映画『華の季節(とき)』「作品は一人歩きするもの」片岡れいこ監督インタビュー

映画『華の季節(とき)』「作品は一人歩きするもの」片岡れいこ監督インタビュー

映画『華の季節(とき)』片岡れいこ監督インタビュー

—–映画『華の季節(とき)』の制作経緯を教えていただけますか?

片岡監督:少し長くなるかもしれませんが、私は元々、小さい頃に観た映画『春男の翔んだ空』という聴覚障害の映画を観て、非常に感動した記憶があります。この作品は、とても純粋な映画です。春男という人物が本当に、先生になって聴覚障害者の子どもに様々な事を教える教育映画です。当時は、ボロボロ泣くぐらい、純粋なところに心動かされ、感動させられたんです。私は、映画を通して、皆さんにそんな感動を伝えたいと思わされたんです。奇を衒ったものや新しいもの、誰もが考えつかないもの、バイオレンスなものでは無く、本当に純粋にハートウォーミングな温かいものを伝えたいと、昔からずっと思っていたんです。学生時代から映画を撮りたい気持ちはありましたが、あの頃の映画はフィルムが全盛期なため、映像制作は難易度が高いと思っていました。大学の映画研究会で撮影経験はありましたが、自分で撮るとなると、ハードルも高く感じ、制作費も今の数倍必要だったんです。元々、物語を産み出すのが好きで、漫画を書いていたんです。ただずっと、この人生で撮れるかどうか分からないけど、撮れるのであれば、嬉しいなぁとぼんやり考えながら、版画やデザインの仕事をしていました。ただ、働きすぎて腱鞘炎になってしまい、漫画はもう描けないな、と。それで、クリエーターの仕事をして、食べさせて頂いていましたが、そろそろ、自分がやりたい事に挑戦したいと思うようになり、映画に近くて、繋がりのあるような芸能プロダクションに所属しました。それから、映画監督と知り合う機会が増えました。その時、撮りたい作品が3つあったんです。1つ目は『人形の家』2つ目は『テペンネスの森』そして、今回の作品『華の季節(とき)』でした。原作を読んだのは、30年ぐらい前です。昔勤めていた出版社の社長から短編集だから、すぐ読めると山本周五郎の小説を紹介していただいたんです。ただ、本作の原作『菊千代抄』は、表現したい作品だと思ったんです。私の心にも刺さりましたし、山本周五郎作品の中では異色の存在であり、女性目線が非常に精神的な部分を訴えていて、山本周五郎の作品は男性目線の勇ましい話が多い中、本作はその違いを感じることができました。そして、なぜ感動したのかと後から思うと、小さい頃に観たアニメ『ベルサイユのばら』や『リボンの騎士』のような女の子が勇敢に男のふりをして戦う物語に憧れを持っていたんです。それの基になっている話なんじゃないかと、思えたんです。山本周五郎の作品に影響を受けた手塚治虫が、上記の作品を発表したのではないかと、後から思ったんですよ。ただ、その基になっている作品が、短編集の中に埋もれていて、なぜ映画化されていないのだろうと考えました。自分が感動するあまり、なぜ、こんな素晴らしい作品か、映画化されていないのか?他の作品は、映画化されているにも関わらず、そう思ったのは私だけかもしれないですが、もしかしたら、みんなが知らないだけかもしれないですよね。尚の事、映画化したいという気持ちをずっと持っていました。

—–本作の原作は、今もお話しされた通り、山本周五郎の短編『菊千代抄』を映像化されておられますが、監督は小説に初めて触れて、この題材をどう受け取められましたか?

片岡監督:心からキューンと来て、大泣して、あんな作品があることに驚きを隠せなかったです。私は、ハートウォーミングが単純に好きなので、これは一番刺さる、プラス私の好きな男装の物語がいい味出ているんです。叶わない切ない思いを表現したいと、思っていました。 私の受け止めは、一番泣いた事です。

—–どこに刺さり、どう感動されたのでしょうか?

片岡監督:私は、何でもすぐ感動してしまう人なんです。小説に書かれなかった行間部分を膨らませて、映画でしかできない表現を随所に織り込んでいます。特に、ラストシーンには、思い入れが深いです。それでも、私が泣いたエピソードは、一つ、二つあります。まず、晃士郎の秘めたる思い。彼がずっと、秘めていた思いを吐露する場面。彼女が、素直に自分らしさを取り戻して、晃士郎に自分らしさを表現する場面。物語は、終始暗いお話ではありますが、彼女の人生の境遇が報われるラストにしないといけなかったんです。だから、小説の行間になかったのは、晃士郎の彼女への強い想いです。彼の想いは、小説では一切描かれていなかったんです。文章でも書かれておらず、映画でも台詞では表現していません。最後の走馬灯のような回想場面で、この物語は実は、晃士郎側の純愛物語であると、最後に分かって頂きたいんです。主人公を逆転させる意図が、ありました。現場では、晃士郎側の場面をずっと撮り溜めしていたんですが、作品の最後に演出は、映画にしかできない表現だと思います。

—–過去の名作小説において、どの作品でも、今の時代に通じる普遍性を私は感じることができますが、本作における普遍性が、現代の社会に何を与えていると思いますか?

片岡監督:私もそれは、思ったことがあります。純粋なものを表現したいと思っていたら、偶然にも現代のトランスジェンダーが社会で取り上げられています。でも、これ偶然であり、運命みたいな感じはします。結局、どんなジェンダーであろうと、自分らしさを取り戻したいという気持ちはいつの時代も同じです。それが今は、社会で少しずつ認めら、理解される世界がありますが、昔は理解されていなかったんです。だからこそ、自分らしさを取り戻したいというのが本来、あの時代では女で良かったんです。ただ、トランスジェンダーという意味を調べてみると、生まれた時に与えられた性別とは違う性別を意識するという考えは、ある意味では、原作の内容と共通するんです。本当は女の子にも関わらず、産まれた時から男として、割り与えられている現実。本当の女を取り戻そうとしますが、実際には女の子だったのは、今とは違う価値観ではあります。現代で起きている問題を抱える方達、自分らしくありたいと思う方達、もしくは潜在的にジェンダーの悩みを持っている方達が、何かを感じて来ていた事が、本作を通して、きっかけにはなるのかもしれないと思っています。ただ、それがテーマとして作った訳ではありませんが、映画は一人歩きするものですから、それぞれの受け止め方、考え方のフィルターを通して、色々な事を感じて頂ければ、とても嬉しいです。それが、この時代に作ったという意味があるのかもしれないです。

—–私は、ジェンダー映画として受け取る事が、できました。まさに、今の時代に必要な作品だと考えています。

片岡監督:人それぞれ、作品に対する感想は、違ってきます。逆に私は、驚いたほどです。何度かインタビューを受けましたが、皆さん、ジェンダーについて話を聞かれて、改めて気付かされました。私なりに考えてまとめてみたんですが、そしたら、私の中で腑に落ちたんです。私も、この映画を撮った自分の気持ちや人に与えるメッセージは、後から出来上がった感じがします。

—–最初は、純愛映画的な視点で描かれていたと思いますが、時を経る毎に、また作品が世に出て行く事によって、人々の捉え方や見え方含め、おっしゃる通り、違って来ましたよね。

片岡監督:20年前から、私も感動していました。まずは、先程話したようなきっかけで作品を撮ることが出来、ロケ地探しから始まり、亀岡になりました。女優さんがオーディションに来てくれて、亀岡で制作が出来ました。亀岡は、映画のロケ地の宝庫にも関わらず、知られていないので、この土地で映像制作ができればいいと思っていたんですが、取材をして頂くにあたり、周囲の方の捉え方について、改めて気付かされました。この映画を今の時代に出す意味が、やっと分かった気がするんです。自分自身でも驚きつつ、作品が一人歩きするものですが、今ではこんなにも一人歩きをし始めているんだと、実感があります。

—–非常にタイムリーだと、思います。作品がどうとかではなくて、この題材、このテーマ性が、非常にしっかりしています。10年前に、本作が紹介されていれば、どんな状況であれ、時代錯誤のお話です。今やからこそだと思いますが、特に「ME TOO運動」(※1)やジャニーズ事務所の性加害問題(※2)が、世に浮上してきている中での、その性とは何かという観点からで言えば、この作品がある種、重要性を帯びてくると考えています。

片岡監督:もし本作が、何かの一助になれば、それはそれで、非常に素晴らしいなと思います。既に、一人歩きしている作品ですが、たとえば私は、純粋な観点から描きましたが、何らかの見えない力が、引っ張っているのではと非常に思っています。そう言っていただけるのは、非常に嬉しい上、私自身も考えて行く必要があると思っています。作品を作った以上、今起きている現象を受け止めて、考えて行きたいと思います。メッセージ性に対して受け止める方が、各々に受け止めて頂けること自体が、本当に私自身、映画を作って、良かったと思えます。もちろん、反対意見はあると思いますが、それでも嬉しく光栄であります。

—–資料として原作に少し触れてみましたが、本作は非常に丁寧に、また忠実に作られていると、原作に触れた上で、少し実感したところもあります。サラッとではありますが、最初の冒頭の部分を読んでみて、構成やセリフが一緒なんだと、冒頭の部分だけですが、非常に忠実に、原作に寄せているという印象を、私は受けました。原作を忠実に描く事によって、映像化した時の何か質感への変化を、どう捉えていますか?

片岡監督:私は、映画化する時、原作を忠実に描くぐらいで良いと思っていたんです。映画を通して伝えたい気持ちがあったんですが、誰も他に伝える人がいなかったので、私が映画を通して伝える事にしたんです。ただ、関係者の方々と話を聞きながら、作り上げて行きました。だから、基本的に必要な言葉はすべて、一緒です。名前が違ったり、時代背景が違ったり、登場人物を少なくしたり、珠緒の苦悩する部分が暗いので、映像表現として一回にしました。最低限分かるエピソードにはしましたので、その中で映画だからこそできる事を入れました。それが花であり、晃士郎の表現されなかった部分であるんです。それでも、夢のシーンは難しかったです。どう描けば良いのかと悩みました。アニメーションだったら、多少サイケデリックな映画として作る事もできますが、やはり映像表現には限界もあるんです。原作の中でも、絞って絞ってやっています。だから、珠緒が泣く場面は、小説では非常に多かったのですが、何回も泣いているのを最小限に抑えているんです。伝えたかったのは、原作の内容ですので、忠実なところは忠実に描きました。プラス、映像でしか表現できないところを映像化する事。でも、原作にも寄らないと、映画にする意味がないんじゃないかと。結果的に、今の形が、非常に良かったかなと思っています。 正直、私的には原作とは内容を変えたつもりでいましたが、それでも原作に忠実だと思ってくれたんですね。最後の10分は、ほとんど変えていません。削れる所は削ろうとしたんです。ただ、私は忠実に馬まで描こうとしましたが、馬を借りてまで丁寧に描くのは、不可能に近かったので、諦めました。だから、原作への忠実性は限界がありましたが、映像として表現できる内容に変更しようと心掛けました。その結果、女性の心理の象徴でもある、水を描写することができました。

—–本作の時代背景は、明治初期と設定していますが、この時代を作品の舞台にするのは、時代考証の観点から言えば、資料が乏しく、難易度が高いと個人的に思います。 ただ、ロケ地を京都府の亀岡にする事が、この時代背景と親密に相互作用したと思いますか?

片岡監督:まず、ロケ地を探す前に、明治時代にしようと思いました。江戸時代として時代を設定する方が難しいと思いました。その上、難しい上、不可能と感じたんです。映画村を借りて、人物の丁髷に結って、いくら必要か考えました。制作費に2000万ぐらい必要だと確信しました。でも、どこかの知らない国の、知らない世界というファンタジーにはしたくなったんです。京都という場所を活かしたかったのもあり、明治初期なら、家族であって、武士ではないけど、武士上がりの家族という設定にすれば、まだ昔の風習は残っていて、制作できると考えました。その辺の資料もたくさん目を通して、衣装に関しても着物の種類も違うので、衣装担当の方がその時代を調べて頂き、鬘も被らなくて良かったんです。ロケ地を京都で探すのは簡単だと思ったのですが、ロケ地として解放をしている場所が非常に少なかったんです。だから、最終的に亀岡をロケ地に定めて、撮影を行いました。実は、亀岡をロケ地にした映画は非常に多いのですが、舞台が亀岡というのは、表には一切出てなく、映画だけが有名になっています。そんな事も加味して、亀岡自体を映画のロケ地の宝庫として活性化させたい気持ちもありました。亀岡には親切な方もおられて、ロケ地にしてくれるのであれば、無償で場所を貸しても良いと言ってくださる方もおられました。しかも亀岡には、昔ながらの武家屋敷が残っています。昔ながらを演出できるロケ地が多かったからこそ、亀岡で制作が可能となりました。だから、ほとんど何も手を加えずに、そのままの自然と建物を使って撮影することができました。

—–本作は、女性が男性として育てられ、男性性なのか女性性なのか悩みながら、明治という封建的な時代に生きた人物を描写していますが、これは現代に置き換えるのであれば、ジェンダー問題とか女性問題と何一つ変わりないと私は思いますが、この問題に対して監督は今の時代に何を思いますか?

片岡監督:私は、何一つ変わらないと作ってみて初めて思いました。私自身は、ジェンダーとは無縁です。ただ、ジェンダーだけではないと思うんです。偶然、幅広くジェンダーが浮上しているだけで、この話が作られた何かの力によってと思いますが、どんな時代でも、自分らしさを取り戻し、自分らしくあるべきだというのは、誰だってあると思うんです。それが性別であり、生き方であり、やりたいことであり、お金持ちだから実現できない事、貧乏だからできる事もあると思うんです。総合的において、本題としては自分らしさを取り戻すと集約されていると思います。純粋な気持ちを持って、人を愛する気持ちは、性別を越えても、本当に変わらない事は気づかされるのではないかなと。だから私は、心の中の純粋なものを大切に表現したいと思っています。どこか、誰かの何かの心の中の優しさに触れて頂ければ、非常に嬉しいです。ただ、映画は一人歩きするものですから、批判があり、好き嫌いがあるのは、当然だと思います。あらゆる評価が多ければ多いほど、作って良かったと、素直に皆さんの批評を受け止めてみたいと思っています。

—–最後に、本作『華の季節(とき)』が、今後どうなって欲しいとか、何か作品への展望はございますか?

片岡監督:私は、いつも何かを作る時、できるだけ多くの人に観て欲しいと思っています。伝える事が、大切です。映画は、出来たから完成ではなく、伝えないと完成にならないと、私は思っています。だから、自己満足でお金をかけずに作ったら、その作品で伝えたい事が幾らかあっても、伝わらないと思うんです。制作した作品を財産として、できるだけ、たくさんの方々に伝えるための働きかけは、今後も取り組んで行きたいと思っています。

—–貴重なお話、ありがとうございます。

映画『華の季節(とき)』は現在、関西では10月14日(土)より大阪府のシネ・ヌーヴォ、10月13日(金)より京都府の京都シネマにて、上映中。

(※1)セクハラや性暴力の告発運動「#MeToo」から5年──私たちの現実は本当に変わったのか?https://www.vogue.co.jp/lifestyle/article/uk-vogue-me-too-movement-five-years-on(2023年10月18日)

(※2)【ジャニーズ性加害問題まとめ】元Jr.ら、次々と勇気ある告白…社名変更、廃業へhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/275255(2023年10月18日)