現代に蘇らせた令和版「卍」誕生!!映画『卍』井土紀州監督インタビュー
—–まず、本作『卍』の制作経緯を教えて頂きますか?
井土監督:僕がシナリオを担当したいまおかしんじ監督の『遠くへ、もっと遠くへ』で、久しぶりにレジェンド・ピクチャーズさんと仕事をしたのがきっかけです。それで、プロデューサーの利倉(亮)さんから「何か企画ない?」と声を掛けてもらって、いくつかの企画を出しました。その中で利倉さんが「これは今の時代にマッチしているかもしれない」と谷崎(潤一郎)の『卍』を選んだんです。元々、この企画は映画化したいと思って、何年か前にプロットは作ってあったんです。
—–何年間の構想がある中で、今回決まったという流れでしょうか?
井土監督:何年間も構想を温めていたというよりは、以前に企画開発したけど進まず、そのままになっていたものでした。ただ、僕自身は非常に谷崎潤一郎が好きで、この人の小説は映画にむいてるなぁ、とは思ってました。
—–私が感じたのは、谷崎潤一郎の原作は日本映画界に、非常に影響を与えているようにも受け取りました。谷崎の作品は、日本映画に何かしらの影響を与えられているのでは、と思います。この点は、監督自身、どうお考えでしょうか?
井土監督:日本で映画が作られるようになった頃、谷崎自身も、映画業界に関わっています。また、映画とフィルムをモチーフにした「人面疽」という小説を書いていますし、「過酸化マンガン水の夢」というエッセイでは、フランスのアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の『悪魔のような女』について語っています。主演のシモーヌ・シニョレの冷酷で残忍な感じのする風貌に惹かれた、と。谷崎作品には、そんなファム・ファタール的な要素もあるので、谷崎風ファム・ファタールに挑戦してみたいと、思ってきました。日本映画に関して言えば、多くの谷崎作品が映画化されていることを考えれば、大なり小なり影響は受けていると思いますよ。人間と人間の関係をむき出しにして描いているから映画向きかもしれませんね。
—–井土監督が原作に対して持った新解釈についてですが、もしかしたら、女性視点のものではないかと、前回の小原さんのインタビューにて2人で結論付けた一面もあるんです。今までは映画も原作も含めて、男性視点の女性の世界を覗きたい願望的なものが強かったのでは。でも、今回は女性側から見た女性の世界を見て欲しいと言う気持ちの表れと解釈したんです。この点に関して、監督が思う新解釈とは何でしょうか?
井土監督:谷崎の描いた世界観が、もはやスキャンダラスではなくなった現代に、改めて谷崎を読み直す、ということが僕の中のテーマでした。『卍』ならば、女性同士が恋愛関係を持つことが、当時は非常にスキャンダラスで、同性愛自体が世間に知られてしまえば、もう生きていけないかもしれないという園子の精神状態みたいなものが、原作では大きな枷として描かれています。でも今、同性愛を描くことは自然なことだし、最早スキャンダルではなくなっている。一方で、既婚者の不倫みたいなことに対しての方が社会の風当たりは強くなっていますよね。そんな時代に『卍』をやるとはどういうことか、とは考えました。女性の視点に関して言えば、脚本の小谷香織さんを頼りにしていました。彼女は、プロデューサーや僕と打ち合わせをしている時に「女性が見て嫌な気分になる映画にだけはしたくないです」と明言していましたからね。だから、シナリオ作りの過程で、彼女が引っ掛かったところがあると、それは何だろう?と議論を重ねて作り上げていきました。撮影現場でも、女性スタッフの意見は貴重でした。演出部で畑中みゆきさんという女性の助監督がついてくれたんですが、彼女の意見も参考になりました。たとえば、劇中で「わたしをONにする」という光子のポスターが出てきますが、どの写真を選ぶかとなったときに、カメラマンや僕は光子がやや色っぽく見える写真を選んでいました。でも、畑中さんは「私には引っかかります」と。色っぽい光子の写真を見て、女性がその服を買いたいと思うでしょうか? 女性が見て買いに行きたくなるなら、光子が好感を持てる表情をしている方がいいんじゃないか、と。それで今の写真に落ち着いたという経緯がありました。
—–だから、この作品には女性の意見が上手に潤滑剤になっている面もありますね。本作では、多くの女性が活躍されていると、私は受け取りました。監督は、どう思われますか?
井土監督:はい、本当に女性の意見にいろいろと助けられていると思います。もちろん、女性だけではなく、男性の関係者の意見もちゃんと反映されていますけどね(笑)。性別に関係なく、とにかく準備段階でのディスカッションと合意形成は本当に大切だと痛感した現場でした。
—–監督自身も脚本を書かれていますね。たとえば、他の男性の脚本家に書いてもらう事もできたと思います。なぜ今回、女性の脚本家の方に依頼されたのでしょうか?
井土監督:少し前の話ですが、『生きるとか死ぬとか父親とか』という連続ドラマで脚本を担当した時、原作のジェーン・スーさんやプロデューサーの祖父江里奈さん、監督の山戸結希さんという女性の方たちとやり取りする事で、僕自身が考え方をアップデートすることになりました。どんどん考え方を変えていかないと、こりゃついて行けなくなるぞ、とその時実感したんです。女性の感覚と男性の感覚には当然、違いはあります。それをどう擦り合わせていくかが大切なんじゃないかと。たとえば、男の僕が脚本を書いたら、逆に監督は女性の方が面白いと思うんです。色々な事をお互いに、修正しやすいですよね。だから、女性にシナリオをお願いしたんです。
—–谷崎潤一郎の原作、 64年の増村監督作品、83年のリメイク作品、そして2000年以降の作品含め、多くの『卍』が作られていますが、これらの作品群に対して、監督はどのような捉え方をしていますか?
井土監督:すべて敬意を持って拝見しました。でも制作する上で、今回は一切参考にしていません。何年か前に企画を考えていた時に、ほぼ全作観ましたけど、作品ごとに、それぞれのアプローチがありますよね。たとえば原作には綿貫栄次郎という人物が登場しますが、今回は綿貫エイジという名前にしています。谷崎はプロット主義的なところがあり、園子と光子の関係ができて、物語が安定すると、その関係を揺さぶるために、急に綿貫がぽんと出て来るんです。綿貫の登場が、サプライズを作って行きますが、全体整合性や人物を掘り下げた時、違和感やおかしなことがたくさん有るんです。そんな点も含めて、今回のシナリオではちゃんと作ろうと。原作では、綿貫というキャラクターが一番面白い存在です。彼は性的不能者のマゾヒストとして描かれています。でも、なぜ性的不能な男と光子がずっと、一緒にいるんだろうか? と、そのあたりを掘り下げていくと、いろいろと違和感が出てくる。つまり、現代に置き換えた時、ドラマとして、ちゃんと様々な角度から人物に対する違和感を取り除いて行く事が必要でした。谷崎には独特の面白さがあるから、登場人物をみんなまっとうにしすぎても面白くないので、その辺のさじ加減は難しかったですね。
—–今回の『卍』がやっと、文芸作品として昇華されたような気がします。今までは単に、男性目線のピンク映画が『卍』だったと思うんですが、改めて、今回自身でも触れていく中、この作品自体、一つの文芸作品に成長したと、私は今お話をお聞きして、感じることができます。 ドラマの部分を重視している点、ちゃんと原作を分析している点。単なるピンク映画ではなく、完全に文芸作品だと思いますが、この点はどう考えでしょうか?
井土監督:そう言っていただけると、本当に嬉しい限りです。前にプロットを作っていた時期に、それぞれの『卍』を観たり、たくさん出版されている谷崎論を読み漁って、谷崎について、またマゾヒズムについて、かなり長い時間考えました。 その上でも、まだまだ考える事がたくさんあって、本当にそう言って頂けるだけで何より嬉しいです。
—–原作含めた過去の映像作品に対して、監督自身、何か影響を受けて、作られましたか?
井土監督:これは妻を寝取られた男の話でもありますよね。園子の亭主の立場に立つと、この物語は、自分の妻の浮気を疑う男の話になります。そこで、参考になる映画はないかと探しました。そして、妻を寝取られた男の映画を観たりしましたね。だから、裏の物語を考えるうえでいろいろと参考にした映画はあります。一方、表の物語は、園子が光子という女と出会って恋に落ちるガール・ミーツ・ガールのドラマであり、深みにはまって夫婦関係が壊れていくファム・ファタールのストーリーとして展開する。こちらはもともと好きなジャンルなのでこれまでの蓄積を活かしています。
—–今回は、谷崎潤一郎の世界観そのものを大切にされたと受け取っても、間違いないでしょうか?
井土監督:世界観と言うよりも、谷崎潤一郎が持っているエッセンスを重要視しました。時代が変わる中、成立しなくなる事柄もたくさんあるけど、谷崎が持つ考えに対して、 しっかり、捉えて行く事が大事です。実は、主演の男2人が、谷崎的なものを支える存在としては、非常に大事な人物でした。
—–100年前の谷崎潤一郎の原作からスタートして、 様々な作品が生まれたと思います。今回、この作品に至るまでを一本の線で結ぶことができると、私は思います。この繋がりは、どこから来ると思いますか?
井土監督:それは倫理観や人権意識、また時代の普遍性に繋がりがあると思います。作り手にもよると思いますが、僕は谷崎の世界観に強く惹かれます。作り手によって、合う合わないはあると思いますが、作りたいと思っている方はたくさんいると思います。チャレンジしたいと思う人達は、谷崎の世界観に何か強く感じるんだと思います。
—–今後も恐らく、谷崎潤一郎の作品は映像化されていく可能性が、ありますね。挑戦したいと触発される内容では、あります。
井土監督:今回の谷崎作品を映像化する上で、大事にしたところは、メディア内のメディアという設定です。これは原作を忠実に守りました。最初、園子と光子が絵画教室で出会う場面があります。園子はモデルとしてキャンバスの中で光子を描いているんです。メディアの中にいる光子、そこは絶対に外してはいけないと思っていました。今回の映画では、 写真のフレームの中で出会い、あくまでも最後はポスターの中にいる光子を見ていてほしかった。そこは、映画にするうえで大事にする必要があると思いました。
—–正直、わたしは今回、原作小説や過去の映像作品に触れて感じたのが、本作におけるこの時代の必然性を感じられない部分がありました。ただ、小原さんのインタビューを通して、本作がこの時代に出現したことが、本当に必要であったと改めて感じることができます。本作への意義をも、感じます。 監督は、本作におけるこの作品の意義をどう受け止めていますか?また、なぜ今このタイミングなのでしょうか?
井土監督:なぜ今でしょう?なぜ、今なのでしょうか?難しい事ですが、もう1度、現代の時代に読み直す良い機会だと思うんです。だから、僕の作品だけでなく、これからどんどん映像作品が出てくる気もします。女性を取り巻く労働環境の問題やハラスメントの問題など、僕は積極的にコミットしているわけではないですが、どんどん社会は変わっていくでしょう。そんな時代に谷崎作品をぶつけてみる意義はあるのではないか、と。 それは理屈ではなくて、勘みたいな所もありますが(笑)。
—–公式のホームページにて、監督がコメントをしていますが、改めて、この作品を踏まえて、人間の愚かとは、何でしょうか?
井土監督:監督する上で、登場人物について考えていると、最後には自分の事を考えてしまいます。いつも自分事として考えるんです。社会的な規律や規範みたいなものを、現実生活では、僕たちは、なかなか踏み外したりしないんです。でも、彼ら彼女達は、その一線を越えてしまう事で、僕らに違った人生を経験させてくれる。虚勢を張ったり、あるいは、何かに溺れたり、そこにあるのが、人間の愚かさだからこそ、登場人物たちを愛おしく感じることができる。観終わった後、そのことについて語り合いたくなるのは、フィクションの中であろうと、僕達は彼らの物語を自分事として感じたからではないでしょうか。
—–最後に、本作『卍』の今後、どのような道を歩んで欲しいのか、また作品への展望はございますか?
井土監督:さっき、おっしゃってくれたように、本作のような文芸的な映画がまた色々制作されて行くと嬉しいですね。自分が作る作品だけでなく、文芸物や文芸エロスが作られる時代が来ても欲しいと考えています。本作がきっかけで、少しでも文芸作品が増えてくれれば嬉しいですね。
—–貴重なお話、ありがとうございました。