昔、破れた夢を家族三世代で叶えた映画『劇場版米寿の伝言』西本ファミリーインタビュー


—-まず、映画『劇場版米寿の伝言』の制作経緯を教えて頂けますか?
西本浩子プロデューサー:『米寿の伝言』の最初は、2018年に私がお父さんを舞台に立たせてあげたくて、舞台として始まったのが、この映画の始まりです。2018年に大阪のトリイホールで4日間、上演させて頂きました。その後、舞台が上手くいったので、次は2019年に上野で5日間、10公演の舞台を開催しました。今回の3度目では舞台を映画化にしたい話になり、2022年11月に撮影させて頂きました。お父さんが昔、「役者になりたい」という夢を持っていたんですが、お父さんの弟が早くに亡くなって、もっと安定した仕事をしないといけない状況となり、教師という職業に就いたんです。教師という仕事は、本人の中で満足してやっていたと思いますが、教師も引退し、子ども達(孫)が役者をしており、お爺ちゃんをもう1回最後に舞台に立たせてあげたいと言って、舞台の『米寿の伝言』が始まりました。
—–映画の内容も素敵ですが、作品云々より、この映画が生まれた背景のエピソードが、素敵と思えました。その内容をネット記事で読ませて頂き、これは絶対に取り上げなきゃいけないと思わせてもらえました。世の中には、多くの大作映画やもっと面白い映画があると思いますが、映画の面白い面白くないではなく、中の人が頑張っている姿を取り上げたいと思っています。ライターという立場を利用して、取り上げたいなと思い、今回、お声かけさせて頂きました。ライターとしてこの作品を取り上げなかったら、ライターしている意味がないと思っています。人気の作品よりインディーズの映画『カメラを止めるな』や『侍タイムスリッパー』が、陽の目の当たらない方がもっと陽の目が当たるような環境を作るのが、大切だと思っています。依って、この作品に飛び付いてしまいました。
—–お爺さんの西本さんにご質問ですが、80年間、生きて来た人生の中、初めて舞台のステージに立ち、映画では初主演を務めていますが、今の西本さんのご心境をお伺いできますか?
西本匡克さん:もういい歳なので、死に土産になるんじゃないかと、頑張っていきたいと思います。舞台は、学生時代に演劇を齧っていましたので、それが延長すると思っていなかったので、今は非常に嬉しいです。とにかく、精一杯、頑張りたいと思います。
—–東京だけじゃなく、今後、大阪や札幌(北海道)での上映もあるから、まだこの大変さは続くと思います。体力的にも大変だと思いますが、ご無理なさらない程度に、頑張って頂きたいです。後々、ちゃんとお聞きしたいんですが、今、夢を追っかけている若い世代の指針になると思います。僕自身、このお話をお聞きして、励みになるんです。紆余曲折する事もたくさんあるんですが、制作の舞台裏のエピソードも含めて、救われるような映画だと、実感しています。
—–お兄さんの健太朗さんは、私の立場から見て、正直、制作の初期段階、今回の一連の企画は、お母さん中心でご家族で協力して制作するも聞いた時、息子さんの立場として、驚く事も多かったのでは?「ほんまに、おかんやるの?」と、心の片隅の中で正直な感想もあったのでは?母親が企画を立ち上げる事に驚いた事。おじいさんが主役として、お母さんがプロデューサーとして、未経験の祖父とお母さんに対して、最初はどんな思いを抱きましたか?
西本健太朗さん:最初は、反対しました。正直、本当にできるのだろうかと考えました。僕が、舞台のプロデュースを経験していましたので、現実問題を知っている以上、おじいちゃんを主演で出演させる事が、スタッフや他のキャストさんのご迷惑になってしまう可能性もあると考えました。その上、母親がプロデューサーを担当するのも初めての経験に対する不安はありました。祖父が大阪に住んでいるので、最初は大阪での公演でした。僕らも大阪での公演を経験した事なかったので、スタッフさんの知り合いもいなければ、宿を予約して、本格的に動き始めると考えたら、採算が取れない現実問題もあったので、「本当にできるの?」という思いは最初、持っていました。
—–でも、「本当にできるの?」から息子として「よし、手伝おう、よし、協力しよう」と思った最初のきっかけは何かありますか?
西本健太朗さん:正直、スタッフさんは探せばどうにかなると思っていたんですが、宿や稽古場所を含めて、東京から人を連れて行くと、費用も大きくなってしまいます。親戚の方がビルを持っていて、そのビルの一室を宿兼稽古場として一ヶ月間貸してくれる話になりました。そこから、状況が少しずつ変わって行き、宿や稽古場の金銭面への負担が少し軽減された点。また、大阪でのオーディション時、思っている以上にオーディションに20人ぐらいの人が来てくれたんです。大阪の方は、東京の人と何かができるのが楽しみというのが、大阪の人は受けたい動機になっていたんです。僕らが考えている以上に、面白いと言って企画に乗ってくれる人がいた事が嬉しかったです。脚本家や演出家の方含め、面白そうと言ってくれる人が周りに増えて来たので、もしかしたら、企画が実現するかもと考え方が変わって行きました。

—–家族で映画や舞台を作り上げる事に対して、銀二郎さんは一緒に携わってみて、舞台から映画までの道のりを考えた時、西本家の4人で取り組めた事に対して何か抱いている思いや感情はございますか?
西本銀二郎さん:元々、舞台を大阪で上演した時には、映画化という展開になるのは全く考えていなかったんです。東京での公演も終えて、一作品だけの舞台を上演すると言って、毎回、大阪は大阪で舞台を開くと言って上演しました。数年経って、東京でも舞台をするとなって、多分、この東京で最後になる、終わったと思ったら、今度は映画を作ろうとなったんです。最初から舞台を経て映画を作ろうと動いていたら、多分、成功していなかった気がしているんです。だからこそ、一つ一つを集中して取り組み、映画が完成したんですが、大阪での初舞台から考えると、この完成こそが作品の最終形態まで行った感じもしますが、正直、この先の未来がどうなるかは考えていません。目の前の事にずっと、家族が中心となって、取り組んで来ましたので、いい意味で、この間の記憶がほとんどないんです。
西本健太朗さん:家族とずっと取り組んで来たからこそ、仕事の感覚より家族で誕生日会を企画する延長ではないですが、ファミリー・イベントの延長感はありました。
—–この映画『劇場版米寿の伝言』は、2018年に上演した舞台からが始まりです。演劇と劇場版の違う部分は、何かございますか?
西本浩子プロデューサー:舞台の時は、作品が出来上がって、それに対してみんなが一か月稽古して、みんなで作品の完成に向けて、上り詰めて行く感じがあり、本番で花開くイメージがあります。みんなで一斉に取り組み、舞台本番まで皆で取り組む高揚感があるんですが、映画は2022年に撮り終えて、一本の作品として出来上がったのは、編集を経て半年後。出来上がってから半年後、宣伝をして、試写で各地に上映する。映画は、非常に時間がかかる印象で、世の中に広めるのは忍耐がいると感じました。じわりじわりと、皆で気を取り直して、すごく長い期間を経て、それが舞台なら皆で色んな場所に行きますが、映画はデータがあるので、私一人でも持って行けば、私一人だけでも皆さんに届けられる環境は整っています。だから、それだけ多くの方に観てもらえる利点はありますので。一度映画を作っていれば、これからまだまだ伸び代はあると思っています。日本全国、世界の人にでも観せれる環境は整っているので、気軽に届けられると信じています。
—–若い頃に役者を目指していましたが、家族の事情で役者の道を諦め、教師の道に進んだ。でも、教員生活では演劇部の顧問をされて、生徒への指導に力を入れていたそうですが、教員時代の経験を経て、現在、その時の経験がどう活かされているとか、西本さん自身の何か身になっているなど、何かございますか?
西本匡克さん:生徒とのコミュニケーションを通して、人間関係の会話の中、対人との雰囲気や間合いを勉強しました。それは、ドラマに活かせると感じました。もちろん、教員ですから、怒る時は厳しく怒りました。

—–遠回りじゃないですが、本来やりたかった事から離れて、教員になられて、現在役者としてデビューしましたが、正直、遠回りの部分もあったと思うんですが、でもその道が実は、一番大切だったのではないのかなと思うんですが、その点どうでしょうか?
西本匡克さん:今考えてみると。それは、良かったと思います。私自身もね。だから、教員にはならず、ただ役者だけになっていたら、もう人生観のない人生を送って、鼻ばかりが高くなっていたと思います。それに、人との触れ合いは、教師生活して、生徒との触れ合い、そして父兄との対応、そういう中で世間の人の見る目に対する自分の反応は、勉強になりました。教員生活でしか得られない経験だったと思います。ただ言うばかりで、実行にはなかなか移せないんです。
—–でも、実行を移すのは難しいと言われますが、年を重ねられて、舞台に立とうと思う意思こそが、勇気が必要だったと思います。別のインタビューを読ませてもらった時、一度オーディションに行こうとされて、足がすくんで立てなかったエピソードがございましたね。自分たちで舞台を作ろうと思ったのが、最初のきっかけ。それでも、舞台を立ち上げるにしても、勇気はどの場面でも必要だったと思います。その点は、どうでしたか?
西本匡克さん:もう、自分に対して考えてみると、それが良かったと思います。勇気を出せた事が、良かったんです。
—–勇気を出す事が、若い人だけじゃなく、西本さんと同年代の方、70代から90代ぐらいの方にもまた、一つの希望や励みになるのかなと、今お話をお聞きして、改めて思えました。
—–舞台から数えて数年間、そして今を迎えておりますが、この期間を通して、お兄さんの健太朗さんは、おじいさんに対しての見方や気持ち、心の変化など、感謝の気持ちやリスペクトなど、何か健太朗さんの中で変化や尊敬の思いなど、何か変わった事はございますか?
西本健太朗さん:それは、たくさんあります。おじいちゃんの働いている姿を見た事がなかったので、祖父の職場に行く事はありませんでした。同じフィールドで一生懸命やっている姿を見れたのは、すべての人ができる事ではないと思えました。最初に舞台をした時は20代前半でしたが、年齢が上がれば上がる程、この7年でチャレンジするのができなくなっていると感じたんです。なぜ、20代前半の頃は、何でもかんで、挑戦できたんだろうと言えていたぐらい、30代になると、自分の中で選択をするのを感じています。80代になった祖父を見て30代で選択を余儀なくされる自分が、40代、50代、60代となった時、挑戦がだんだんできなくなってしまうだろうと実感した時、おじいちゃんは凄い事をしているんだと感じました。母に対しては、映画には体力が必要と話していましたが、それは実感していて、舞台と映画の違いには、舞台は千秋楽に向けて、皆が走り出す感じです。だから、終わる事に対して、無事に終わる事を目指しているんです。でも、映画には終わらない事を目指している感覚がしているんです。公開もまた、延長上映を目指しているので、終わらないように動いているんですが、映画を広める事は苦しい事だと思っています。その分、心が折れる瞬間も出て来る中、でも母を見ていると、僕らに対して見せている姿もあると思いますが、でも折れない力がすごく感じるから、その点に関して言えば、果たして、僕にはできたのかと今でも感じています。その強さは、とても感じています。

—–お母様、息子さんが「折れない強さ」があると言っておられましたが、その点に関して、お母様の中での「折れない強さ」とは、何だったと思いますか?
西本浩子プロデューサー:実際、ポキポキと折れてはいるんです。だけど、自分がやりたいと思った事は、動かないとできません。できるかできないか分からなくても、とにかく動き続けようと思ったんです。なぜかと言われれば、皆で楽しくしたい気持ちがあるんです。だから単純に、皆を笑顔にしたいんです。皆と楽しく取り組みたんです。皆で楽しく生きる事を広げたいんです。深い事は考えていないんですが、とにかく、皆で楽しくワイワイしたいから、私は皆の笑顔のためにやるって感じです。実際は、自分の中ではポキポキと心は折れているんですが、やりたいと思った事はやらないと始まらないと思っているんです。だから、実際に思って来た事が少しずつできていると、自分でも思うんです。だから、これからもやりたいと思った事はまず、進んでやろうと思っているんです。先ほど、子どもが言ってくれましたが、私が見本の姿を見せたい気持ちはあります。これから人生で挫けた時も、「ケセラセラ」と感じて生きて行けるから、生きなさいと伝えたいし、自分の姿で見せたいんです。
—–それは、もしかしたら、その原動力はお子さんだけの存在だけでなく、お父様の存在もあったのではないでしょうか?
西本浩子プロデューサー:お父さんが、笑顔で舞台挨拶をしてくれて、どんどん目力や顔つきが、本当にどんどん変わって来たんです。家でボーっとしているより、人前に出てお客さんと対応している姿を見ていたら、全然違うんです。その姿が、生き生きしているから、その生き生きしている姿を見たらとても嬉しいです。取り組めて良かったと思うから、これからも刺激を与え続ける事もまた、親孝行の一つだと思うんです。
—–刺激を与えて、刺激を与えられている関係なんですね。
西本浩子プロデューサー:お父さんのためにやるって言ったのに、実際は私が本当に大きなプレゼントを頂いたと思います。
—–この経験を経て今に至って、この期間ずっと一緒に携わる中、お母さんに対する気持ちの変化やリスペクトなど、少し恥ずかしいかもしれませんが、何かございますか?喧嘩や意見の相違もあったのでは、ないでしょうか?
西本銀二郎さん:それは、たくさんありました。周りにも言われるんですが、皆の能力や得意不得意があると思うんですが、正直、お母さん一人だったら、多分、ここまで無理だったと思うんです。兄が今、母の右腕となっていて、正直、このZoomに入るにも、兄なしではここまで行き着かなかったと思うんです。しかし、家族の中で連携が上手く出来ていると思うんです。
—–この数年間でのおじいちゃんやお母さんに対しての気持ちの変化は?
西本銀二郎さん:正直、小さい頃の母は好きだけど、少しぶっ飛び過ぎていて、恥ずかしかったんです。授業参観にしても、普段の誕生日会にしても、豪快なんです。いつも、野球場やサッカーコートを借りて、お祝いしてくれていたんです。少し破天荒な感じで他の人に話すと、「え?」と驚かれるんです。小さい頃からの生活があり、正直、恥ずかしい思いもありました。母親がぶっ飛び過ぎていて、他の普通のご家族を見ていると、少し不思議に思う母ではあったんです。それでも、今回のプロジェクトが、最終的に映画化まで行ったのは、凄いと思います。エネルギーの高い母親なので、改めて、この企画も含めて、人間として成長できる場を与えられたんだと思います。役者をやっていると、マネージャーさんからお仕事を頂くこともありますが、マネージャーの役割にも似ており、環境を提供してくれる一面もあります。無理やりではないですが、母の行動から勝手に自分が成長させられるんです。僕の信条としては、感謝もありつつ、ぶっ飛んだ母が苦手だったけど、今は凄く自慢の母になりました。
—–でも、ぶっ飛んでいたのは、小さい頃からの延長線だったんですね。
西本銀二郎さん:子どもの頃の授業参観にしても、目立たせようとするんです。普通の服を着たかったんですが、授業参観の時は派手な服を着させられて、学校に行かされました。だから、小さい頃は抵抗があったんですけど、今は逆に母のような人が周りにはいなかいので、おかげで感情豊かな人間として成長させてもらったのは、感謝です。
—–親子で初めて演劇や映画を制作されて、映像作品まで仕上げて、その過程では恐らく、山もあり谷もあり、意見の相違もあり、様々な困難な事を乗り越えて来たと思いますが、それでも、家族一丸となって、親子で映画作りに取り組んで来た、その意義とは、なんだと思いますか?
西本浩子プロデューサー:さっきも言いましたけど、同じ場所に立って家族でやれる事は、大人になるにつれて、機会はどんどん少なくなると思うんです。小さい時は、親が子供を応援する事は多くあったと思うんです。たとえば、運動会に行った時、親が子を応援する事もあり、どちらかが主役になれるんですが、逆に、子が親を応援する機会はないと思うんです。尚且つ、親子三代で同じ立ち位置に立って、同じゴールを目指すのは、非常に貴重な体験だと思います。今回は、それを最初からしようと思った訳ではなく、結果的に家族で取り組むプロジェクトになったんです。その状態が、本当に心地よく、孫におじいちゃんの輝いている姿を、私が接着剤の代わりに、見せる事ができたのは、とても良かったなと思うんです。これが、また映像に残り、多くの記事で残せるのであれば、また子ども達の子どもが生まれた時、代々引き継いで伝えて行き、立派に生きて来たよ、人生で挫けた時に頂いた命だからこそ、大切に生きて行こうと、伝えて行けると思うんです。それにまた、親孝行は皆、したいと思っていると思うんです。この気持ちは、多分、皆持っていると思うけど、自分の生活が忙しいと、元気なうちに親孝行はできないと思うんですが、私たちは親孝行しようと思ってした訳ではなく、この企画をやり遂げたいと思った事が、結果的に親孝行に結び付いて、子ども達に私の姿を見せられたと思います。世の中の人には、生きているうちに親と関わって欲しいと願っています。特に、歳を重ねた親がいる私たちの年代の方には、何かをして欲しいと思います。周りの人の中には、突然、親が亡くなったとか、脳梗塞で倒れたという話を周りでよく聞くようになったので、もっと元気なうちに親に何かをしとけば良かったと話を聞いたら、以前なら同意ができた事が、今はその話を聞くと、すごくモヤモヤするんです。だから、早く何かした方がいいと思うんです。今、まだ元気な人達には、本当に強く生きているうちに、何かやりましょうと伝えたいんです。映画を作るような大きな事ではなく、親と一緒にご飯を食べに行くなど、小さい事でいいので何かで関わる事をして欲しいと思うんです。私自身、関わって良かったと実感できたので、生きている間に何かで関わって欲しいと思います。
—–まだ、お子さんが小さい頃なら、家族でキャンプに行き、家族行事もしていたと思うんですが、子どもが成人して、親も年を重ねると、皆それぞれの生活があって、それぞれの人生があって、家族でも交わる機会が少なくなると思うんです。家族であっても、結局は他人になんです。でも、西本さんのお話をお聞きして、まだまだ家族と一緒に何かをするチャンスや時間は残っていると、私は受け取りました。もっと、親を大切にできたらいいなという気持ちは、皆さん持っていると思います。
—–西本匡克さんは、どうでしょうか?家族と一緒に取り組む事への大切さとは、何でしょうか?
西本匡克さん:初めは、びっくりしました。自分にできるのかと、自信もなく、不安ばかりでした。何より、今更感があり、様々な気持ちがある中、だんだん眠っていた誰かが目を覚ましたんです。自分の中で火が着いただけでなく、娘や孫が火を着けてくれたんです。そして、この火は大事にしないと思って、この火をもっと燃やさなければいけないと思えたんです。そんな考えに至ったんです。せっかく、火を付けてくれたからこそ、大きな蝋燭の火が広がって行くような感じです。もっと長生きしながら、この人生を全うしなければいけないという気持ちになります。私は、死ぬまでに頑張らないといけないと、自分にファイトを与え、自身の生き様を教えてくれたのは、今ここにいる家族たちです。
—–野心と情熱は、いつまでも燃やし続ける事が大切。それは、年齢関係なく、誰もが持てるものであって、燃やせるものであると受け取りました。
—–作品の終盤にて、重要なシーンがありますね。私はこの場面におじいさんからの「時間を大切に」というメッセージのようなものがあると思えました。見えない部分には思いがあり、おじいさんからお孫さんに対する時間をもっと大切にする。あの時、一緒に過ごした時間は帰って来ないけど、共に過ごす時間はこの先、ずっとあるから、その時間を大切にと、様々な受け取り方があると私は思います。ご兄弟は、この場面をどう捉えているなど、何かございますか?
西本健太朗さん:裏話で言えば、元々はそのシーンが無かったんです。作っている時にはアイディアとして何も無かったんですが、「家族」を思い出す時間をくれた素敵な場面です。最初は、長編映画を作るとなった時、クラウドファンディングも行いましたが、80分の上映時間のある映画を目指したんです。ただ、編集していくと58分とかしかなくて、どうする?となった時、監督からのアイデアで生まれた場面なので、その点も非常に運命的であり、多分、映画が70分に収まっていたら、もしかしたら、あの場面は無かったと思うんです。その点も含めて、すごく思いの深いシーンになったと思います。
—–お兄さんのアイデアではなくて、監督から提案されたアイデアがいいな思います。お兄さん側から生まれたアイデアなら、家族の話なので、少し仕組んでいるようにも感じますが、監督からの提案で生まれたシーンであるなら、これもまた、運命かなと思います。誰がどう仕組んだのか分かりませんが、運命的なものを感じますね。
西本健太朗さん:監督も僕らも、舞台の時からの付き合いなので、7年間、僕らの家族を見て来て、多分、その経験を経て、あのシーンがあった方が良いと判断してくれたと思うんです。多分、映画だけを撮っていたら、もしかしたら、無かった場面かもしれませんが、舞台からの7年間という月日があったからこそのシーンかもしれないです。
—–ご家族の事を理解した上での素敵な提案だったんですね。銀二郎さんはどうですか?あのシーンを見て、何か感じる事はございますか?
西本銀二郎さん:僕はただ、本当に同じ感覚を受けましたが、僕はその編集に対して、意見は言っていませんが、正直、あのシーンに関して、ギリギリまで知らなかったんです。皆と一緒に試写で初めて本編を見た時、この映画は家族だけが作っているわけではなく、本当に大阪からこの映画に至るまで、たくさんの関係者が関わってくれていて、正直、その方々がいなかったら、ここまで来られなかったと思うんです。作品に関わったこの7年の出来事が、走馬灯のように脳内で沸き起こって、本当にこの映画ができたんだと、最初に観た時は感じました。
—–作品と家族や関係者の関係が、あの場面で最後のピースがはまったと思います。あのシーンがあるからこそ、家族という存在を表現できる。あれが無ければ、申し訳ないですが、ただの映画なんです。でも、この映画は監督がいて、脚本家がいて、役者がいてという本来の形の映画ではなく、家族が作った映画というのが一番大きいです。ある種のマスターピースであの場面があってこそ、この作品は完成するんだと思います。
西本健太朗さん:監督が言っていたのは、おじいちゃんに対しての豪華なビデオレターにしたかったと。だから、この映画を表現する者として、ビデオレターから始めていると、監督も言っています。監督は、この作品自体をビデオレターだと言っています。
—–今、夢に向かって必死に活動している若い夢追い人は、映画業界にはたくさんいます。映画業界だけでなく、世界にも同じ人はたくさんいると思います。多くの人が、夢半ばで諦める人もいれば、挫折する人もいると思いますが、多くの若者が今この瞬間、皆さん、頑張っています。そんな夢を追う者にエールを送って頂く事はできますか?もちろん、若い世代だけでなく、同年代の方でも多いです。今、匡克さんが思っている事はなんですか?
西本匡克さん:いつまでも、もっと大きく夢を見る事が大切です。生きる事は、自分の夢を全うして行く事が大事だと思います。私は、孫達にこの企画をしてもらい、本当に夢を与えてもらった。ありがたいの一言です。頑張りたいと思いますし、これからも夢を持ち続けたいです。ある意味、夢ばかり見て、夢バカかもしれませんが、私と一緒に夢を見続けて欲しいです。生きる事は、夢見る事だと思うんです。
—–お互い、いつまでも、夢を追い続けて行きたいですね。最後に、映画『劇場版米寿の伝言』が今回の上映を通して、この作品が今後、どう広がって欲しいなど、何かございますか?
西本浩子プロデューサー:全国の都道府県にある劇場を、一か所ずつでいいので、全都市を周りたいと思っています。各地方の方々に観て頂きたいと思います。特に、観てほしい年代は、私たちの40代、50代、60代の世代の方です。ちょうど親と子の間に挟まっている方々に一番、私はこの作品を観て欲しいと願っています。
—–貴重なお話、ありがとうございました。
