の散文』の主人公が女性二人ではなく、三人の時から読ませて頂いていました。
「この作品を創ります。出てください。」「はい、よろしくお願いします。」というプロセスではなく、丁寧にコミュニケーションを重ねた上で、オファーを受けた印象です。
元々は、和歌山の(※1)Kisssh-Kissssssh映画祭に出品していた別の監督の出演作を通して深田監督と出会いました。
その時、私も深田監督も和歌山に来ていて、意気投合したのがそもそものきっかけな気がします。
とても自然に気負うことなく、オファーしてもらえたというよりも、深田監督のチームの「俳優部」として、仲間に入れてもらえた感覚でした。
役者として”仕事”を頂いたのではなく「一緒に作品を創りましょう」と、誘ってもらったなと。
穏やかな時間の中で、私たちの信頼関係が築かれていったと思います。
—–それでは、出演が決まった時の心情は、どうでしたか?
富岡さん:とても心地よかったです。
—–それほどまでに、お互いが信頼関係の元にあったという事ですね。両者の会話が、お互いすごくピッタリ合っている感じですね。
富岡さん:どちらかが一方的に想いを寄せていると言うよりも、会話をしている中でお互いが合致した感じでした。
—–お話をお聞きして、初めて出会った段階から、本当の関係性が築き上げていたのかなと感じました。
深田監督:いわゆる一般的な映画作りで言うと、撮影直前とまでとは言いませんが、ある程度脚本が動かない段階になってから俳優にオファーするのがごく一般的ですよね。
実際に、途中の段階でシナリオを改稿して役者の方々を戸惑わせるのは、こちらとしても気を付けなければならないことだと思います。
ただ、何年も前に出会って色々と話す中で、富岡さんは変わっていく事と一緒に並走してくれるだろうという感覚はありました。
—–役者という側面だけで判断するのではなく、一緒の作り手としてですね。
深田監督:常にその考えは持っていますね。
富岡さんには、1年くらい前から声をかけましたが、中川ゆかりさんや他のキャストの方に対しても、俳優であると同時に同じ方向を向いて作品を作るチームの一人という考えは、まったく変わりません。
富岡さん:例えば、「事務所にオファーが来ました。こういう作品で、監督は誰々です。」という事務的なやりとりではなく、もう一歩踏み込んだ関係性の中で仲間にしてもらえたと強く感じました。
—–少し作品の話とは外れますが、映画の上映会のご活動もされておられますが、具体的にどのような事をされているのかお聞きしても、よろしいでしょうか?
深田監督:(※2)「海に浮かぶ映画館」という上映会ですが、横浜のとある場所に停泊している貨物船の中で映画を観るという上映会です。
この映画祭は、10年近く続いています。「海に浮かぶ映画館」の名前ですが、“映画館”という名前にはなっていますが基本的なスタイルは映画祭です。
一年に一回の上映会/映画祭というスタンスで行っています。いわゆる自主映画のような作品も上映しますし、もう少し実験映画的な作品も上映しています。
また、鈴木卓爾監督、濱口竜介監督、三宅唱監督など現役監督の作品だけでなく、クラシカルな作品も上映しています。
例えば、ジャン・ヴィゴ監督の映画『アトランタ号』や山形国際ドキュメンタリー映画祭で出品された作品も選出しており、様々なジャンルを混ぜたプログラムで上映することで多様な映画文化を体験してもらおうとしている企画です。
—–なぜ、この映画祭を運営しようと思ったのでしょうか?
深田監督:その劇場を管理している方と仲が良く、「ここで映画を観たら面白いかもね」という話が出たので、一度だけ実験的にやってみたんです。
第1回目は、小栗康平監督のデビュー作『泥の河』を上映したんです。
それを16mmフィルムで上映してみました。
すると、来てくれた観客の皆さんからかなり反響があったんです。
1回だけで辞めようと思っていたんですが、その反響もあって次の年も開催するという流れとなりました。
—–本作のキャラクターを演じる上で、参考にした人物や映画は、ございますか?
富岡さん:参考にした…。参考にしたのは、自分自身の人生ですかね(笑)。
—–自分の人生?自身の人生を参考にされたのですね?
富岡さん:俳優をしていると普段から「今の芝居なの?嘘なの?」と冗談で言われたりすることがあります。
でも私は、俳優の仕事は自分の心身に嘘をつかない事”だと思うんです。
今回のルイの役は、年齢も自分に近かったですし、脚本家という設定も、比較的自分自身と近い印象はありました。
どうこの脚本を解釈して行くか、ということを自分の感覚に頼れてしまった。
ただ、あまりにも自分に寄せ過ぎてしまうとそれはまた自分でしかありません。
そのバランスが難しかったですね。
”役をつくる”ことよりも”どうそこにいるか”を考えていた気がします。
—–タイトル『ある惑星の散文』と名付けた理由や意図、気持ちなどお聞かせ頂きますか?
深田監督:舞台挨拶の時には何度か話しているんですが、そもそもこの映画の構造は大きく分けて3つの要素で成り立っていると思います。
ルイや芽衣子など登場人物たちのドラマが1つ目。
2つ目は、「本牧」を撮ることでした。
本牧という実際にある町を舞台にして撮ってみること3つ目は抽象的な事を持ち込むこと。
それは惑星であったり、イメージや抽象的な言葉、宇宙といったモチーフです。
ルイのモノローグの中で映されている横移動のファーストカットと終盤のカット、雨の中の住宅街などが象徴的なカットですね。
今あげた数カットはもちろん本牧を撮っているんですけど、どこか違う惑星にいるような感覚になるカットだと思います。
ドラマとしてはすごく個人的で小さな物語ですが、「物語」「本牧」「抽象的なモチーフ」という3つを結びつけて描くことによって、映画だけの表現が生まれるんじゃないか試していました。
タイトルに関しても、その部分がすごく強く表現されています。
「ある惑星」の言葉を付ける事によって、「惑星」というイメージが観客の中に出てきますよね。
そうなった時に、物語の見え方が少し変わってくると思うんです。
「散文」とは、詩とは違って、いわゆる普通の構文を散文と言いますが、それぞれの物語というニュアンスは大きいかもしれないです。
また、どこかで、「物語映画」に反抗していたい部分もありました。
例えばある男女の話があります。
別れるか別れないか、どうやって生きていくんだろうという課題があって、それぞれが何か選択をする。
それだけでも映画は成立しますが、拡がりのない一本線の物語を見ることになります。
もちろんそれもひとつの映画の形ですが、「物語を描くことだけが映画じゃないだろう」という気持ちがあったんです。
富岡さん:私の知り合いでこの映画を観てくださった方が、最後のルイと芽衣子のシーンは「惑星直列だ。」と思ったらしいです。
火星なのか、土星なのか、木星なのか、分かりませんが、ルイの星と芽衣子の星が見事に直列した、と。
深田監督:その場面も結局、物語だけを見せていると、「あそこで出会ったんだね。」「関係性が生まれたんだね。」とドラマだけにフォーカスされて終わって行きますが、「惑星」というモチーフが出てくることで観客によって全然違うイメージを持つことになるんですよね。
周りに宇宙という印象を点在させておくと、観客によって全然観え方が変わってきます。
さっきお話されたような「直列」と捉える方もいれば、もう少し違うドラマとして見る方もいるかもしれません。
例えば、最初の横移動する港のカットと最後の港のカットで見え方が変わるという方もいます。
想像力を駆使して、色んな見え方ができてくるんです。
作品を観る時の拡がりがあると言えると思います。
—–監督のコメントにおいて、「私たち人間同士の距離感を感覚として表現した作品」と仰っておられますが、富岡さんが感じる「距離感」に対してのお考えや思うことはございますか?
富岡さん:私たちは、自分の意思で選んで、誰かと一緒にいたり、何かをしてるように見えるんですよね。
例えば男女なら、付き合う別れる。
友達だったら、友達になる、ならない、どのくらいの距離感で友達になる、とか。
職場なら、ここで働く、辞める、とか・・・自分の意思で決めていると思っています。
でも、人と人は、仲良くなろうと思って仲良くなる訳でもありません。
職場も、自分がそこで働きたいと思っても働けないこともあれば、逆に思わぬところから声がかかってそこで働くことになるかもしれません。
そうやって、自分が選んでいるはずの距離感や関係性が、実は見えないものに動かされている・・・。
そういう”どうしても乗っからざるをえないこと””自分自身では操れない距離感”みたいなモノが、この映画には表れていると思います。
太陽の周りを時に近づいたり、離れたり、並走したりしながら公転し続ける惑星たちのように。
—–先程、富岡さんがお話されていた「距離感」についての続きですが、監督自身がお選びになった「陸の孤島」である横浜市の「本牧」、また世間が今感じている「孤独」や作品テーマの距離感など、これら関係性はありますか?また、それぞれがバラバラに感じますが、このトピックである点と点を一本の線で結ぶことは可能でしょうか?
深田監督:そうですね…どういう風に答えれば良いのか、迷っておりますが…。
まず、ロケ地となった本牧という場所はすごく面白い場所だったんです。
「陸の孤島」と劇中で説明されていますが、本牧という地区そのものがすごく魅力的な地区なんですよね。
港地区があり、住宅街があり、一本道を挟んだら大きなトラックが走る工業地帯があって、その反対に山が聳え立つ地域なんです。
本牧は、観光地でもある中華街やみなとみらいの向こう側に位置しているのですが、バスでしか行けないので「陸の孤島」と呼ばれています。
その本牧の姿と登場人物たちの距離や孤独を交差させようとしました。
この土地でドラマを紡ぐことを重要なものにしたかったのです。
映画は物語を進める一本線だけでは面白くないと僕は思っています。
映画はスタートから終わりまで時系列で繋がっていきますが、すべての物事が一本線で順序よく繋がっていくことよりも、その周りに色んな点があり、それが放射状に繋がっていく状態、イメージが広がっていく状態が望ましいと考えているんです。
この人の悲しんでいる理由はここで、この人の行動にはこういう理由があって、と因果関係を結ばれていくと、すべて一本線の流れの上でしか映画を観れなくなってしまいます。
だけど、映画の表現はもっと豊かだし、映像というフレームに映っているものは本来もっと色々な広がりがあるはずだと思います。
ドラマだけを映すものではないはずだ、という考えです。
「孤独」という言葉は抽象的ではありますが、この言葉とドラマが繋がるだけでなく、本牧という場所のイメージにも繋がることを意識しながら制作していました。
—–最後のご質問ですが。本作『ある惑星の散文』の魅力は、なんでしょうか?
深田監督:それぞれが孤独であったり、人と繋がれないことであったり、距離を持ってしまうことをこの映画に出ている俳優たちが繊細に表現してくれたんじゃないかと思っています。
そして、ただ人が見えてくるということだけでなく、本牧という実際の場所に彼らが立っているということ。
ただの背景にある町並みではなくて、登場人物たちと同じぐらい大きなものとして場所が立ち上がって来ます。
それらが拮抗し合っているのが本作の大きな特徴かなと思っています。
本作の登場人物たちが抱えている「生きづらさ」、例えば、どこにも行けない感情、誰かと繋がっているようで繋がれない感覚、あるいは忘れられてしまうとか、すごく日常的で些細な感情が様々な事柄と交差して、作品全体として魅力的に映っているのではないかと思います。
富岡さん:いっぱいあります!一つ目は、監督が見つめたものが等しく切実で、誠実であることです。
人物だけでなく、土地や、画に映っているモノすべて、音も光も含め、映画に対してとても切実に誠実に創られたのだと、観ていて伝わってきます。
二つ目は他者がいないと存在できない”というすごく根本的なことが描かれていることです。
人間は、誰かに自分の存在を認識していて欲しい、忘れないで欲しい、どこかで覚えていて欲しい、もっと欲を言えば影響を与えたい、と考える傲慢な生物だと思います。
あなたがいるからわたしがいる”という事が、この作品の中ですごく描かれていると思います。
そして”実はこの話はあなたの話なんですよ。”とすごくささやかに、そして知らない間に、伝えられている気がします。
撮影から6年の時を経て、こうして様々な方々に認識される映画になったからこそ、私たちが今ここに存在しています。
本作を観ることによって、観た方の存在も確かなモノになって欲しいと願っています。
—–貴重なお話を、ありがとうございます。
(※1)Kisssh-Kissssssh映画祭2022http://kisssh-kissssssh.com/(2022年7月4日)
(※2)海に浮かぶ映画館https://umi-theater.jimdofree.com/(2022年7月4日)
映画『ある惑星の散文』は、7月9日より兵庫県の元町映画館にて絶賛公開中。7月15日より京都府の京都みなみ会館にて、上映が始まる。また、全国の劇場でも、順次公開予定。