映画『ルディ/涙のウイニング・ラン』
文・構成 スズキ トモヤ
ルディ・ルティガー。まったく聞き慣れない名前だろう。おそらく、ドイツ系移民のアメリカ人だ。
本作『ルディ/涙のウイニング・ラン』は、彼の初期の人生を映像化したスポーツ映画だ。
アメリカン・フットボールの大学チームでプレーすることを夢見る一人の青年の物語でもある。
過去には、数多くのスポーツ映画が、製作され誕生している。
特に、有名なのが『炎のランナー』『タイタンズを忘れない』『ロンゲスト・ヤード』『ロッキー』『42 〜世界を変えた男〜』など、枚挙に遑がないほど、多くの作品が存在する。
本作は、そんな有名作品の影にひっそり隠れてしまったような、世間ではあまり知られていない作品。
ルディの大学卒業までの若年期の体験を「92%(本人たちの証言)」映画化した実話だ。
本作のあらすじは、幼少期のルディから始まる。
彼は、背も身体も小さく、フットボールをプレーできるような体格の持ち主ではなかった。
それでも、当時のヘッドコーチであるアラ・パーセギアンに憧れ、フットボールに打ち込んでいた。
時が過ぎ、高校卒業時には幼少期からの憧れであったアメリカン・フットボールの名門大学アメフト・チーム「ノートルダム大学ファイティング・アイリッシュ・フットボール」並びに、同大学への進学を希望するも、学力低下が原因で進学をも諦めるしかなかった。
それから数年の時が経ち、父親が経営する工場で働きながら、多額の貯金をしていた。
それは、自身の夢を叶えるべく人知れず貯めたお金だった。
ルディの20数回目の誕生日の日、工場内で起きたアクシデントが誘因で、唯一の理解者だった幼なじみのピートを失うことに。
人生を振り返ったルディは、一念発起して、一人ノートルダム大学へ向かうのだった。
アメフトのフィールドに立つために。学も体格もコネもなく、熱意だけを携えて、彼は名門大学の扉をノックしようと奮い立つ。
本作は数ある映画の中でも傑作中の傑作だと、掛け値なしに胸を張れる。
堂々と人に薦めても、まったく恥ずかしくない作品だ。
心から感動する理由は、作品の出来よりも主人公のアメリカン・フットボールへの黙々と努力する直向きな姿に、誰もが感動を覚えるだろう。
自分自身もルディから物事にどう対処し、乗り越えるかを教えてもらったような気がするのだ。
でも、一度本作を人に薦めたものの、その方からの返答は「フットボールのルール」が気になって入り込めなかったという意見が返ってきた。
確かに、フットボールもまた作品の軸ではあるものの単なる要素に過ぎず、本作の主となる軸は、まさにルディが夢に向かって実直に努力する姿だ。
でも、今回は「アメリカン・フットボール」の基礎を記述したい。少しでも作品を楽しめるために。アメリカン・フットボールは、フットボールの一種だ。
楕円形のボールをもちいて、2チームで得点を競い合うスポーツ(球技)だ。
略称は、アメフト。米式蹴球またの名を鎧球とも呼ばれる。
アメフトの歴史は浅く、アメリカに英国から初めて紹介された1867年まで遡れることができる。
まだ150年ほどしか歴史がない。大学における発展で避けては通れないのが、プリンストン大学だ。
この大学が、一番最初にアメフトの原型とされる競技を始めたという。プレーヤーの数は、各チーム25人の合計50人でのスポーツだった。
続く、ラトガーズ大学もまた、初代のルールでフットボールを始めたが、プリンストン大学とは異なるルールで行ったという。
アメフトの現在のルールが、生まれたのは1874年に行われたハーバード大学とマギル大学の試合が最初だと言われている。
当時は、ラグビー校式ルールで行っていたが、曖昧なボールの所有権を巡り議論が交わされ、アメリカ特有のフットボールのルールが設けられた。
この件がきっかけとして、アメフト開発の気運が高まったという。
現在の形式のアメリカンフットボールは、1874年に行われたハーバード大学とマギル大学の試合に由来する。
当初はラグビー校式ルールで行われていたが、ボールの所有権の曖昧さなどから、アメリカ独自のフットボール開発の気運が高まった。
当時、制定されたルールの中には、今でも尚、残っているものがあるという。少し紹介しておく。
①フィールドでプレーするのは1チーム11人ずつ。
②第4ダウンの攻撃で10ヤード進めなければ攻撃権を失う。
③センターからクォーターバックにボールをスナップして攻撃が始まる。
アメフトにおける、より詳しいルールが掲載されている(1)日本のアメフト協会公式のホームページを引用として紹介。少しでも競技の理解に、映画の理解に繋がればと願う。
また、NFL(プロのアメフト業界)としての歩みは、1892年のエール大学出身のウィリアム・へっフェルフィンガーが1試合500ドルの報酬を受け取り、プロ選手となった。
翌年、1893年には年間契約のプロ選手が誕生し始め、この年を境に正式なスポーツ競技として本格的に動き始めている。
それから、2年後の1895年に16歳のジョン・ブラリアーが1試合10ドルでプロとして活動することを公表する。1896年には数回の試合をプロのみで構成し、戦う集まりが現れた。
そして、1889年、カージナルスがプロチームとして誕生した。
1867年に英国から渡ってきたフットボールは、約30年の間に姿かたちを変え、正式にスポーツとして誕生している。
本当に歴史の浅いスポーツだと言えるだろう。では、本作の主人公ルディが憧れたノートルダム大学のアメフトチーム「ノートルダム大学ファイティング・アイリッシュ・フットボール」の歴史は、どうだろうか?
ノートルダム大学のアメフトは、1887年が起源とされている。
7年後の1894年にチームに初めてジェームズ・L・モリソンというヘッドコーチが就任した。
ルディが、チームに参加した時のヘッドコーチは、アラ・パーセギアンとダン・ディバインの時代の数年間だ。
次に、本作の主人公となっている「ルディ・ルティガー」について、わかる限り記述していきたい。
本名は、ダニエル・ユージーン・ルティガーだ。通称「ルディ」。1948年8月22日にイリノイ州ジョリエットで生まれた。
14人の子供のうち3番目の子供だった。彼には失語症という特徴があったが、これが発覚するのは後にフットボールをプレーするために大学に通い始めた頃。
この特性のために、ルディは学力不振の状態だった。
そのため憧れであったノートルダム大学に進学できなかったのだろう。
高校時代は、地元ではとても有名なフットボールのコーチでもあるゴーディ・ギレスピーの指導の元、プレーに勤しんだ。
この辺りの彼の人生を映画化したのが、本作『ルディ/涙のウイニング・ラン』だ。
この作品のその後、彼は一体何をしているのだろうか?
ここに興味深い記事が、アメリカで書かれている。ルディの生い立ちから大学入学まで。スタメンでのプレーするまでの苦悩。そして、ノートルダム大学卒業後の彼の活動について。
今回は、特に卒業後のルディについて記述した記事を抜粋。
「ノートルダムを離れ、ルティガーはモチベーショナルスピーカー、作家、ルディビバレッジ社のオーナーとして立派な生活を送ってきた。しかし、彼は2011年に(3)パンプ&ダンプの疑いで証券詐欺の罪で起訴された。後に、お金への欲が彼を犯罪の道へと導いたことを認めた。最終的に、ルディ・ルティガーは子どもたちの決意と勝利の最愛のアイコンとしてあり続ける。彼はいくつかの大学から名誉学位を授与され、全国の多くの都市で(4)市の鍵を与えられ、ジョージ・W・ブッシュ大統領からも認められている人物。」
現在、彼は70代を迎え、ご存命。
本作以外にも、彼に関係する映像は多数、制作されているようだ。
アメリカでテレビ放送されたであろう、ルディ本人を追うドキュメンタリー番組がある。
そこには、自身の経験を通して、子どもたちに「夢」を追い続けることの重要性を語っている「Rudy Ruettiger: The Walk On」という彼の姿を収めた映像作品だ。
本作『ルディ/涙のウイニング・ラン』は、公開当初はまったく、人気が振るわなかった。
話題にもならず、映画史の隅に追いやられた作品だ。
でも、時間が経るごとに、徐々に再評価への流れが生まれ始めた。
現在では、多くの人々から賞賛の声をもらい、質の高い作品としての地位を保有している。
振り返るとキャストやクルーは、豪華そのものだ。
主演にはショーン・アスティン(子役時代から活躍する俳優だ。彼の代表作は、映画『グーニーズ』や『ロード・オブ・ザ・リング』のサム役が有名だろう)。
また、共演には親友役のジョン・ファブロー(俳優としてデビューしたものの、初期は泣かず飛ばずの役者だった。
でも、製作側として2008年に公開した映画『アイアンマン』は、彼にとっても、映画業界にとっても革新的な作品だ(この作品までの布石はあったと考慮した上で)。
後に、映画『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』で監督しても、出演者としても成功を収めている。
また、ホラー映画『エクソシスト』で悪魔と対峙するカラス神父を演じたジェイソン・ミラーもまた、アラ・パーセギアン役を演じている。
今思えば、豪華なキャスティングなのは、間違いないだろう。
作品のスコアを担当するのは、映画音楽史では避けて通れない大物ジェリー・ゴールドスミスも参加しており、彼が書いたサントラは耳に残る美しい音色だ。
そして、本作を監督したのが、デヴィット・アンスポーという人物だ。日本では、ほとんど知られていない映画監督だろう。
本作以外にバスケットボールを題材にした実話映画『勝利への旅立ち(1986)』というスポーツ映画を監督している。彼の代表作は、本作とこの作品がまず頭に浮かぶ。
この監督は、学生時代にインディアナ大学ブルーミントン校で学士号を取得後、コロラド州アスペンに移住し、数年間代用教員の職に就き、スキーインストラクターとして従事。
その後、彼はカリフォルニア州に移り住み、南カリフォルニア大学シネマティック・アーツ・スクールに入学。
ここから、彼の監督としての映画人生が始まる。
デヴィット・アンスポー監督は、本作『ルディ/涙のウイニング・ラン(1993)』や映画『勝利への旅立ち(1986)』の他に、多くの多彩な作品を監督している。
映画の現場に留まらず、ドラマや(5)テレビ映画もまた多く手掛けるている。
スポーツ映画の印象が強いが、ジャンルもスポーツだけでなく、ヒューマン・ドラマやラブ・ストーリー、医療サスペンスなど、多岐にわたる才能溢れる監督だ。
日本で劇場公開された作品は、1995年に公開された映画『ムーンライト&ヴァレンチノ』以来、まったく公開されていない。DVDスルーされた作品か、ソフト化すらされてない作品が多く存在する。
2012年に監督した映画『Little Red Wagon(日本劇場未公開)』が、日本としての最後の作品情報となっており、ここ10年ほど、監督としての活動情報は入ってきていない。
アメリカ発信で調べてみると、実はこの最後の作品以降も活動しているようだ。
現在は、監督業はしておらず、製作総指揮として映画『Mr. Church(2017)』や『The Good Catholic(2018)』を製作している。
年齢的に難しい話ではあるが、ファンとしては、監督業に復帰して、本作のようなスポーツ映画を発表して欲しいと願うばかりだ。
余談ではあるが、本作に登場するヘッドコーチ役のジェイソン・ミラーは、監督の過去作に2作ほど出演している。
1作目はプロデューサーとして参加した『Vampire(1979)』と2作目は『Deadly Care(1987)』どちらもテレビ映画だ。
最後に作品の話に戻すと、本作はアメリカで盛んなスポーツ競技アメフトに纏わるヒューマン・ドラマだ。
製作のきっかけは、デヴィット・アンスポー監督の初期作品『勝利への旅立ち』を観たルディ本人からの企画提案があったという。
靦然たる話ではあるが、彼の行動力がなければ、本作は誕生しなかっただろう。
主人公の夢に立ち向かう姿は、強烈なまでに記憶として残る作品だ。
この映画を観ていると、夢を実現しようと奮闘する方々の心に強い印象を刻むだろう。
どんな環境にもめげずに諦めずに、凛とした心持ちで目の前の困難に立ち向かう主人公から勇気やチャンスをもらえる最高のスポーツ映画。
本作『ルディ/涙のウイニング・ラン』は、デヴィット・アンスポー監督にとって、映画『勝利への旅立ち』と並ぶ傑作であり、スポーツ映画の真骨頂だ。
映画『ルディ/涙のウイニング・ラン』は現在、U-NEXTで配信中。
(1)NFL JAPAN ルール解説:基本ルール https://nfljapan.com/guide/rule(2022年1月1日)
(2)The True Story Of Rudy Ruettiger — The Notre Dame Football Legend Behind ‘Rudy’
https://allthatsinteresting.com/rudy-ruettiger(2022年1月1日)
(3)Pump and Dumpとは、日本語で風説の流布のこと。投資の世界では、価格を変動させる目的で、虚偽の情報を流すなどの操作をすること。また映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のモデルとなった投資家Jordan Belfort氏もまた、ルディと同様の投資を行い、2億ドル(約220億円)の損害を出したとして罪を認めている。投資の世界では、ある意味一般常識なのかもしれない。
(4)「市の鍵」とは、中世のヨーロッパでは、鍵は砦、城、都市の象徴として考えられている。都市の代表者が渡す行為は、相手に敬意を払い、感謝の気持ちを表す意味。
(5) 映画のように最初に映画館で上映されるのではなく、テレビ番組のドラマとして放送するために製作した映像作品を指す。日本では現在で言う、2時間枠のスペシャルドラマや火曜サスペンス劇場あたりのことだろう。ただ「テレビ映画」という言葉そのものが、死後になりつつある。