映画『愛がきこえる』子ども達の切なる願いを守りたい

映画『愛がきこえる』子ども達の切なる願いを守りたい

互いを思いあう静かな愛を描く映画『愛がきこえる』

©CKF PICTURES (Ningbo) Co., Ltd. / iQIYI Pictures (Beijing) Co., Ltd. / Shanghai Tao Piao Movie & TV Culture Co.,Ltd.

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愛しているのに、伝わらない。愛したいのに、届かない。その断絶の背後には、個人の努力では崩せない、不可視で厚く高い壁がある。社会が長い時間をかけて積み上げてきた「常識」や「正しさ」という名の壁だ。親子の絆でさえ、それを前にすると試され、時に断罪される。当事者の主観と、周囲の人々が抱く価値観は、似ているようで決定的に違う。どれだけ内側から声を上げても、外へ届く前に跳ね返される。世間が用意した幸福のテンプレートだけが正解とされ、個人が模索する幸せの尺度は、往々にして未熟だと見なされる。ただ親子で穏やかに暮らしたい。それだけの願いでさえ、社会的なフィルターを通され、評価され、時に否定される。とりわけ、障がいのある親や家族をめぐる視線は、今も厳しい。「障がいがあれば、子どもを育てられない」「障がい者と暮らす子どもは不幸だ」「ヤングケアラー的な立場を強いられるに違いない」こうした言葉は、統計や実証よりも先に、空気として流通する。根拠のない曖昧な一般論が、当事者の人生を規定していく。どれだけ本人たちが自信を持って家庭を築こうとしても、その自信は「無謀」と翻訳され、周囲を不安にさせる材料に変換される。しかし現実は単純ではない。障がいのある人々の中には、既存の尺度では測れない能力を持つ人もいる。むしろ社会の側が、その力を活かす構造を十分に整えてこなかったと言うべきだろう。それでも世間は、彼らに「普通」を期待しない一方で、「普通」であることを前提に制度を設計する。この矛盾が、当事者を静かに追い詰めていく。さらに背景には、経済的不安というもう一つの壁がある。もし多くの障がい者が一般企業で安定的に雇用されたら、自分の仕事が脅かされるのではないか?そんな恐れが、無意識の排除を生む。次に解雇されるのは自分かもしれない。そう思えば、人は理想よりも保身を選ぶ。他者を支える余裕がないという現実が、共感を削り取っていく。まるで社会全体が一本の映画のように展開される。観客は安全な暗闇からスクリーンを眺め、登場人物の選択を批評する。しかし、もし自分がそのフレームの内側に立ったらどうなるだろうか?ひとたびカメラが向ければ、誰の痛みをクローズアップし、誰の声をカットするのか?それは、単純明快だ。健常者の姿と声がクローズアップされ、残される。逆に障がい者達の姿と声は、物語の闇に葬り去られる。愛は、派手な演出を持たない。ただ、日々の生活の中で、小さくも確かに生き続いている。それでも社会は、ドラマチックな失敗や極端な事例ばかりを切り取り、「やはり難しい」と結論づけ、切り捨てる。そこに生きる人々の静かな成功や、地道な努力はエンドロールの外に追いやられ、万人からの感動も賞賛も得られない。映画『愛がきこえる』は、耳の聞こえない父と7歳の娘の愛と絆を描き、中国で大ヒットを記録したヒューマンドラマ。愛しているのに、伝わらない。愛したいのに、届かない。その言葉が個人の嘆きとして消費されるのではなく、社会の構造を改めて問い直す声として届く時、肌で感じる見えない壁に初めて小さな亀裂が入るのかもしれない。親子がただ、幸せを求める事。それが特別視されない社会は、私達がストーリーの中ではまだ、本編として描けていない予告編の状態だ。

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世界にいるヤングケアラーに陥っている児童が現在、どれくらいいるのか。恐らく、その正確な総数を把握している者はいないだろう。残念ながら、世界全体の明確なヤングケアラー(※1)の合計人数はいまだ特定されていないのが現状だ。統計の外側で、静かに家族を支える子どもたちの姿は、数字に置き換えられる前に日常へと溶かされて行く。高齢化や慢性疾患の増加に伴い、その数は世界的に増えつつある一方、イギリスでは約70万人、日本でも中学生の約17人に1人、高校生の24人に1人がヤングケアラー当事者(※2)として該当する背景を考えれば、この問題は見えにくい形で多くの子ども達が日常的なケアを担っている環境にあると考えられ、子ども達が何かしらの重く見えない負荷の下、日常という生活を過ごしている。教室の片隅、放課後の帰り道、その背中にのしかかる責任の重さは、外からは容易に想像できない。ヤングケアラーに関する主な現状(※3)に関して、まず定義について触れて行きたい。特に、18歳未満の子どもが、病気や障害のある家族の介護・ケア(家事や幼いきょうだいの世話など)を日常的に行う事を指す。だが、その「日常的」という言葉の中には、まだ幼い手で包丁を握る朝や、深夜に洗濯機を回す静かな時間が含まれる。海外の動向においては、発祥のイギリスでは70万人近く、他の先進国でも高い割合で存在し、重大な社会問題として認識されている昨今。日本国内の状況では、中学生の5.7%、高校生の4.1%が家族の世話を余儀なくされ、その負担により学業や健康(睡眠不足や疲労)に影響が出ている事例が報告されている。数字は淡々としているが、その背後には、授業中に瞼を堪える視線や、進路希望欄を前に言葉を飲み込む沈黙がある。これらの問題の背景にある課題には、家族のケア(料理、入浴介助、買い物など)に追われ、勉強時間や友達と遊ぶ時間が確保できないケースが多く、生活への影響が懸念される点が挙げられる。本来、子どもが持つべき余白には、寄り道や無駄話、駄菓子の買い食い、将来を友と共に語り夢想する時間が子どもの成長に繋がるのに、それらが静かに削られていく現実だ。次に、ヤングケアラー自体が子ども達の孤独感にも繋がり、「ケアは家族がするもの」という意識から、周囲に相談できず孤独を抱えやすい場合が生じる。家庭という密室性の高い空間で、責任と沈黙を抱え込む構図は、社会が見逃して来た負の部分でもある。そんな環境下にいる子ども達には、社会的支援の必要性が叫ばれ、介護や家事の負担が重い場合、子どもの権利が損なわれる為、行政や学校による早期発見と支援が必要とされる。これは福祉の問題であると同時に、社会全体の倫理が問われるテーマでもある。このように世界中で多くの児童が、家族を支える責任を担い、学校、地域、地方自治体による適切なサポート体制の構築が課題となる。一方で、厚生労働省の調査によると、小学6年生で6.5%、中学2年生で5.7%、高校2年生(全日制)で4.1%に家族のケア経験があり、1クラスに1〜2人はいる計算が算出されたばかりだ。つまり、特別な誰かの話ではない。教室のどこかで、今日も誰かが家族の為に時間を差し出している。主な調査結果の詳細には、上記の他に大学3年生の6.2%が「世話をしている家族がいる」と回答している。1クラスあたりの人数で言えば、小中高生の1クラスに約1〜2人の割合で存在し、決して少ない数字とは言い切れない。またケアの内容には、兄弟の世話(71.0%)、母親の世話(19.8%)、祖父母の世話などが含まれる。ヤングケアラーの子ども達が1日に使える時間は少なく、1日7時間以上、親や家族の世話に費やす事例もあり、全体の約7%に昇る。放課後から夜更けまで続くケアの時間は、子ども時代の一部を静かに塗り替え、潰して行く。現代の日本のヤングケアラーにおける特徴には、平日にほぼ毎日ケアを行うケースが多く、本人がヤングケアラーである自覚がない場合も少なくない。この件を踏まえて考えると、潜在的なヤングケアラー児童がまだまだ水面下にいて、私達が気付いている範囲内は全体の数%に過ぎないのかもしれない。調査結果では、中学生で約17人に1人、高校生で約24人に1人と、どの学校段階でも一定数が存在し、学校生活への影響(勉強時間の不足、慢性的な疲労、進路への影響など)が懸念されていると報告(※4)がある。スクリーンに映らない現実だからこそ、社会はその物語に耳を澄ませる責任がある。世界にいるヤングケアラーの正確な総数はいまだ把握されていない。だが、中国に目を向けたとき、その現実はあまりに中国のヤングケアラー(※5)に関して具体的な数字として突きつけられる。親が都市へ出稼ぎに行き、農村部で祖父母と暮らす「留守児童」は約6100万人以上(2015年時点の推計)存在すると言われている。これは、全児童のおよそ5人に1人にあたる規模である。スクリーンいっぱいに映し出される群像劇のように、その数は一国の社会構造を象徴する重みを持つ。中国の留守児童の主な特徴は、農村から都市への大規模な人口移動に伴い、両親が長期間不在となる点にある。主要な保護者が祖父母であるケースは9割以上を占めるとも言われ、高齢の祖父母の元で暮らす子どもたちは、家事を担い、時に介護の役割を果たしながら日常を過ごす。そこには、日本で語られる「ヤングケアラー」の概念と重なる姿がある。実態は決して一様ではないが、多くの子どもが精神的な孤立や不安を抱えていると指摘される。家庭内の役割が過度に重くなり、学習時間や進学機会が制限されるケースも少なくない。子どもだけで生活を切り盛りしている例も多く報告されている。夜の食卓、灯りの少ない部屋、電話越しの両親の声。この一文だけで、涙を誘われそうだが、その断片的な情景は、一本の社会派映画の静かなカットのように胸に残るものだろう。背景には、都市と農村の経済格差、教育環境の不均衡、そして戸籍制度を含む制度的課題が横たわり、一筋縄では行かないのが世の常だ。中国政府は、貧困撲滅政策を推し進めて来たが、急速な経済成長の陰で取り残される地域が存在する事も事実としてある。若年失業率や都市部の競争激化といった問題とも複雑に絡み合い、家族は「生きるため」に子どもを置いて、離れざるを得ない選択を迫られる。この構図は、決して遠い国の出来事ではない。日本でもヤングケアラーの存在がようやく可視化され始め、社会問題として議論が進む中、中国の留守児童問題は、家族・労働・教育という普遍的テーマを私達に突きつける。経済発展の光と影、そのコントラストはどの社会(※6)にも潜んでいる。現在、世界規模でヤングケアラーの問題が加速度的に議論されているにも関わらず、社会の片隅で必死に日々を生きる子ども達の姿を、多くの大人が知らずに過ごしている現実がある。その事実に静かなやるせなさを覚え、カメラがまだ向けられていない場所にこそ、光を当てるべき物語がたくさんあるのではないかと、遠い目をする私がいる。

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この物語がスクリーンに映し出しているのは、単なるヤングケアラーの悲劇ではない。聴覚障害を持つ親のケアを担い、音のない世界と音の溢れる社会とを繋ぐ「架け橋」として生きる子どもたち「コーダ(CODA:Children of Deaf Adults)」(※7)の剥き出しの現実を表現している。近年、映画『コーダ あいのうた』や日本のドキュメンタリー『私だけ聴こえる』や『ぼくが生きてる、ふたつの世界』といった映画や書籍が相次いで発表され、ようやく世間は彼らの存在に気付き始めた。私自身も、その作品群によって背景を知った一人でもある。スクリーン越しに描かれる彼らの葛藤は、決して遠い世界の出来事ではなく、日本国内だけでも推定2万人以上が存在すると言われる身近な現実の出来事だ。これは、世界共通の切実な課題として私たちの社会に横たわる。コーダは産まれてから死ぬまで「聞こえない世界(ろう文化)」と「聞こえる世界(聴者文化)」の境界線に立ち続ける運命(※8)を背負う。しかし、長い間、その特異な立ち位置は彼らの小さな肩に重すぎる荷物を背負わせて来た。国境を越えて彼らが抱える共通の痛みは、大きく分けて以下の点に集約する事ができるだろう。第一に、幼少期からの「子ども通訳」というヤングケアラー問題だ。病院の深刻な病状説明、学校や役所での煩雑な手続き、果ては近隣トラブルの仲裁まで。本来なら大人が担うべき通訳や電話対応の矢面に立たされ、年齢不相応な情報に触れざるを得ない。彼らは、子どもらしい無邪気な時間を奪われ、早すぎる「大人」になる事を強いられる。この「ペアレント・フィケーション(親子関係の逆転)」(これは、日本の深夜番組「探偵ナイトスクープ」のある放送回でも話題となった事案だ)は、奇しくもメディアが発信する身近な相談番組などでも意図せず取り上げる形となり、日本社会でも深刻な影を落とす。第二に、コーダの子どもが「ふたつの世界」に引き裂かれるアイデンティティの揺らぎだ。ろう文化の中で育ちながらも、社会に出れば聴者として扱われる。どちらの文化にも完全に根を下ろせない「どっちつかず」の感覚に悩まされている。さらに、手話を第一言語とするコーダ(※9)も多く、社会生活で言葉の壁に直面する事も多々ある。親を深く愛している一方で、幼い頃から過度な責任を負わされた事への恨みや、自分だけが「聞こえる」事への罪悪感。そのアンビバレントな感情の渦中で、彼らは常にもがき苦しみ、その苦しみでさえも世間に発信できない。第三に、社会の無理解がもたらす深い「孤立」(※10)だ。周囲からの「親思いで偉いね」という無責任な称賛と、「かわいそうに」という安易な同情。そのどちらにも、彼らの複雑な心境を捉え切れていない大人達の無理解が子ども達を傷付ける。同じ境遇の仲間に出会う機会も乏しく、悩みを家庭という密室の中でたった一人抱え込み、さらに孤独は深まるばかり。専門家は、このコーダ問題に強く警鐘を鳴らす。コーダが抱える苦悩の根幹は「障害のある親を持ったことの苦労」ではない。「聞こえる世界と聞こえない世界の間に立たされているにも関わらず、適切な社会的サポートがないまま大人にならざるを得ない環境」そのものにあるのだと。映画のヒットにより、認知度は確かに高まったと言える。だからと言って、感動の涙を流して終わりではない。問題は「家庭内の美談」や「個人の不運」ではなく、「子どもに通訳をさせないための公的インフラ(手話通訳者の充実や福祉サービス)」が圧倒的に不足している事実に対して、何も行動を起こさない社会や政治家の怠慢だ。ただ、政治家の怠慢とだけ批判するのではなく、国民による政治への無関心もまた今の社会を作り上げている事を認識しなければならない。現在、CODA Internationalなどの世界的なネットワークや、日本国内におけるJ-CODAといった自助団体の活動により、当事者同士が悩みを共有し、孤立を防ぐオンラインコミュニティ等の環境づくりが促進されている。現在、ヤングケアラー支援の枠組みでも注目され始め、地方自治体や教育現場との連携も少しずつ芽吹いて来た。しかし、依然として彼らの日常的な困難への理解は浅く乏しい。親の通訳や世話が家庭内で完結してしまい、外部の支援に繋がりにくい構造的な欠陥は残され続けているままだ。また、幼少期の過酷な役割がトラウマとなり、成人後の心理的負担として暗い影を落とすケースも多く、大人になったコーダへの福祉的精神的ケアも急務となっている背景を知る必要も有るだろう。では、中国におけるCODA(※11)が置かれている現実はどうだろうか?中国のCODAが紡ぐ静寂と喧騒の狭間で2つの「橋」の物語がある。急速な経済発展とデジタル化の波に飲まれている中国社会。その煌びやかなネオンと喧騒の裏側に、ある特別な役割を背負った子供達がいる。CODA(Children of Deaf Adults 聞こえない親を持つ聞こえる子供たち)だ。彼らの物語は、決して遠い異国の出来事ではない。東京の片隅で暮らす家族と同じように、彼らもまた、「静寂」と「喧騒」という二つの世界を行き来しながら、懸命に今日を生きている。「小さな通訳者」が背負うものは何か?病院の待合室、銀行の窓口、あるいは学校の三者面談。まだ、あどけなさの残る子供が、大人達に混じって難しい言葉を必死に聞き取り、振り返って親に手話で伝える健気な姿。そんな光景は、日本でも中国でも変わらない、CODAたちの日常の風景だ。中国のCODAにとって、それは「生活の通訳」という名の、あまりに重圧的な日常だ。親の「耳」となり「声」となる彼らは、幼少期から社会の最前線に立たされている。医師の診断、契約書の文言、世間の冷ややかな視線。それらすべてを小さな背中で受け止め、親を守るためにフィルターを通し、必死に翻訳する。そこにあるのは、信頼関係をすっ飛ばした、親子の深い相互依存だ「子供に迷惑をかけたくない」と願う親の愛と、「それでも頼らざるを得ない」現実。電話一本かける事さえ、子どもの助けなしには成立しない場面もある。そのもどかしさと愛おしさが入り混じる空間で、彼らは大人にならざるを得ない選択が人生で待っている。隔たりと絆の向こうに特殊な家族のかたちがあり、中国特有の社会構造も、彼らの孤独に影を落とす事がある。親の障害を理由に、あるいは出稼ぎなどの事情で、祖父母に養育され、幼くして寮制の学校に入るケースも珍しくはない。物理的な距離は、時に心の距離をも生まざるを得なくする。「親の存在が遠い」そう漏らす子どもたちの声は、非常に切実だ。家族の絆は強いはずなのに、どこか埋められない空白が親子の間にある。それでも、親たちもまた、震えている。「自分の耳が聞こえないせいで、子どもの発話や社会性に遅れが出るのではないか」と、不安と葛藤の中で今を生きる。周囲からの偏見やプレッシャーに晒されながら、子供の未来を案じる親の苦悩は、国境や文化を超えて共通する「親心」そのものだ。二つの世界の狭間で揺れるアイデンティティを持つCODAは、二つの文化の境界線上に立たされている。扉を開ければ、そこは手話が飛び交う「静寂の家(聞こえない世界)」。けれど一歩外に出れば、容赦ない音が溢れる「音声の社会(聞こえる世界)」。彼らはその二つの世界を繋ぐ「橋」だ。しかし、橋には常に強烈な負荷がかかる。家では手話、外では音声。そのスイッチの切り替えの度毎に、彼らは自問する。「自分は一体、何者なのか?」。本来なら誇るべきバイリンガル・バイカルチュラルな存在ではあるはずが、その板挟みに苦しみ、アイデンティティの迷子になってしまう。この葛藤に、中国も日本もない。あるのは、ただひたむきに生きようとする若者の魂だけだ。今、中国ではテクノロジーの光と、人間としての体温が必要とされている。香港などの一部地域では、NGOによる「Shall We Talk」といったプログラムが動き出し、心のケアや言語発達支援が進み始めた。急速に変化する中国社会において、手話を操る弁護士がろうあ者の「希望の星」として称賛されるなど、新たなロールモデルも生まれ、希望の光も差し込まれつつある。さらに、WeChat(LINEのようなSNS)やAI字幕メガネといったテクノロジーの進化は目覚ましい。かつては子どもが担っていた単純な伝達は、機械が代替してくれるようにもなった。しかし、ニュアンスを含んだ複雑な交渉や、感情の機微を伴う対話において、やはり頼りになるのは機械ではなく、血の通った我が子の存在だ。テクノロジーは荷物を軽くはするが、完全に下ろさせてはくれない。幼い頃から契約や手続きといった「大人の世界」に触れ、精神的に早熟せざるを得ない彼らは、現代的な「ヤングケアラー」の側面を持つ。本来享受すべき無邪気な子ども時代を与えられず、社会適応という使命と引き換えにして存在する。中国は、日本と同じ空の下だ。中国のCODAの現状を見つめる時、そこに映し出されるのは「他者」の姿ではない。言語的な橋渡しという重責、社会の無理解との戦い、そして親への愛と疎ましさが同居する複雑な感情。それは、日本のCODA達が抱えるものと何一つ変わらない。急速な社会変革の波に飲まれながら、それでも彼らは、家庭、学校、社会という荒波の中、必死にバランスを取り続けている。聞こえない親の手話を見つめるその瞳の真剣さは、北京でも、上海でも、そして東京でも皆、同じだ。彼らは今日も、静寂と喧騒の狭間で、見えない言葉と心の橋を架け続ける。その「橋」を渡り、彼らの声に耳を傾ける事。それが、国境を越えて私達に求められている、最初の対話(※12)なのかもしれない。世界におけるコーダ達は今、ようやく自らの声で語り始めたばかりだ。彼らが親への愛と社会からの重圧の狭間で押し潰されない為に、私達に今、何ができるのか。それは個人の問題を「社会全体の手話通訳・福祉問題」として捉え直す事だ。教育、福祉、医療の現場が彼ら特有のニーズを正しく理解し、早期の支援体制を張り巡らせる事、これが今の最重要課題だろう。映画が照らし出した彼らの物語が、ただ消費されるエンターテインメントではなく、社会の仕組みを変え、彼らの実際の生活に温かく寄り添うための「確かな一歩」となる事を、私は強く願って、この章を終わりにしたい。映画『愛がきこえる』を制作したシャー・モー監督は、あるインタビューにて本作における中国人CODAについて、こう話す。

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モー監督:「聴覚障害者コミュニティの物語は、より多くの人々に届けられるべきだ。シャオ・マーとムー・ムーの物語が聴覚障害者の生活への「入り口」となり、より普遍的な感情を温かく伝えることを願っています。私の国には、約3,000万人の聴覚障害者がおり、その背後には約3,000万世帯の聴覚障害を抱えています。この映画に登場する聴覚障害者のシャオ・マとム・ムは、彼らの人生を象徴する感動的な縮図です。特筆すべきは、リアルで心のこもった描写を実現するために、制作チームは3年間を費やし、聴覚障害者コミュニティを真摯に理解し、深く関わって来ました。この物語にとって、真実の力は非常に重要になります」(※13)と話す。コーダの子どもたちが置かれている「音のない世界」と「音のある世界」の狭間。その苦悩の現状は、今も昔も変わることなく、ただ静かに、けれど確実に改善を叫び続けている。今ようやく、スクリーンを通して語られ始めたこの物語は、あまりにも遅すぎた。10年、いや20年……失われた時間は重く、この社会の脚本は修正されるのを待ち続けていたと言わざるを得ない。なぜ、今までこの物語にスポットライトが当たらなかったのか? それは、社会という大きなレンズが彼らの存在を黙認し、一般層が意図的にフレームの外側へと追いやっていたからだ。私達は、自分に関わりのない誰かを、まるで「透明人間」かのように扱い、視界から消し去る生き物。なぜ人は、隣にいる誰かを、自分にとっての配役の良し悪しだけで選別してしまうのだろうか。世の中は、美しい言葉で飾り立てられたパンフレットかのように振る舞うが、その実態は偽善に満ち、誰もその台詞を行動に移そうとはしない。現実はいつだって映画のように甘くはなく、常に辛辣で、時に地獄のような冷徹さを放ち続ける。「誰かが誰かのために」なんて言葉は、ただの夢物語で甘事なのだろうか。人は結局、自分のワンシーンの為だけに生きられない悲しい生き物なのかもしれない。だからこそ、街中で助けを求める声なき声があっても、私たちは平気で目を逸らし、平気で通り過ぎてしまう。自分さえ良ければの精神は、エンドロールで完結する。たとえば、揺れる電車内の優先座席。ヘルプマークや手帳を持つ手が震えていても、誰も見て見ぬ振り。自分さえ座れればいいという冷酷な視線が、いつまで経ってもなくならない。そんな心の画角が狭い人間に、音のない世界で懸命に手を取り合って生きる親子の、張り裂けそうな心の内など、到底映し出せるはずがない。日本という国は、もう一度、心のあり方をシナリオから書き起こすべき時が来ている。それはまた別の壮大な話ではあるが、道徳という色が褪せてしまった現在の日本社会において、この映画が、乾き切った心に染み渡る「オアシス」になることを願い続けたい。現実に、聴覚障害を持つ親子がいる風景。それもまた、この世界に欠かせない、愛おしくも必要なワンシーンなのだから。

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最後に、映画『愛がきこえる』は、耳の聞こえない父と7歳の娘の愛と絆を描き、中国で大ヒットを記録したヒューマンドラマだ。観客には、この物語を単なる「お涙頂戴」のフィクションとして消費し、エンドロールと共に記憶の倉庫へしまってほしくない。スクリーンの中にあるような切実な親子は、現実世界のあちこちに無数に存在するのだから。もし、偶然街角で聴覚障害のある親子とすれ違ったら、あなたはどう動くか?もし彼らが何らかの理由で困っていたら、その手を差し伸べるのか?その一瞬の選択、差し伸べるか否かの差はあまりにも大きく、それは観客席を立った私達自身の中に眠る「人間力」が試される、台本のないワンシーンとなるはずだ。コーダの子どもたちは、世界に向かって「声なき声」で常に叫んでいる。社会という巨大な劇場で、言葉を忘れてしまった親の代弁者として、その小さな体で叫び続ける。しかし、周囲の大人達はどうだろうか?聴こえる耳は機能していても、肝心の心からの「愛」という音がまったく聴こえて来ない。そんな世の中の雑踏に掻き消されてしまう、彼らの痛切な叫びがあまりにも無慈悲だ。物語の中核を成すピアノの音色は、あまりに美しすぎた。鍵盤を跳ねる軽やかな響き。陽だまりを無邪気に駆ける少女。その旋律は、幼き足音を連れて来る。健気に、ただ元気よく笑っていた彼女の面影と対比して、鍵盤のメロディは、残酷なまでに無意味に澄み渡っていた。いつか「コーダ」という呼び名でさえ不要になる未来が訪れる事を願って。今はその未来を夢想しながら、映画と現実の境界線の狭間で、子ども達の切なる願いを守り続けたい。

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映画『愛がきこえる』は現在、全国の劇場にて公開中。

(※1)海外のヤングケアラー支援の取り組みとは?日本のヤングケアラー支援における課題について解説https://c4c.jp/carer/youngcarer/youngcarer-overseas/(2026年2月12日)

(※2)ヤングケアラーのことhttps://kodomoshien.cfa.go.jp/young-carer/about/#:~:text=%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6-,%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F,%E4%BB%8B%E5%8A%A9%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82(2026年2月12日)

(※3)介護は家族で行うべき?中学2年生の17人に1人が当てはまる「ヤングケアラー」。その実態や課題を解説https://www.toyo.ac.jp/link-toyo/social/youngcarer(2026年2月12日)

(※4)ヤングケアラーとは?子どもが家族の世話を担う実態・事例を解説https://gooddo.jp/magazine/poverty/children_proverty/26464/(2026年2月12日)

(※5)中国農村部で深刻化する留守児童問題、現地を取材https://www.cnn.co.jp/world/35062598.html(2026年2月12日)

(※6)中国の社会問題は何がある?少子高齢化や環境汚染、経済格差について解説https://cococolor-earth.com/world-problems-china/#:~:text=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AF%E3%80%81%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%8B%95%E6%85%8B%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%80%81%E7%92%B0%E5%A2%83,%E3%81%AF%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%9B%E3%82%93%E3%80%82(2026年2月12日)

(※7)コーダ(CODA)とは?聴覚障害の親を持つ子どもたちに必要な支援https://otakara-aid.com/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%80%EF%BC%88coda%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%E8%81%B4%E8%A6%9A%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%81%AE%E8%A6%AA%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A4%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F/(2026年2月12日)

(※8)Adult Children of Alcoholics & Dysfunctional Familieshttps://adultchildren.org/(2026年2月12日)

(※9)聞こえても「母語は手話」 「コーダ」特有の葛藤や困難https://bizgate.nikkei.com/article/DGXZQOKC025T9002102024000000#:~:text=%E3%80%8CCODA%EF%BC%88%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%80%EF%BC%89%E3%80%8D%E3%81%A8,%E7%89%B9%E6%9C%89%E3%81%AE%E5%9B%B0%E9%9B%A3%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82(2026年2月12日)

(※10)ぼくはずっと孤独感を抱えていた。聴こえない親を持つ「CODA」のふたりが語り合ったことhttps://www.huffingtonpost.jp/entry/coda_jp_5dd4b18ee4b010f3f1cf5c64(2026年2月12日)

(※11)Kaka, a child with profound hearing loss and her motherhttps://www.deaf.org.hk/en/beneficiaries_story.php#:~:text=CODA%20(Children%20of%20Deaf%20Adults,support%20CODA%20in%20their%20growth.(2026年2月12日)

(※12)China’s CODA Share Their Storieshttps://www.sixthtone.com/news/1010204(2026年2月12日)

(※13)沙漠导演新作《不说话的爱》定档4月3日 张艺兴李珞桉演听障爸爸和女儿“双向守护”https://ent.ifeng.com/c/8g9yLwTYDHG#:~:text=%E7%88%B1%E6%98%AF%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%B8%8A%E6%9C%80,%E6%90%AD%E5%BB%BA%E4%B8%80%E5%BA%A7%E7%89%B9%E5%88%AB%E7%9A%84%E6%A1%A5%E6%A2%81%E3%80%82&text=%E6%AD%A4%E5%89%8D%EF%BC%8C%E6%B2%99%E6%BC%A0%E5%AF%BC%E6%BC%94%E7%9A%84%E5%90%8C%E5%90%8D,%E5%85%A8%E5%9B%BD%E4%B8%8A%E6%98%A0%EF%BC%8C%E6%9C%9F%E5%BE%85%E7%9B%B8%E8%A7%81%EF%BC%81(2026年2月12日)