映画『ドライブ・マイ・カー』
「生きて行きましょう」という言葉は、劇中に登場する手話でのセリフで、ロシアを代表する劇作家アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフが書いた名戯曲『ワーニャ伯父さん』の終盤にあるセリフだ。
この演劇とこの言葉が、本作『ドライブ・マイ・カー』の肝となる重要な部分であることを覚えておきたい。
今最も勢いのある映画監督、濱口竜介の最新作『ドライブ・マイ・カー』が、ここまで世界的な評価を得るとは、誰が予測できただろうか。
日本人としては、誰もが鼻が高く、胸を張れるクリエイターに違いない。
昨年の第74回カンヌ国際映画祭にて、脚本賞と、3つの独立賞である国際映画批評家連盟賞、AFCAE賞、エキュメニカル審査員賞を受賞したことを皮切りに、各国の映画祭で軒並み高評価を得ているのは、万人の知るところだ。
現代日本の名作家、村上春樹の原作を下敷き、3時間という超大作に仕上げた本作は、今後ますます語り継がれる傑作へと大成することだろう。
20年以上のキャリアを持つ濱口監督が、世間的な注目を受け始めたのはおそらく、2015年に公開された5時間を超える映画『ハッピー・アワー』からだろう。
この作品を境に、メジャーの潮流に乗って大きな活動を見せ始めのは一目瞭然だ。
『ハッピー・アワー』以前、以降というタームで監督や作品について考えることができる。
本作『ドライブ・マイ・カー』は、そんな今までの活動を総括するような集大成的立ち位置を孕んでいると捉えてもいいのかもしれない。
ただ今回、作品が大きく成功したのは監督だけの力だけではなく、脚本家として作品に協力している大江崇允の功績も大きく関係していることも考えられる上、彼の支えがあってこそシナリオのクオリティが高いと判断できる。
本作は、どこを切り取っても非の打ち所がないほど「完璧」という言葉が似合う作品だ。
本作の物語は、過去の変えられない悲しい出来事に対して失意の念を抱きながらも、その事を誰にも相談できずに、自身の中でそっと終い込んだある男女の心の旅路を3時間という長さで見事に表現した人生賛歌、人生抒情詩だ。
シナリオは、三部構成となっており、第一幕はある芸術家(テレビや演劇に精通した役者と元役者の脚本家)夫婦の日常を切り取ったエピソード。
第二幕は、第一幕に登場していた主人公が、演出家として広島に訪れ、次に公演する演劇の演出とその舞台裏の様子、彼の運転手や舞台俳優、主催者との交流を客観的に描く。
そして、第三幕は、過去の出来事で心に傷を負った主人公の俳優と彼の女性運転手が、昔の辛い出来事と対峙しながら、自身が前を向いて強く生きようとする姿を丁寧に描写する。
これら三つのエピソードは、繋がりがあるようで、ないようにも感じる不思議なストーリーの運びとなっている。
そして各々の物語に登場するキーワードが、ラスト数秒にかけてすべてが統一される作りとなっていることに言葉が出ないほどに、息を飲む。
クラシカルな赤い車サーブ900(90年代の車種)、韓国手話、チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」、韓国語、冒頭エピソードの中年カップルの関係性、代行運転手のドライバー女性など、点と点でしかなかったすべての事柄が、物語のラストになるにつれて「一本の線」として繋がっていく様子。
各々のエピソードやキーワードがひとつの円に結ばていく様を目の前にし、長尺な上映時間を完走したというカタルシスと共に、霞が晴れていくような感覚に陥れらるれてしまう。
記憶を消して、忘れてしまいたい過去の出来事が原因で、心に傷を負った者たち。
一度の「ドライブ」を通して、長年苦しみ続けた喪失感を払拭し再度立ち直ろうとする姿
。観終わった後に、彼らの姿が記憶の中で繰り返し、鮮明に再生されることになるだろう。
濱口監督は、あるインタビューで共感を持てる登場人物たちを演じる役者たちへの演技をどう演出したのかと聞かれ
と答えている。今回も主演の家福を演じる西島秀俊さんにシナリオを書く段階から、100以上の質問を投げかけ、脚本に落とし込んだと言う。
監督が言う「この役を演じることは自分にとって大事なことだ」という考え方は、大いに共感をできるし、大切なことだと思う。
役者自身には、本人が演じる「役柄」を演じる前に、まずはそのキャラクターを愛し尊敬した上で、演じて欲しいのだろう。
また、共同脚本としてクレジットされている脚本家の大江崇允のインタビューも一部抜粋。
本作『ドライブ・マイ・カー』での濱口監督の俳優への演出について言及している。
現場では、相当緊張感の漂う雰囲気の中、作品を少しでも良くしようするための演出が行われていた事が、分かる発言でもある。
一つ一つの演出を大事にする監督自身の立ち振る舞いを少しでも想像出来る。
その姿を目の前で見た大江崇允が、濱口監督に対するリスペクトする気持ちにも共感が集まることだろう。
一本の作品を作り上げるために、持てるチカラの全てを総動員して、製作する姿勢には感服の思いでいっぱいだ。
とても貴重な発言でもある。
映画『ドライブ・マイ・カー』は、人生に絶望し、心を閉ざしてしまった大人たちが、もう一度前を向いて生きようとする姿を描いた喪失と再生の物語。
日本社会における自殺率が増えつつある昨今、少しでも多くの人が、本作を通して濱口監督が作品に込めた「生きて行きましょう」という想いを感じ取れる作品だと言うことを心中に留めておきたい。
映画『ドライブ・マイ・カー』は現在、全国の劇場にて上映中。
①”カンヌ4冠『ドライブ・マイ・カー』の誠実さ 濱口竜介に訊く | CINRA” https://www.cinra.net/article/interview-202108-hamaguchiryusuke_dnmkmcl(2022年1月26日)
②”「基本的に編集でなんとかしようと思わないんです」。「映画の術(すべ) カンヌ2021受賞記念凱旋上映」の大江崇允、『適切な距離』と『ドライブ・マイ・カー』を語る。 | Cinemagical シネマジカル” https://amp.amebaownd.com/posts/23384715(2022年1月26日)