映画『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』「何者」にもならなくてもいい

映画『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』「何者」にもならなくてもいい

あの頃、音楽が人生のすべてだった映画『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』

©2022 Fruitland, LLC. All rights reserved.

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有名になりたい。知名度が欲しい。富や名声が欲しい。自身のアルバムが売れて欲しい。そう強く願っても、時に世間はそれを許してはくれない。どれだけ強く望んでも、どれだけ強く努力しても、自身の活動と知名度が比例する事は極稀だ。有名になるには、自身の実力や人脈だけでなく、その時の運やタイミング、偶然が味方となり、上昇気流に乗って、うなぎ登りのような右肩上がりを経験する。でも、それは時の運でしかなく、そう簡単に有名になれるものではない。自身の実力と人気に火が着くのは、相反する反比例の存在だ。強く望めば望むほど、それは自身の足元から音を立てて遠ざかる。貪れば貪るほど、自身が思い描く夢は貧相極まりない。がっつけばがっつくほど、そいつはヌルヌルと鰻のように逃げ惑う。世間の誰もが、見向きもしない。世間の誰もが、嘲笑する世界。映画『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』は、アメリカの兄弟デュオ「ドニー&ジョー・エマーソン」の実話をもとに描いたヒューマンドラマ。30年間売れなかった兄弟デュオのデビューアルバム「ドリーミン・ワイルド」が時を超えて、一部の音楽ファンによって評価された実話を描く。チャンスは、いつ何時訪れるか分からないからこそ、いつでもその準備が必要だ。

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兄弟デュオ「ドニー&ジョー・エマーソン」のように、音楽業界では遅咲きで人気を得たバンドやアーティストが、国内外問わず存在する。たとえば、海外ではマルーン5やアレサ・フランクリン、シェリル・クロウ(彼女はデビューする迄の紆余曲折が取り上げられている)、また国内では夏川りみ、RCサクセション、ピチカート・ファイヴ、スピッツ、エレファントカシマシ、山下達郎ら(※1)が挙げられる。それでも、ドニー&ジョー・エマーソン兄弟のように世間から30年間、その存在を認知されなかった訳ではなく、せいぜい5年から10年ほど、盤根錯節した音楽活動を余儀なくされていた。それが、長いか短いかは人それぞれの価値観であり、エマーソン兄弟の人気が出る迄の30年間は彼等にとって売れるまでの必要な時間だったのかもしれない。音楽の世界に留まらず、たとえば、文学界では松本清張や窪美澄、若竹千佐子らが遅咲きの有名大作家として今でも名前が挙げられる。松本清張は、42歳。窪美澄は、44歳。現役の若竹千佐子は、夫に先立たれた55歳から活動を始めて、60代にして文壇デビューを果たしている。松本清張が、小説家として注目を浴びる迄の紆余曲折さは、非常に有名な話(※2)だ。中には、遅咲きにも関わらず、志半ばで逝去した葉室麟は、50代で小説家デビューしている。まだ生前にアーティストとして芽が出るのはまだ幸運な方で、たとえば、「銀河鉄道の夜」や「注文の多い料理店」で有名な作家・宮沢賢治(※4)が、没後に注目されたのは非常に知名度な話だ。苦労の数だけ、苦労の年数だけ、より濃厚な人生のドラマティックが展開される。映画は、語られなかったエマーソン兄弟の苦節30年の人生を描いている。アルバムを制作してから30年の歳月が流れた後、彼等はどんな人生を歩んで来たのか誰もが気になるところだろう。

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ハリウッドを代表するトップスターのマリリン・モンローは、「誰もがスターなのよ。みんな輝く権利を持っている。」(※5)と訴える。有名であろうがなかろうが、誰にでも人生で輝く権利を持っている。どんな人間でもスポットライトに当たるチャンスがあり、たとえそのライトに当たらなくても、様々な舞台やステージが用意されている。でも人は、自身が何者かになろうと、日々努力する生き物であり、その人としての悩みは数千年前の哲学者達にとっても悩みの種(※6)でもあった。なぜ、私達は何者かにならないといけないのか?私達は、誰でもない私達自身であり、貴方自身であるにも関わらず、なぜ自分以外のもう一人の自分になりたがろうとするのだろうか?社会は、人に何者かにならななければならないと強く求める傾向があり、それに答えようと若者や子ども達は社会の中で必死に自身が「何者なのか」と答えを探す。でも、今の時代は誰もが「何者にもなれない」時代であり、もしかすると、最初から「何者かになるように強制された時代」(※7)に突入しているのかもしれない。貴方は貴方自身で、私は私自身。誰にも強制される事なく、今ここに存在する「私/僕」の存在を認めてあげなくてはいけない。デビューしても売れなかったアルバム「ドリーミン・ワイルド」を制作したエマーソン兄弟達も30年間、必死に自身が誰であり、何者であるかと、模索し続けたのだろう。苦節30年。時を超えて、彼らはその答えの真の意味を見つけれたに違いない。人は、何者であるかの前に、一人の人間であり、人なのだ。まずは、そこを大切にしないと、次の「何者」にはなれない。私自身、今の私が「何者」なのか到底理解が追いついていない。誰が、そうさせるのか皆目見当もつかないが、無意識のうちに、社会の全体が何者かになるように仕向けているのかもしれない。何者かにならなければならない地獄から一人でも多く救い出し、その洗脳を解きたい。貴方は、貴方自身でいいと伝え続けなければならないだろう。映画『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』を制作したビル・ポーラッド監督は、あるインタビューにて本作の題材となっているエマーソン兄弟の反応について聞かれ、こう話している。

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ポーラッド監督:「明らかに、ドニー&ジョー・エマーソンのアルバム「ライト・イン・ザ・アティック」が発掘され、アルバムが再リリースされたのです。彼がその時点でうまくいくと思っていたかどうかはわかりません。でも、私たちに会ったとき、彼は映画を作るという考えに共感できなかったのです。でも彼は私たちを空港まで迎えに来て、農場へ行き、地元のバーで何杯か飲んでから、家まで車で送ってくれました。そして、ドライブの途中で、ジムは後部座席で眠っていて、ドニーは私に自分の話をしていて、泣き始めたのです。だから、彼の気持ちが前面に出ていて、それがさらに私の興味をそそりました。いろいろなことが重なった結果です。ほとんどの人と同じように、泣き出してみると、なぜ泣いているのかよくわかりません。ただ、何か大きなことが起こっているということだけはわかります。それを単純化しすぎずに、映画で表現することが課題でした。」(※8)と話す。最初に、この作品の脚本を手にした時、ビル・ポーラッド監督はドキュメンタリー映画『シュガーマンを探して』を彷彿とさせ、制作に乗り気がなかったと話す。けれど、エマーソン兄弟の元に行き、バーで数杯お酒を引っ掛け、その帰路に着いた車中で、一人の男の本物の涙を見たポーラッド監督。この何とも言えない様々な感情が織り交ざった男の涙に、監督自身、共感を禁じ得なかったのだろう。ビル・ポーラッド自身も、映画監督としては紆余曲折した人生を送っている(監督志望でなかったにせよ)。1991年に最初の作品を作ってから、次に監督を務めたのは25年後の2016年の作品だ。それまでは、映画プロデューサーとしてハリウッドで活躍しているが、実はハリウッドに移り、プロデューサー業に転職するまでも業界で五里霧中の中にいた。プロデューサーとして初めてメジャーに登場できたのは、映画『ブロークバック・マウンテン』と話す。ビル・ポーラッド自身が、実はエマーソン兄弟と同じような人生を歩んで来たのだろう。何者にもなれない自分自身と向き合いながら、何かになろうとしていた時代。恐らく、この映画の中に、エマーソン兄弟の姿にその答えが隠されている。何者にならなくても、みんな何者になっている。

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最後に、映画『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』は、アメリカの兄弟デュオ「ドニー&ジョー・エマーソン」の実話をもとに描いたヒューマンドラマだが、単なる売れなかったアーティストを発掘する伝記映画ではない。この作品には、30年という長きに渡り紆余曲折しながら、自身の音楽活動とひたむきに向き合い、自身が何者であるのか模索し続けた兄弟デュオの活動の軌跡が詰まっている。それをドラマティックな音楽性のある物語と一言で片付けるのではなく、30年という月日の重みを感じながら、彼らが模索した「何者」について、私達も考える時代の契機に来ているのかもしれない。「何者」にもなれない、いや、ならなくてもいい今の若者に贈るほんの些細なサクセス・ストーリーだ。

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映画『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』は現在、全国の劇場にて公開中。

(※1)遅咲き♪アーティスト 10選【百歌繚乱・五里夢中 第16回】https://mag.mysound.jp/post/373(2025年3月7日)

(※2)42歳で遅咲きデビューの巨匠・松本清張 貧しさと悔しさに満ちたその半生https://www.excite.co.jp/news/article/OhtaBooks_012247/(2025年3月7日)

(※3)連載小説は未完に…遅咲きの直木賞作家・葉室麟さん死去https://dot.asahi.com/articles/-/113539?page=1#google_vignette(2025年3月7日)

(※4)「宮沢賢治」が生前ほとんど評価されなかった背景堀辰雄の小説『風立ちぬ』についても解説https://toyokeizai.net/articles/-/638465?display=b(2025年3月7日)

(※5)マリリン・モンロー 名言https://www.clairworks.com/words/detail/296#google_vignette(2025年3月8日)

(※6)解決の鍵は哲学者に聞け!!ー小川仁志 自分は何者か、何者でもないのか 哲学には答えがあるhttps://business.nikkei.com/atcl/plus/00016/060700010/(2025年3月8日)

(※7)「きっと何者にもなれない時代」の平凡と「あらかじめ何者かが強制された時代」の平凡https://www.huffingtonpost.jp/toru-kumashiro/post_6579_b_4534244.html(2025年3月8日)

(※8)Director Bill Pohlad Talks Dreamin’ Wildhttps://mspmag.com/arts-and-culture/bill-pohlad-dreamin-wild-qa/(2025年3月8日)