台湾国宝級絵師を追ったドキュメンタリー映画『顔(イェン)さんの仕事』
映画看板絵師。もう、この言葉は死語なのかもしれない。私自身を含め、今の若い世代が「映画看板」や「看板絵師」の存在を、どれほど知っているのか定かではない。私自身も、映画看板の実物を観た事はほとんどない。時代が進むと同時に、ビジネスとして事業縮小を余儀なくされている映画看板の存在。デジタルが普及し、映画のイラストは手書きやペインティングからパソコンのソフト「イラストレーター」に取って代わり、市場のシェアはデジタル絵画が全体の9割以上を占めた今、手作業で時間を掛けて、映画看板を手掛ける事に何の意味や価値を見い出せるというのだろうか?街の至る所にデジタル加工された映画のポスタービジュアルやチラシが所狭しと並び、見やすく鮮明になったイラストは、映画を楽しみに映画館に足を運びに来る方々を心から楽しませる魔法の道具だ。それでも、どこか寂しくもあり、冷たくもある。映画と人との距離感を遠ざけているようにも思える現代の映画イラストには、人を楽しませようとするアトラクション的な、テーマパーク的な要素はなく、ただただビジネスに走る集合体に見えて仕方がない。映画とは、人に幸福や楽しさ、面白さ、時に学びを与える多目的多機能文化と言える。今は、その要素の全体の9割が削ぎ落とされ、いかに劇場に人を呼べるかと業界内同士で競い合っている。ドキュメンタリー映画『顔(イェン)さんの仕事』は、台湾の映画絵看板師・顔振発(イェン・ジェンファ)にカメラを向けた作品だ。衰退の一途を辿る映画看板絵師に焦点を当て、再度、映画文化を残し継承する事への重要性を説く。
日本で映画看板が普及し始めたのは、いつの頃からだろうか?この映画看板という文化は世界中に定着していたのか、または日本やその周辺のアジア諸国に伝えられて行ったこの地域特有の文化なのか、その全貌は定かではない。ただいくら調べても、映画看板の歴史や発生時期、その起源を知る事はできなかった。ただその代わりに、久保板観(※1)こと久保昇という人物に行き着いた。彼は、「最後の映画看板師」と呼ばれる歴史的に見ても、映画史的側面で見ても、日本映画において非常に重要な人物である事は確かだ。久保板観は、生涯に渡って、数多の映画看板を手掛けた日本の映画看板史において最も古い人物であるが、奇しくも、久保は6年前の2018年2月4日に他界している。彼が残した映画看板は数千点に上り、入れ替わり立ち代りの激しい映画業界の上映作品に対して、毎週毎週、映画看板を描き続けた最古の絵師だが、「1週間だけの映画芸術」と呼ばれた映画看板の存在は、当時の日本の映画ファンにどれほどの前向きな感情を与え、映画の娯楽性を看板一つで高めたのか言うまでもないだろう。戦後日本、敗戦国日本が抱えた社会の暗鬱としたネガティブな感情に対して、昭和30年代に花開いた最盛期の映画時代を彩ったのは間違いなく、映画看板と絵師の存在だ。久保板観と映画看板は切っても切れない関係性を要しているが、久保の足跡を辿れるのは彼に関する一冊の書物「板観さん 昭和のまち青梅と映画看板師」のみだ。振り返ってみて、映画看板という一つの文化を生み出し、守り抜いた証がほぼない状態で、久保自身の足跡や実績がすべて、ぼやけてしまっている。今一度、久保の足跡を辿ると共に、彼の功績をリスペクトする時代が来る事を願うばかりだ。
それでは、台湾での映画看板絵師の事情は、どうだろうか?本作『顔(イェン)さんの仕事』で取り上げている顔振発(イェン・ジェンファ)さんが、台湾におけるこの業界のボス的立場の人物であるのは、十二分に理解できる。半世紀以上の間、台湾の映画業界や興行の世界、関係者の成長を見て来たと伺い知れる。そして、台湾の映画最盛期の頃には多くの映画看板絵師が活躍をし、台湾の映画業界を縁の下の力持ちとして盛り上げ支えて来たのだろう。たとえば、台湾にはイェンさんの他に、ヤン・ジェンファ(※3)や陳王根氏らがいる。陳さんは、自身の映画看板絵師の経験をこう話す。「私たちが初めて描いた映画看板が白黒映画『The Longest Day』(1962年米国公開)のためだったことをはっきりと覚えています。中国の劇場でも上映されましたが、ノルマンディー上陸作戦の巨大なシーンが看板全面にカラーで映し出され、非常に美しかったです。『ナバロンの銃』(1961年アメリカ公開)と『クワイ川にかける橋』。 (『クワイ河にかける橋』はグレート・ワールド・シネマで次々と上映され、1957年に米国で公開された)その他の古典作品は、当時としては素晴らしい学習プロセスでした。」(※4)と話す。彼の話から伺い知れる事と言えば、台湾における映画看板絵師の誕生は、1962年もしくはそれ以前となり、全盛期は70年代らか80年代にまで遡れると推察できるだろう。台湾における映画看板や絵師の歴史は、日本と同軸枠で同時多発的に生まれたのか、または日本の文化か、日本以外のアジアの文化が植民地時代を経由して、アジア全土に広がっただろうと考えられる。ただ、詳しい資料がない為、ここは今後、研究して行く必要性があるのかもしれない。映画『顔(イェン)さんの仕事』を制作した今関あきよし監督は、あるインタビューにて、本作についてこう話す。
「映画のイラストを描く人が顔さんと会い、描いている過程をどう見てどう想うのか、リアクションも撮りたかった。それがミックスされれば僕らしいのかなと。観察ではなく、交流を撮ることにしました。これは顔さんに会う前から半ば分かっていたことですが(笑)、顔さんは絵が好きなんです。ただただ好き。やっぱり好きが一番のパワーなんだという気がしました。そして描いている姿に迷いがない。映画館がなくなれば、顔さんの仕事もなくなります。映画の歴史を背負っている人がここにいるということをこの映画で知ってほしいですね。」(※5)と話す。私は、「映画の歴史を背負っている人がここにいる」という文言に心打たれ、映画史における大切なこと、重要なことは山ほどある中、今時代の変化と共に、その大切な文化の灯が消えかかっている事に悲しみと憂いを感じている。それは、価値観が変わった事による時代や人々の移り変わりであるから仕方ないと受け入れるのか、それとも、抗うのかは人それぞれだ。今、時代が変わろうとしている真っ只中の中にいる私達は、文化を守る為に何ができるのか、共に考えて行く必要がある。
最後に、ドキュメンタリー映画『顔(イェン)さんの仕事』は、台湾の映画絵看板師・顔振発(イェン・ジェンファ)にカメラを向けた作品だが、今台湾だけに留まらず、ここ日本でも国宝級の映画看板や映画看板絵師の文化が消えようとしている。関西では、大阪に一人だけいる映画看板絵師(※)の方もおられるが、この方が絵筆を下ろした瞬間、関西におけるこの文化は消滅してしまう。多くの看板絵師関係者が引退した方、鬼籍に入られている方が大勢おり、日本全国で探しても現役ご活躍されている絵師は、最盛期の頃に比べて、手の指で数えられるほど、シェアが縮小してしまっている。大阪には、映画絵アーティスト・八条祥治(※)さんが、今も一人で文化継承に向けて(本人はビジネスで取り組んでいる事だろうが)、コツコツと取り組んでいる。国宝級の文化財産が消えつつある今、日本が誇る映画文化、パンフレットやミニシアターと含め、映画看板という文化芸術は、この先の日本の未来にも残して行く大切な文化だ。それを継承する為に、私達若い世代は何をすべきか考える必要がある。
ドキュメンタリー映画『顔(イェン)さんの仕事』は現在、関西では10月19日(土)より大阪府のシアターセブンにて上映中。
(※1)最後の映画看板師 「板観さんの足跡、伝えたい」https://nishi-kaze.com/2019/04/18/985/(2024年10月20日)
(※2)映画看板師、久保板観氏が死去https://www.sankei.com/article/20180207-6PEITAEMB5JSDGQLMG6EVAVEGE/(2024年10月20日)
(※3)展现将失传的功夫 电影看板画师颜振发红到国外https://www.epochtimes.com/gb/19/10/22/n11604925.htm/amp(2024年10月21日)
(※4)電影人的那些年.那些事——戲院看板年代(上集)https://today.line.me/tw/v2/article/V8qZXl(2024年10月21日)
(※5)ドキュメンタリー映画『顔さんの仕事』 今関あきよし監督インタビュー 「好きが一番のパワーということ」 台湾国宝級絵師の“仕事”を描くhttps://getnews.jp/archives/3563601(2024年10月22日)
(※6)令和も続く“手描き ”映画看板唯一の職人が大阪に 「手描きの良さを孫の代まで伝えてほしい」https://jocr.jp/raditopi/2022/12/15/471853/?detail-page=1