映画『デビルクイーン』何か一つの救いになることを

映画『デビルクイーン』何か一つの救いになることを

伝説のクィア・ギャング映画『デビルクイーン』

一般社会からはみ出し物認定を食らった犯罪者による社会の少数派集団が繰り広げる奇妙奇天烈、驚天動地の珍事件の数々。社会の片隅で、彼等は世間に自らの存在と証明を訴えかける。阿鼻叫喚と言うにはどこかしら程遠く、魑魅魍魎と言うにはそれすらも凌駕する奇想天外なブラジルの裏社会が描かれる。ギャング、同性愛者、ドラァグクイーン、娼婦という三つ巴ならぬ、四つ巴の人間交差点。彼等は、一般社会からは阻害され、ゴキブリのように扱われ罵られても、自身の信念を持って、真っ直ぐに生きている。同性愛者への冷徹な差別や娼婦への過度な偏見が根強く残る70年代のブラジルで、壮絶ながらも必死に生きようと、彼等は社会の底辺でもがき苦しむ。それでも、未来を恐れず、今を懸命に生きる彼らギャング、同性愛者、ドラァグクイーン、娼婦達の生き様は、誰も真似する事ができない唯一無二の生き方だ。少し向こう見ずな無鉄砲さも見え隠れするが、彼等は社会の内側にいる一般社会で生きる一般人には優しく接する紳士的な考え方も持ち合わせている。今日もブラジルの裏社会に蔓延る悪と対峙しながらも、毅然とした態度で依然に振る舞うマダム・サタへの尊敬と哀悼の意は忘れてはならない。映画『デビルクイーン』は、ある時はギャングのボスとして組織を恐怖で支配し、またある時はスウィートな女王として愛されるデビルクイーンの姿を描く。ある日、お気に入りの男性が警察に追われていることを知り、キャバレーシンガーのイザのヒモであるベレコを身代わりにしようとする。しかし、事態は思わぬ方向へと転がって行く人物の姿を描写したクィア・ギャング映画だ(このクィアという言葉は、近年言われるようになった背景がある。また、当時の70年代のブラジルではクィアという概念が無かった為、クィア・ギャング映画は現代風にアレンジした新しい概念のジャンル)。この映画が、制作された年は1973年。この時代のブラジルは、軍事政権下におかれ自由に映画が作れなかった時代。映画だけに留まらず、芸術を通して表現の自由が弾圧された時代を色濃く反映させた本作は、ここ日本で観るには非常に貴重な作品であるだろう。この度、日本に紹介された以上、貴重な作品には一度、触れてみてはどうだろうか?

さて、本作『デビルクイーン』はブラジル映画という位置付けだが、残念ながら、ブラジル制作の映画は日本になかなか紹介されていないのが、現状だ。先日、映画関係者だけで食事をする場面に遭遇し、私はライターとしてその時取り組んでいた本作について話をした。すると、その場にいた全員が「ブラジル映画がなかなか日本に紹介される機会が少ないから、その全貌が明らかではない」と、話し合った所で、私自身も上手に説明できなかったのは痛感の極みだ。でも近年(この近年の概念を2000年以降として考えたら)、非常に多くのブラジル映画が入って来ている。たとえば、ブラジルを代表する兄弟音楽デュオのゼゼ・ディ・カマルゴとルチアーノの半生を追った伝記映画『フランシスの二人の息子』は名作だった。彼らについては、後にも触れるが、代表曲は本当に美しい楽曲だ。日本人にも聞いて欲しい一曲でもある。また、2014年に公開されたリメイク作品『ロボコップ』で一躍知名度が上がったジョゼ・パジーリャ監督は、ブラジル出身の制作者だ。彼の最新作『エンテベ空港の7日間』と『ロボコップ』はアメリカ出資のハリウッド映画となったが、監督としての初期作品はブラジルでドキュメンタリーや劇映画を制作している。たとえば、映画『バス174』や『エリート・スクワッド』『エリート・スクワッド ブラジル特殊部隊BOPE』シリーズの演出に評価が高まり、アメリカ進出を果たした監督だ。他にも、日本に配給されていない作品もあるが、今回は割愛する。彼が監督として携わった作品として、『リオ・アイ・ラブ・ユー』という愛をテーマにした短編オムニバス映画が制作されている(映画『パリ・ジュ・テーム』『ニューヨーク・アイ・ラブ・ユー』に続くシリーズ3作目となる作品)。この作品には、ジョゼ・パジーリャ監督以外にも、『シティ・オブ・ゴッド』『ナイロビの蜂』『ブラインドネス』で有名なフェルナンド・メイレレス監督。『アイス・エイジ』シリーズ、『ブルー 初めての空へ』などで知名度のあるブラジルアニメーションの映画監督カルロス・サルダーニャ。監督兼プロデューサーのアンドリュー・”アンドルチャ”・ワディントン監督もまた、映画『リオ・アイ・ラブ・ユー』に参加している。ブラジルで最も有名な代表的監督と言えば、映画『セントラル・ステーション』『モーターサイクル・ダイアリーズ』をヒットに導いたウォルター・サレス監督は、近代ブラジル映画界の顔だろう。そんなブラジル映画は、1896年(明治29年)7月8日、リオデジャネイロのオウヴィドル街で、フランスのリュミエール兄弟によって行われた映画の興行が、ブラジル国内で最初だ。1898年(明治31年)6月には、イタリアから移住したアフォンソ・セグレトによって、ブラジルで最初のとして、グアナバラ湾の実景が撮影されたブラジルの活動写真。スペインから移住したフランシスコ・セハドールが、最初の映画館チェーンを築いたとされる。ブラジル映画の転換期は、恐らく、世界中で起こった映画運動ヌーヴェルヴァーグの流行が、ブラジルまで届き「シネマ・ノーヴォ」として隆盛を誇った1960年代、1970年代頃だろう。この時期に世に出たのが、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督の映画『リオ40度』は、この時代のブラジル映画を代表する名作だ。80年代頃までブラジルの映画産業は潤いを見せたものの、映画産業の危機を受けて1990年(平成2年)3月、フェルナンド・コーロル大統領によって、ブラジル映画配給公社が廃止され、一切の公的支援を廃止、製作本数はゼロに失墜した。1990年前半の危機を乗り換えて、この時代の後半から多くの若手映画監督が誕生し、25年以上が経った今でもブラジルの映画産業は衰えを知らず健在だ。また、ブラジルの音楽的側面でも歴史を振り返ると、ブラジルにはワールド音楽として有名なボサノバが誕生した国だが、今回はブラジルのポップ・ミュージシャンに焦点を当てる。たとえば、1度目は1977年から1994年、再結成後は2007年から2010年まで活動していたリオ・デ・ジャネイロのニューウェーブ・ロックバンドのJoão Penca e seus Miquinhos Amestrados。1993年から2004年まで歌手として活動したティーンポップのエリアナ(ブラジルのアイドル的立ち位置。ブリトニー・スピアーズの初期的な雰囲気を醸し出している)。1993年からポップ・ミュージシャンとして活動し多くのヒットソング(「Canibal」 「Pererê」「Festa」「Sorte Grande」「Faz Tempo」「Flor Do Reggae」「A Galera」「Quando A Chuva Passar」などがある)を生み出したイヴェッチ・サンガロ(正式名:イヴェッチ・マリア・ディアス・デ・サンガロ・カディ)は、シンガーとしてのカリスマ性も兼ね備え、ブラジルでは非常に人気のあるトップ・アーティストだ。また音楽グループデュオのZé Neto & Cristianoは、今の若い世代に多くの指示を得ている2010年代以降のミュージシャンだ。そして最後に、ブラジルを代表する兄弟音楽デュオのゼゼ・ディ・カマルゴとルチアーノは、ブラジル国民からも愛される曲を数多く発表しているが、それらの中でも1991年に発表した「É o Amor」は非常に有名で、ブラジル国民なら誰もが口ずさめる名曲だ。ここに「É o Amor」のYouTube動画を貼っておく、次の章のお供にこの曲を聞きながらか、読み進めて欲しい。本当に名曲だから。今回は、ブラジルの映画史や音楽史という比較的入りやすい分野から攻めてみたが、これらの時代の中に映画『デビルクイーンや本作を制作したアントニオ・カルロス・ダ・フォントウラ監督の作品は、燦然と輝いている。

Zezé Di Camargo & Luciano – É o amor Letras

本作『デビルクイーン』が主題にしている主人公のドラァグクイーンは、ブラジル国内に実際に実在した人物マダム・サタだ。この文章の冒頭にも、この名前を出してみたが、聞きなれない人物名に誰もが頭の中にハテナを浮かべてしまったのではないだろうか?このマダム・サタは、ブラジル人なら誰もが知っている1900年代にブラジルの裏社会に生きたレジェンド級の人物だ。2002年には、国内未配給のブラジル映画『Madame Satã』が、ドラァグパフォーマー兼カポエイリスタのマダム・サタことジョアン・フランシスコ・ドス・サントスの伝記映画として制作されている。このマダム・サタこそが、本作『デビルクイーン』の主人公のドラァグクイーンの元になっているが、アントニオ・カルロス・ダ・フォントウラ監督はこの人物からインスパイアを受けて制作している点、本作そのものはノンフィクションではなく、フィクションではあるが、その当時の裏社会に生きた人物を描いている点、非常に臨場感と説得力があり、単なるクィア・ギャング映画という線引きにするには非常にもったいないほど、意欲的に満ちている。マダム・サタ本人は、1976年にこの世を去っているが、本作『デビルクイーン』は1973年に制作されており、晩年のマダムに敬意を贈る作品になっているのかもしれない。そんなマダム・サタは、1900年に生まれ、76年の生涯を閉じる迄、どのような人生を送って来たのだろうか?20世紀の時代的背景から考えると、ドラァグクイーンだったマダム・サタにとって、同性愛への差別と偏見に満ち溢れた時代は非常に生きにくい時代だったに違いない。本作『デビルクイーン』が主題にしている主人公のドラァグクイーンは、ブラジル国内に実際に実在した人物マダム・サタだ。この文章の冒頭にも、この名前を出してみたが、聞きなれない人物名に誰もが頭の中にハテナを浮かべてしまったのではないだろうか?このマダム・サタは、ブラジル人なら誰もが知っている1900年代にブラジルの裏社会に生きたレジェンド級の人物だ。2002年には、国内未配給のブラジル映画『Madame Satã』が、ドラァグパフォーマー兼カポエイリスタのマダム・サタことジョアン・フランシスコ・ドス・サントスの伝記映画として制作されている。このマダム・サタこそが、本作『デビルクイーン』の主人公のドラァグクイーンの元になっているが、アントニオ・カルロス・ダ・フォントウラ監督はこの人物からインスパイアを受けて制作している点、本作そのものはノンフィクションではなく、フィクションではあるが、その当時の裏社会に生きた人物を描いている点、非常に臨場感と説得力があり、単なるクィア・ギャング映画という線引きにするには非常にもったいないほど、意欲的に満ち溢れている。マダム・サタ本人は、1976年にこの世を去っているが、本作『デビルクイーン』は1973年に制作されており、晩年のマダムに敬意を贈る作品になっているのかもしれない(犯罪者に対して敬意、敬愛という言葉を使うのは不謹慎かもしれないが)。そんなマダム・サタは、1900年に生まれ、76年の生涯を閉じる迄、どのような人生を送って来たのだろうか?20世紀という時代的背景から考えて、差別と偏見が罷り通る古き良き時代は、マダム・サタにとっては、非常に生きにくい時代だったに違いない。そんな暗黒のような地獄のような時代に、裏社会に君臨するトップのドラァグクイーンとして時代と共に生きたマダム・サタの生涯には一度、着目してもいいと考えている。ジョアン・フランシスコ・ドス・サントスことマダム・サタは、ブラジルのペルナンブコ州で元奴隷の家庭に生まれた。過去には、殺人罪で有罪判決を受け、累計として、およそ27年間、長きに渡り刑務所で過ごしこた。彼は、まともな教育を受けた事がなく、読み書きができず、また社会から同性愛者であると強い烙印を押され、それと闘いながら、自身の存在を再定義しようとした人物としてブラジルで記憶されている。ジョアンはかつて「私は無法者として生まれた。そういう風に生きていく」と語ったと伝えられている。彼の言葉には、どこか虚しさと悲哀、やるせなさを感じて止まない。ドラッグパフォーマンス、ハスラーとしての日々 、殺人罪での有罪判決で服役していた時期は長いが、伝説のキャバレーパフォーマンスアーティストとして活動したマダム・サタンのイメージは、1930年代のセシル・B・デミルの映画にまで影響を与えている。本作の監督アントニオ・カルロス・ダ・フォントゥーラはディアリオ・カリオカ新聞の映画評論家でもあり、1968年に映画『コパカバーナ・ミー・フールズ』で業界デビュー。1982年の映画『ブラジリア』1968年の映画『コパカバーナは私を騙す』1998年の映画『ジーコの冒険』1985年の映画『フレッシュミラー』などがある。彼は14歳になる前に、最初の映画を撮影している。フォントゥーラ監督の生い立ちや育成歴など、分かる範囲で調べてみようと思ったが、監督の若い頃の記述が見つかったのは「14歳になる前に、最初の映画を撮影している」の記述のみで、彼がどんな幼少期、学生期を過ごしたのは定かではない。だから、マダム・サタの人生にどうインスパイアされたのか、また彼をどう捉えていたのかはまったく分からないが、マダム・サタ本人はドラァグクイーンという立場に負い目を感じてか、「リオデジャネイロの暗いボヘミアン文化に避難所を見出しました。」と言われているように、居場所のない人生、生活を送っていたのだろう。同じリオデジャネイロで若い頃を過ごしたフォントゥーラ監督は、マダム・サタに対するこの部分に何かしらのシンパシーを感じたのではないだろうか?本作に関してのインタビュー記事は見つからないだろうから、今回はレビューで引用しようと思う。昨年2023年11月に書かれた非常に新しいレビューから、本作が何を求めているのか探りたいと思う。

“A Rainha Diaba”(1974) is nothing of the sort. Lauded as the first film to have a Black queer character in Brazilian cinema, it strongly empowers marginalised characters without painting them in bright colours (which are present only when one considers the film’s camp design and cinematography). A Rainha Diaba is an important film that, almost 50 years after its release in May 1974, has influenced many other Brazilian films on crime and LGBTQ characters – yet it retains an originality and effect all its own. In A “Rainha Diaba”, Brazilian history is not told from the official point of view, but from that of the common people. One could argue that it is also an attempt to find a queer history buried in the depths of heteronormativity. The film’s climax is a party in which Diaba receives her friends. The party is not only visually splendorous, but an allegory of queer affection – when the house is closed for clients and only Diaba’s guests are allowed in, it seems a rare moment wherein a queer world is the norm and queer affection is what is most desired.(※1)

「『A Rainha Diaba』(1974年)はそのような映画ではない。ブラジル映画で初めて黒人のクィアのキャラクターが登場する映画として称賛されたこの映画は、疎外されたキャラクターを派手に描くことなく(派手な色彩は映画のキャンプなデザインと撮影法を考慮するとしか見えない)、力強くエンパワーメントしている。「A Rainha Diaba」は、1974年5月の公開からほぼ50年が経った今でも、犯罪やLGBTQのキャラクターを描いた他の多くのブラジル映画に影響を与えてきた重要な映画であり、独自のオリジナリティと影響力を保っている。『A Rainha Diaba』では、 ブラジルの歴史は公式の視点からではなく、一般の人々の視点から語られる。異性愛規範の奥底に埋もれたクィアの歴史を見つけようとする試みでもあると言えるだろう。映画のクライマックスは、ディアバが友人たちを迎えるパーティである。パーティは視覚的に華やかなだけでなく、クィアの愛情の寓話でもある。家は客のために閉められ、ディアバの客だけが入ることが許されるとき、それはクィアの世界が標準であり、クィアの愛情が最も望まれている珍しい瞬間のように思える。」とあるように、LGBTQやクィアの世界が、より社会の一般的な部分で受け止められ、認知され、誰もが平等に過ごせる社会や世界を目指す事が、この1973年に作られた作品が、今の世の中に訴えているのかもしれない。

最後に、映画『デビルクイーン』は、ある時はギャングのボスとして組織を恐怖で支配し、またある時はスウィートな女王として愛されるデビルクイーンの姿を描き、ある日、お気に入りの男性が警察に追われていることを知り、キャバレーシンガーのイザのヒモであるベレコを身代わりにしようとする。しかし、事態は思わぬ方向へと転がって行く人物の姿を描写したクィア・ギャング映画。マイノリティの世界の人々の中には、肩身の狭い思いをして生きている人が、世の中に大勢いる。犯罪者でありながら、マダム・サタもまた、当時のブラジル裏社会で生きにくさを感じながら、必死に生きて来たのだろう。今の世の中には、マダム・サタのような人がたくさんおり、彼とまったく同じように生きづらさを感じ、肩身の狭い思いをたくさんし、今を必死に生きているのだろう。そんな人々に対して、マダム・サタの生き姿、生き様、人生そのものが何か一つの救いになることを願うばかりだ。

映画『デビルクイーン』は現在、全国の劇場にて公開中。

(※1)A Rainha Diabahttps://www.sensesofcinema.com/2023/cteq/a-rainha-diaba-antonio-carlos-de-fontoura-1974/(2024年9月25日)