映画は皆を、世界を楽しませ豊かにするドキュメンタリー映画『リュミエール!リュミエール!』
1895年12月28日。この日は、世界で初めて映画が、有料上映された日だ。フランスの首都パリにあるキャプシーヌ街に店を構えていたグラン・カフェの地下一階「インドの間」にて、本作の題材となっているルイ&オーギュスト・リュミエール兄弟が、当時彼らが発明した映写機「シネマトグラフ」を通して、歴史上最も有名な名作「工場の出口」を上映。映画上映の始まりは、カフェの地下からだったのは驚きだ。当然だが、最初から数百人を収容できる劇場があった訳でもなく、リュミエール兄弟も映画が上映できる場所を探していたのだろう。日本なら、東京の銀座にある少し小洒落たカフェの地下にて、自ら撮影した短編映画を上映する感覚だろうか?来る2025年は彼らリュミエール兄弟が、初めて上映した1895年から数えて130年目にあたる記念の年。映画の誕生後、あらゆる困難と悲喜劇を乗り越えながら、およそ130年という時代を駆け抜けて来た。2025年は、華々しく生誕130周年を祝いたいが、今の日本はそんなお祝いムードではない。コロナ禍を経て、縮小しつつある日本の映画文化は、日々の撮影や上映、宣伝に追われ、本来の映画を楽しむ感情をどこかに置き忘れてしまっているようだ。ドキュメンタリー映画『リュミエール!リュミエール!』は、「映画の父」と呼ばれるフランスのリュミエール兄弟が遺した膨大な作品の数々から選りすぐり激選された映像で構成されたオマージュ作品「リュミエール!」の続編だ。130年の時を経て語られる映画史において、130年後の次の映画史の為に、今の私達は生誕130年を迎える映画文化の真髄を本作を通して知る必要があるだろう。
初期の映画史において知っておく必要があるのはまず、リュミエール兄弟の以前にアメリカ人の発明王トーマス・エジソンが1890年に「シネマトグラフ」の元となる「キネトスコープ」を発明したのが、最も初めの映画史の中で有名な歴史だ。専ら、エジソンと部下のディキンソンが発明した映写機「キネトスコープ」とリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」が映画史において頻繁に語られる世界線ではあるが、映写機誕生の発端となったエジソン社の「キネトスコープ」は、販売開始後の一年で世間から飽きられ、販売代理元のノーマン・ラフとフランク・ガモンがエジソンに新しい映写機の開発を促している。ただ、発明王は自らの手で「キネトスコープ」に取って代わる新しい映写機を開発できなかった。代わりに、ディクソンとレイサム兄弟はパントプティコン、ドイツのスクラダノフスキー兄弟はビオスコープ、イギリスのロバート・W・ポールはシアトログラフを開発。ヴァイタスコープの前身ファントスコープも、同時期に開発された。リュミエール兄弟も、同時期に「シネマトグラフ」を発明している。世界同時多発的に開発された映写機ではあるが、その中でもリュミエール兄弟の映像作品が著しく人気を博した。それが、130年経った今でも語られ、取り上げられている。
それから、130年後の現代。もっとも、この時代の映画がほとんど語られなくなり時代の産物として扱われ、非常に物珍しい過去の作品として一部の映画ファンからは愛眼されているが、幾重にも重なる時代の襞によって、隠され覆われ、人々の記憶から抹消され、興を削がれ、残念ながら、映画誕生の息吹は重要視されていない。先人達が、如何にして、苦労に苦労を重ね、映写機を発明したのかも、新しい撮影技術を生み出したのかも、まったく興味を惹かれていない。今の時代の人間は、一部の人間を除くと、先人達の苦労話には耳を傾けもせず、ひたすら、娯楽としての楽しいと言う側面でしか映画について語ろうとしない。この130年間で起きた映画史のあらゆる出来事に対しての興味も探究心も追求心も損なわれつつある今、リュミエール兄弟の作品へのオマージュが、何の意味を持たせるのだろうか?リュミエールやメリエス、グリフィスだけでなく、100年前の映画史そのものが今や過去の産物となり、記憶の闇に葬りされようとしている今だからこそ、リュミエール兄弟の作品が再評価させる流れが確かにあると言える。100年前の撮影技術、編集法(モンタージュ理論)、映画監督と出演者、そして数え切れないほどの当時の名も無き映画人達が、今の映像制作における土台を作っている。私達は、尊敬と敬愛の眼差しを持って、過去の作品から踏襲(オマージュ)を引き継がなければならない。ドキュメンタリー映画『リュミエール!リュミエール!』を制作したティエリー・フレモー監督は、あるインタビューにて本作における130年前と130年後の現在の哲学について聞かれ、こう話している。
フレモー監督:「ドキュメンタリー映画『リュミエール!リュミエール!』は、前作よりも哲学的な、おそらくより「実存的」な側面を持っています。私たちは2024年にいます。映画はもはや若い芸術ではありません。しかし、初期の映画から学ぶことはたくさんあります。特に、非常に重要なことが一つあります。それは、シンプルさです。ピカソは「私は生涯、子供のように絵を描こうとした」と言いました。映画の中で、私はゴダールの言葉を引用しています。「文法を改革したいなら、読み書きのできない人に会いに行かなければならない」。リュミエールは、独自の言語を発明した最初の読み書きのできない人でした。彼が私たちに教えてくれることは貴重です。リヨンでは、リュミエールの映画を映画監督によく見せていますが、彼らは感銘を受けています。」と話す。特に、最後のフレモー監督の言葉「リヨンでは、リュミエールの映画を映画監督によく見せていますが、彼らは感銘を受けています。」には、非常に引っかかるものがある。世界の若い世代の卵達は、この熟成されたおよそ100年前の映画に触れて、感銘を受けていると発言しているが、果たして、今の日本の若い世代の関係者が、本作『リュミエール!リュミエール!』を通して、何を学ぶと言うのだろか?
最後に、ドキュメンタリー映画『リュミエール!リュミエール!』は、「映画の父」と呼ばれるフランスのリュミエール兄弟が遺した膨大な作品の数々から選りすぐり激選された映像で構成されたオマージュ作品「リュミエール!」の続編だが、リュミエール兄弟の作品を観て、ただ驚いてばかりではダメだ。彼らの作品初め、1902年の映画『月世界旅行』のジョルジュ・メリエス監督、1903年の映画『大列車強盗』のエドウィン・S・ポーター監督、1915年の映画『國民の創生』のD・W・グリフィス監督、1915年の映画『吸血ギャング団』のルイ・フイヤート監督、1919年の映画『ガリガリ博士』のロベルト・ウイーネ監督、1920年の映画『霊魂の不滅』のヴィクトル・シェストレム監督、1922年の世界初のドキュメンタリー映画『北極の怪異(北極のナヌーク)』のロバート・J・フラハティ監督、イギリスの1900年初期に名を馳せたブライトン派など、全世界の映画黎明期に活動した映画人の足跡を知る必要がある。でも、彼等はまだ有名な部類の映画監督で、「映画の父」と呼ばれたリュミエール兄弟以外には、年代は少し違えど、インド映画の父ことサタジット・レイ監督とアフリカ映画の父ことウスマン・センベーヌ監督などが存在し、過去の映画史を紐解いて行けば、他国の映画の父や多くの女性関係者の存在も発見できるかもしれない。また私自身は、リュミエール兄弟に師事したアレクサンドル・プロミオ(リュミエール兄弟に師事した人物には、彼の他にフェリックス・メスギッシュ、フランシス・ドゥブリエ、マリウス・シャピイスがいる)を調べているが、彼は移動ショット(トラッキング・ショット)を発明した人物として非常に有名で、プロミオが1896年に撮影した『大運河の景観』は、その移動ショットを最初に行った作品であり、後にリュミエール兄弟が「パノラマ・リュミエール」と名付けた撮影技法を世界で最初に発明した人物だ。黎明期の映画事業の系譜には、エジソン、リュミエール、メリエス、グリフィスと最重要人物の名が連ねているが、私達はまだ、その全体像をまだ知らない。たとえば、1972年に石崎浩一郎氏が上梓した書籍「恐怖幻想映画論 映像の魔術師たち」の冒頭で紹介されているジョルジュ・フーランジェ、また国書刊行会から出版された877頁に及ぶ書籍「サイレント映画の黄金時代」では、トマス・H・ハリス、ジョージ・D・ベイカー、J・スチュアート・ブラックトン、デイヴィッド・スミス、ヘンリー・クロンジャガーらが紹介されているが、彼らの全貌を知る日本人は少ない。今の時代と130年前の時代を一本の線で結ぶには、私達自身が自ら130年前の世界にリンクさせる事が大切だ。リュミエール兄弟の作品は、そのリンクをする上では最も入門編的な側面を持っているが、私達はこの100年前の扉を開けて、更なる次の扉を開ける事が大切だ。まだまだ私達が知らない映画史が存在し、ベルギー映画史、ブルネイ映画史、バングラデシュ映画史、ネパール映画史と興味の幅は尽きない。生きている限り、興味索然の世界が、ますます深まりつつあるだろう。今回は、この辺で切り上げるとして、最後は先に述べたプロミオがベルギーで初めて映像技術を持ち込んだ活動写真「Sainte-Gudule」を紹介して終わりにしたい。
ドキュメンタリー映画『リュミエール!リュミエール!』は現在、公開中。