ドキュメンタリー映画『リッチランド』核の脅威は止むことはない

ドキュメンタリー映画『リッチランド』核の脅威は止むことはない

2024年8月17日

私たちはその果実を食べたドキュメンタリー映画『リッチランド』

©2023 KOMSOMOL FILMS LLC

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1945年8月15日。この日は、私達日本人にとって、忘れられない一日だ。あれから79年の月日が流れ、また同日を迎える今日の日。この日は、アメリカが太平洋戦争に勝った日なのか?それとも、我が国日本が、負けた日なのか?そんな次元で戦争という恐ろしい事象を語れないだろう。この日は、戦争が終わった終戦記念日、植民地化された自国を取り戻した独立記念日、勝戦国と敗戦国が明確に決められた日、軍国主義から民主主義へと価値観がガラッと変わった日として、人々の各々の心情に大きな影を落とす事になった世界でも稀有な一日だろう。この毎年訪れる8月15日を面前にして、人々はそれぞれに何を想うのであろうか?日本は、世界で最初に最後として核爆弾を国内の2箇所に落とされた国として、今も尚、核兵器撤廃、核保有への反対を昔から唱える国として存在している。核爆弾の被害国として世界に強く訴えいかなければ、先進国を初めとする国々は、核保有への価値観や考え方を緩める事も反対の意見へと覆す事もまたないであろう。それとは対照的に、核の製造やプルトニウムの保存を積極的に行う町が、アメリカに存在する。その町では主にプルトニウムや核実験が行われていた。それは、リッチランドと呼ばれるアメリカの田舎町であるが、この町の住民は皆、一様に核兵器が作られた町として自身の居住地を積極的に誇りにしている。海外には、そんな稀有な存在の町があり、核に対して好意的に捉えている珍しい場所だ。その町の住民は、核爆弾を製造していた歴史に胸を張っている。アメリカの過ちを少しでも肯定しようと、潜在意識が働いているのかもしれない。「確かに、あれは非常に酷い事だったが、核投下がなかったら、日本兵がアメリカ本土に侵略し、今頃私達は日本語を話していたかもしれない。そう考えると、ヒロシマ・ナガサキに核が投下されたのは正しい選択だった。」と、この町に住む高齢の黒人男性は話す。なんて愚かな考えだろうかと、私は驚きを隠せないが、あの場所に長年住んでいたら、そんな思想に陥ってしまう恐怖もあるのではないだろうか。ドキュメンタリー映画『リッチランド』は、第2次世界大戦下のアメリカ、マンハッタン計画のもとで生まれた町の知られざる歴史と現在を描いたドキュメンタリー。リッチランドの誕生と発展の歴史をひも解きながら、人々の何気ない日常の背景に常に“原爆”が横たわっていた町の姿を映し出し、近代アメリカの精神性、そして科学の進歩がもたらした、人類の“業”を重層的に浮かび上がらせていく。映画を観れば、観る側は必ずリッチランドの住人になってしまう。この町の中に入って、再度、核実験や核爆弾の是非を自身の中から問い直して欲しいと願うばかりだ。

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アメリカのワシントン州南部に位置するリッチランドは、1942年に計画されたマンハッタン計画における核燃料生産拠点「ハンフォード・サイト」で働く人々とその家族が生活するために計画的人工的に作られた田舎の小さな町だ。日本人にとっては、憎いキノコ雲や核爆弾のマークを学校や地域の紋章にして使用し、過去にここの町で核実験が行われた事を誇りにしている町がある事を映画を通して知った時、どこか漠然と愕然とした怒りと呆れ、虚脱感に襲われた。こんな町が戦時中に存在し、未だに住民たちが住み着き、町が静かに発展している事に、戦争の恐ろしさを知っているどの日本人も正気な感情では居られないだろう。いっその事、このリッチランドという田舎の町に核爆弾を投下してしまいたいという暴論でさえも、目には目を歯には歯をの精神で、どこからともなく声として生まれて来そうでもある。でも、それはまっまくのお門違いであり、そんな事は日本人の誰も望んでいないはずだ。そんな田舎にひっそりと居を構える町リッチランドの歴史は、そんなに古くない。1942年からだと、今年で82年目を迎えた事になるが、この町がどのように生まれたのか、その背景が気になるところだ。この地域の歴史は、古くは1805年頃まで遡る事ができ、1910年4月28日、ワシントン州の第4級都市として法人化されている。今回は、特に第二次世界大戦前後に注目する必要がある。リッチランドは、第二次世界大戦中にアメリカ軍がコロンビア川沿いの640平方マイル(1,660 km2)の土地(ロードアイランド州の半分の面積)を購入するまで、小さな農村だったとされている。アメリカ軍がリッチランドを、近くのハンフォード工場)現在のハンフォード・サイト)のマンハッタン計画施設の労働者のベッドタウンに変えたのが、このリッチランドという町の始まりだ。この町は、住民達が自らの手で作り上げた都市ではなく、アメリカ軍が人工的に作り上げた“虚構の”町みたいなものだ。第二次世界大戦、終戦戦後、ソ連時代と幾多の時代を経験したリッチランドとこの町の住人、そしてマンハッタン計画施設での核の生産。長きに渡る核関係で町は成長したものの、1987年、すべての生産を止めた。その後は、環境浄化と技術に移行した。それでも、リッチランド高校のスポーツチームはボンバーズと呼ばれ、キノコ雲のロゴが付いているままだ。それは、現代でも変わらない。1958年以降、区画整理された道路には、アメリカ陸軍の将軍にちなんた名前が付けられている(パットン通り、マッカーサー通り、シャーマン通り、パーシング通りなど)。また、様々な核のテーマにちなんだ名前の通りがある(アインシュタイン通り、キュリー通り、プロトン通り、ログ通り、ニュークリア通り)。今も同じ土地で、当時、核の生産やマンハッタン計画に従事した高齢の住民が、“キノコ雲”という存在を誇りにしながら、穏やかに暮らしている。

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その一方で、核爆弾を落とされた日本の広島、長崎の当時は、8月のこの時期になるとテレビで制作された数多くのドキュメンタリーが放映されている。私も毎年、日本の戦争に関するドキュメンタリー番組には目を通すようにしている。あの日、あの時、あの場所で何が起きたのか。これを語れる方々は、年々歳を重ね、今では皆さん90代以上に差し掛かっている。歳を召された方々は、寿命と共にこの世を去り、戦争を語れる日本人が年々減少している。昨晩、あるドキュメンタリー番組を通して、戦時中の子ども達を被写体に制作した記録映画(戦争推進教育映画)『戦ふ少国民』に触れた。

戦ふ少国民

そんな90代のご老人でさえも、当時は小学生の子どもか、10代の若者であった。戦争を体験した世代の灯が、後少しで消えようとしている。日本に限らず、1940年代に起きた第二次世界大戦を体験した年代の方が、どこの国、どの地域にも関わらず、減少している今だからこそ、後世にあの時代に何が起きたのかを、次の世代の子ども達に継承する事が今の世界の課題だ。二度と同じ過ちを繰り返さないを信条に、次世代への継承を私達は最優先事項の一つとして取り組まなければならない。原爆が投下された当時、広島では8月6日、長崎では8月9日。それぞれ違う日に落とされたが、結果的惨状はまったく同じ道を辿っている。「原爆投下直後は、広島市内の防空体制は壊滅的に近い打撃であったが、救援体制はすぐに機能をし始め,被爆当日の8月6日午後3時までに乾パン12万食が配給された。また、被爆当日には比治山多聞院に救護所が開設された。被爆翌日の7日には警察署の救護班員が市内に入り救護活動を行なった。医師や看護婦はもちろんのこと高等女学校の教員・生徒なども救護活動を行なった。」(※1)とあり、甚大な被害を受けた広島中心部には、救護活動をする人員も確保できないほど、多くの犠牲者を出している。また、原爆における広島での屍体の処理は、救護活動同様に困難な課題があったとされる。夏場は腐敗期であり、丁重かつ迅速に実施する事を課題として敷いた。死体の埋葬は火葬または土葬で行われ、可能な限り神官や僧侶を列席させた。結果的に、警察機関の処理数:1万7,865人、軍部隊の処理数:1万2,054人、その他市外に避難し死亡した者:3,040人に昇る犠牲者が出ているが、これは被害直後の事であり、戦後ますます犠牲者が増えた背景もある。広島同様に長崎での投下直後は如何だったのだろうか?長崎の原爆投下直後の貴重な証言がある。「『“新型爆弾”で家がつぶれた。お母さんが見つからない』という電報を叔母(当時17才)から受け取り、神戸に住んでいた母は、すぐに姉(当時5才)と私(当時2才)を連れてで電車を乗り継ぎ長崎へ向かいました。移動中、幼い私は私はずっと泣いていて、母は途方にくれたそうです。また、叔母の証言によると、一夜明けて祖母の骨を見つけ、死亡を確認したという。Aさん家族のように被爆から数日後、親類を探したり負傷者を助けたりするために大勢の人たちが爆心地近くに入り、残留放射能を浴びた。そうした人を「入市被爆者」と呼び、被爆者健康手帳が交付されている。」(※2)。これが原爆投下、被曝直後の惨劇だ。広島、長崎に住む多くの住民が、人生で大切な日常を奪われている。そして、その日常を取り戻すのに凡そ10年は最低、時間を要している事を考えれば、投下一瞬の惨劇だけでなく、その後、数十年以上も続く人々の苦しみも、今までの日常を取り戻す事も、原爆が落とされた以上の苦悩が続いていると、私達は理解しなければならない。1945年のあの夏の日、日本の2箇所で落とされた原子爆弾の脅威は、80年が経過した今の世にもコンコンと継続され、残されている。ここに、広島赤十字・原爆病院、日本赤十字社 長崎原爆病院、日本赤十字社 長崎原爆諫早病院と3つの病院を紹介しておくが、これは原爆症やガンに苦しむ患者を受け入れる病院だが、そのどちらもが設立された場所が、広島と長崎だ。日本のどこを探しても、この2箇所にしか原爆病院がないという事実を、私達日本人(日本人だけでなく、世界中の人々が)はしっかりと受け入れた方が良いのかもしれない。原爆の後遺症は、あの時だけでなく、今この瞬間も次の世代、その次の世代、孫、曾孫、玄孫にまで影響を受けていると考える必要があるだろう。広島での原子爆弾の投下直後は非常に悲惨で、「遺体がゴム風船のように膨らんどった」(※3)や「お母ちゃんと叫びながら、子どもが川に飛び込んだ」という証言が、当時の惨状を物語る。生存している現役の被曝者の男性は、こう話している。「大量殺人兵器を落としたということはね、やっぱりアメリカは許されるべきことじゃないんですよ。でも考えてみるとね、こんなこと言っちゃ悪いけど、戦争を起こしたのは日本なんですよ。「ロシアは、核を使うと威嚇しとる、イスラエルもそんなこと言ってる。いつまた核戦争が起こるかもしれないという状況ですが、どうしたらいいか。 私も答えがよくわからないんですよ。でも、やっぱり世界中の人にもっと原爆や被爆の実相を知ってもらって、世界中で声を上げていくことが大事なんだと思います。」アメリカが悪なのか、日本が悪なのか。その答えはまだ、見つけられないだろう。今年、79年目の終戦を迎えた日本。証言者の話やドキュメンタリー番組に触れて思うことは、やはり戦争はまだ終わってないという事。可視化できる範囲で、都合よく終戦記念日という特別な日を設けただけで、その水面下で人々は今も戦争と戦っているという事を忘れないでおきたい。ドキュメンタリー映画『リッチランド』を制作したアイリーン・ルスティック監督は、制作を通して考えを変えるような出来事はあったのかと聞かれ、こう話している。

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Lusztig:“It’s not 100% in chronological order, but the structure of the film definitely moves into more and more complexity, but also more and more intimacy with people and I think some of the most moving narratives or testimonies in the film happen near the end. That was true to my process that it took a while to get there with people, and I hope people have that experience when they watch the film that they come into thinking about a community like Richland with a lot of knee-jerk reactions or preconceptions or ideas of what think a weapons production company town might be. But I hope that as people watch the film, they also move as I did into a space of more and more complexity, holding a lot of different perspectives and points of view.”(※5)

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ルスティック監督:「私は、何を見つけるか、あるいは映画が何についてのものなのかといった固定観念を持たずにプロジェクトに臨む傾向があり、作業中はそうありたいと考えています。映画がそのような感じになることを願います。常に、私は自分の見方を変え、物事を新しい方法で考えるよう迫られました。もちろん、仕事を始める前は核についてあまり知りませんでした。ですから、主題とハンフォードの歴史を理解するという点で、大きな学習過程がありました。それは単純でもあり複雑でもありますが、私が学んだ最大の教訓は、寛大な心で人々の話に耳を傾ければ、最初は政治や生活経験が大きく異なるように見える人々も含め、あらゆる種類の人々と本当に有意義な対話の場を作ることができるということです。これは、プロジェクト開始当初から私が抱いていた決意でした。おそらくより保守的であったり、異なる視点を持つ人々と時間を過ごすことに挑戦したいと思っていましたが、お互いに耳を傾ける場を作ることができるような方法でそれを実現したいと考えていました。」と、監督は「お互いに耳を傾ける」ことに注力して欲しいと話す。日本の観客もまずは、敵国アメリカ人の思想を受け入れる必要があるのではないだろうか?時に、腹立たしい物言いをする老人の男性も登場する。時に、原爆投下が正しかったと肯定的な意見を述べる黒人男性も登場する。観ていて、相手の言葉に耳を傾けていると、どうしても腹立たしい感情が先行的に沸き起こってしまうだろう。でも、ルスティック監督が言う「お互いに耳を傾ける」。この点は終始、意識の中で持ち続けることではないだろうか。アメリカ人もまた、日本人が経験した原爆投下の悲劇を通して抱いた憎しみ、悲しみ、怒りと言った感情に耳を傾ける必要がある。お互いが、お互いに感じた事に対して、心の余裕を持って耳を傾け合った時、必ず何かに変化が生じるだろう。互いの耳に心を傾ける事が、これからの未来の世界平和へと繋がるのではと思いたい。

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最後に、ドキュメンタリー番組『リッチランド』は、第2次世界大戦下のアメリカ、マンハッタン計画のもとで生まれた町の知られざる歴史と現在を描いた作品だ。この町に住む住民には、“キノコ雲”を誇りに思う核爆弾、核実験肯定派がいる一方で、アメリカが日本に行った非人道的な核兵器の所業に対して否定的な人もいる。リッチランド(金持ちの住む町)というネーミングの町名には、聞いて呆れるほど極端な思想のセンスで、その町に住む住民は皆、町の名前に負けないほど心が貧相な持ち主はがりが住んでいると思っていたら、住民は皆、極々平凡にそこで幸せに暮らしている普通の住民ばかり。昔から議題に出される核実験に対する責任の所在は、リッチランドの住民には背負えない。ならば、それはアメリカ政府か、日本の政府か。誰が、戦争を仕掛けたのか?第二次世界大戦における日本の選択は、愚かな行為であったと猛省する必要がある一方で、アメリカ政府もまた、核投下に関して日本と同じように猛省する必要があるのでは?もう80年前の事を根掘り葉掘り掘り返しても、誰も戦争の責任を果たす事はできない。なぜなら、当時の最高責任者は皆、寿命と共に逝去しているから。だからと言って、A級戦犯、BC級戦犯で裁かれているから、これ以上の責任の追求は御法度なのかもしれない。過去に起きた事を蒸し返するより、今日これからの未来への責任の所在をしっかり明確にすべきではないだろうか?近年、ロシアウクライナ戦争における核使用(※6)は、カウントダウンの秒読み前に入っているのだろう。また、イスラエルもガザ地区に対して核の使用(※7)を視野に入れているという発言が、世界的に批判された。そのイスラエルに関しては、今年の長崎の平和記念式典において同国が、直前となって招待されなかった事態(※8)も記憶に新しい。核保有国は、世界の中で9カ国。米国、ロシア、フランス、英国、中国、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮(※9)だ。いつ、どこで、どの国が核爆弾を民間に向けて投下してもおかしくない状態が、今目の前の現実にある。また、現在問題視されているのは、過去に起きたビキニ環礁で実験が行われていた水爆実験だ。この実験で被爆した第五福竜丸という漁船が、当時注目を浴びていたが、60年以上経過した今、ビキニ環礁で行われた水爆実験による被害は、この第五福竜丸だけでは無いという調査結果もある。「ビキニ水爆実験では「第五福竜丸」以外に多くの被災船が存在したことはあまり知られていません。しかし、水産庁では延べ992隻(実数550隻)の被災船を把握していました。」(※10)とある。核爆弾、水爆実験、核の脅威は今も止むことはない。もし文化芸術の側面から、少しでも核進行に対して、抑止力になるのであれば、映画や音楽、詩、美術が世界に対する核の脅威を足止めさせる事ができるのであれば、世界の平和も音楽や芸術の力で抑止に繋げたい。原子爆弾投下直後に、当時の広島県人と長崎原人が感じた生への感情と、死への感情を音楽に託したものが、日本人の心の琴線を振る舞わせる。これら音楽の力が、世界平和の何かしらの作用になる事を祈らんばかりだ。

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ドキュメンタリー映画『リッチランド』は現在、全国の劇場にて公開中。

(※1)広島の復興シリーズ Vol.4:原爆投下直後の広島https://hiroshimaforpeace.com/reconstruction-4/(2024年8月16日)

(※2)被爆後の長崎の日常 浦上の暮らしhttps://dl-archive.jp/textbooks/nagasaki03/(2024年8月16日)

(※3)「遺体がゴム風船のように膨らんどった」原爆の熱線が人間の内臓まで破壊…死者14万人“広島原爆”で被爆した93歳男性が明かす“凄惨な記憶”https://bunshun.jp/articles/-/72416?page=1#goog_rewarded(2024年8月16日)

(※4)「お母ちゃんと叫びながら、子どもが川に飛び込んだ」死者14万人の“広島原爆”を体験した被爆者(93)が語る、“非業の死”を遂げた子どもたちへの思いhttps://bunshun.jp/articles/-/72417?page=1(2024年8月16日)

(※5)Tribeca 2023 Interview: Irene Lusztig on Clearing Away the Fog of History in “Richland”https://moveablefest.com/irene-lusztig-richland/(2024年8月16日)

(※6)ロシアが核戦略見直し決定、使用の歯止め外れることに懸念 その背景は、対ウクライナで核攻撃の可能性は?https://nordot.app/1188416912100081719?c=39546741839462401(2024年8月16日)

(※7)イスラエル閣僚、ガザへの核使用「選択肢」 発言に非難https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR052QN0V01C23A1000000/(2024年8月16日)

(※8)米大使、長崎市に「政治的な決断」 イスラエル大使「増上寺に感謝」https://www.asahi.com/articles/ASS891PSLS89UHBI013M.html(2024年8月16日)

(※9)『世界の核弾頭データ』2023年版https://www.recna.nagasaki-u.ac.jp/recna/topics/43620#:~:text=%E4%BF%9D%E6%9C%89%E5%9B%BD%E3%81%AF%E3%80%81%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E3%80%81%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2,%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%209%E3%82%AB%E5%9B%BD%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82(2024年8月16日)

(※10)核開発競争とビキニ水爆実験 ― 「第五福竜丸」と延べ992隻の被災船https://shizuoka-heiwa.jp/?p=1763(2024年8月16日)