映画『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』アカの外側には

映画『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』アカの外側には

2024年9月2日

観る者に大きなカタルシスを与える映画『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』

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テロは、いつの時代にも起きている。私達が過ごす日常において、滅多に遭遇しない出来事であると認識している人がほとんどではあるが、実際は無関係と一言で片付けるには、非常に軽率で愚かな思考だろう。テロ行為は、テロ事件は、テロリスト達は常に私達の日常に一般人の顔をして普通に暮らしている。テロリストと遭遇する割合が限りなく少ない確率の中で、街を歩けば通り過ぎる0.0001%の確率として、テロリストが街を闊歩しているはずだ。それを偶然にも、街を歩く私達人間が気付いてないだけで、そこらじゅうに息を潜めて、一般人と溶け込みながら、暮らしている。より具体的な数字で言えば、10年程前の少し古いデータになるが、2013年に外務省が算出した海外渡航者死亡ランキングの中で、テロ事件に巻き込まれる確率に関して、現代ビジネスの席を置く記者の菅原出氏は、「テロでこの年に亡くなったのはイナメナス事件で被害に遭った10名で、死亡者要因のランキングでは第六位、全体の約1.6%に過ぎない。テロリストによる乱射事件に運悪く遭遇する確率は、日本で交通事故に遭う確率よりも低いのが現実だ。」(※1)と述べている。テロの脅威は、世界でも日本でも関係なく、いつの時代、どこの国、どのタイミングで起きるかは予想が付かない。イタリア映画『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』は、そんな若いテロリスト達の一挙手一投足の姿や事件に巻き込まれた当事者とその家族の姿を真摯に描いた骨太な社会派犯罪映画だ。この作品で描かれるイタリアで結成された「赤い旅団」は、実在のテロリスト達だ。彼らは、1970年代から解散する1980年代後半にかけて、イタリア全土を恐怖に陥れた。この「赤い旅団」は、1969年にトレント大学の左翼学生レナト・クルチョ(※2)を中心に創設され、当初の主な活動は極右勢力に反対する労働組合の支援であり、若年層の高い失業率や挙国一致体制への不満などを背景に勢力拡大を狙ったものの、思いの外、労働者からの厚い指示を受ける事ができず、次第に過激な武力闘争に傾いて行ったと言われている。そして現在、1988年に解散したとされる「赤い旅団」のメンバーであるが、その残党か、もしくはまた別の人物かによって、1990年、2000年以降にもテロ行為が行われている。1999年には、アントニオ・バッソリーノ労働大臣顧問のローマ大学教授マッシモ・ダントーナが殺害事件に巻き込まれた。この時の「赤い旅団」から犯行声明が出された。また、2002年にも労働大臣顧問マルコ・ビアージ教授が暗殺されている。2003年には、多くの幹部が逮捕されて以降、目立った活動はしていないと言われているが、いつまた新しい「赤い旅団」が誕生するのか定かではない。1999年以降に行われた赤い旅団に関する活動をイタリア社会は「新赤い旅団」と呼び、区別しており、1970年代に暗躍した「赤い旅団」の残党は必ず、21世紀のこの世にも存在する事を裏付けしている。また、2008年にフランスで元メンバーのマリーナ・ペトレラが逮捕された。この時、この容疑者のイタリアへの送還を『人道的理由及び容疑者の人権』を理由にサルコジ元大統領の妻ヴァレリア・ブルーニ・テデスキと彼女の妹でありイタリア人女優のカーラ・ブルーニが、イタリア送還を阻止しようと大統領に力説し、イタリア送還が阻止されたが、この行動がイタリアとフランスに大きな波紋を広げる結果となり、現在、外交面で問題になっている。そして2021年4月28日、マリーナ・ペトレラはフランスに住む他の6人の元赤い旅団メンバーと共に再逮捕された。本作が取り上げる「赤い旅団」問題は現在、2024年になっても解決の糸口を見つけられていないイタリア政府。これらの側面、これらの一点を踏まえて、本作を観れば、また違った「赤い旅団」の一面を知る事にもなるだろう。テロリストとは何か?テロ行為とは何か?再度、考えるきっかけを私達日本人に投げ掛けているのかも知れない。

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現在、世界中で暗躍している過激なテロリストは、今の社会情勢が生み出した産物だ。現在の日本人にとっては、テロリストは縁遠い存在かもしれないが、今でも世界中には過激派のテロリスト集団が各地の裏社会でのさばっている。たとえば、武装イスラム集団、ジハード団、ファタハ・イスラム、イスラム集団、ハマース、アイルランド民族解放軍、アイルランド人民解放軍、アイルランド共和軍 (IRA)、イスラーム聖戦 (パレスチナ)、ムスリム同胞団、パレスチナ解放戦線、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)、リアルIRA、アルカーイダ、ターリバーンなどが今でも世界中に脅威を与えている。残党として一部残っている集団や活動自体が縮小され、大きな動きはないが、それでも集団として残っているテロリストはいる。ここで挙げたテロリスト集団の一覧は、ごく一部に過ぎず、この数倍は今でも過激な活動で世界を脅かしている。歴史を辿れば、19世紀以前からテロリストは世界に存在しており、過去から現在までに起きた事件として取り上げるとするなら、まずは、19世紀以前に起きたテロ事件だ。1881年3月13日にロシア帝国の人民の意志が起こしたアレクサンドル2世暗殺事件。1886年5月4日にアメリカ合衆国の合衆国カナダ職能労働組合連盟が起こしたヘイマーケット事件(労使紛争)。1894年6月24日にフランスのサンテ=ジェロニモ・カゼリオが起こしたサディ・カルノー大統領暗殺事件。これら3つの事件が、19世紀の当時、世界中を恐怖に陥れた。また戦後でも、テロの脅威は止むことがなく、80年近い間、常に世界のどこかの国でテロリストが社会の黒幕として蠢いていた。たとえば、1949年9月9日のカナダカナディアン航空機爆破事件、1968年7月23日にアルジェリアでパレスチナ過激派のパレスチナ解放人民戦線が起こしたイスラエルエル・アル航空426便ハイジャック事件、1969年12月12日にはイタリアのフォンターナ広場で起こった爆破事件、1972年7月21日にアイルランド統一のIRA暫定派が起こしたイギリス血の金曜日事件、1972年9月5日に西ドイツでパレスチナ過激派の黒い九月が起こしたミュンヘンオリンピック事件、1975年4月24日に西ドイツで共産主義であるドイツ赤軍が起こした西ドイツ大使館占領事件1980年8月2日にイタリアでネオ・ファシズムの武装革命中核が起こしたボローニャ駅爆破テロ事件、1995年12月24日から1995年12月26日まで長期に渡ってアルジェリアでイスラーム過激派の武装イスラム集団が起こしたフランスエールフランス8969便ハイジャック事件、1996年12月17日から1997年4月22日まで共産主義のトゥパク・アマル革命運動がペルーで起こした在ペルー日本大使公邸占拠事件。ここまでが、20世紀に起きた主なテロリスト事件であり、全体の数%にしかならない。また、21世紀以降に起きた大きな事件と言えば、2001年9月11日にイスラーム過激派のアルカーイダがアメリカ合衆国で起こしたアメリカ同時多発テロ事件、2002年10月23日から2002年10月26日の3日間、ロシアにてSPIRチェチェン独立派のリヤド・アス・サリヒーンが起こしたモスクワ劇場占拠事件、2004年9月1日から2004年9月3日の3日3晩の間、ロシアでチェチェン独立派のシャミル・バサエフが起こしたベスラン学校占拠事件が、現代における私達の記憶に強く焼き付いている事だろう。これらのテロ事件は世界規模の話であるが、日本でも昭和からテロに関する多くの事件が起きているのも事実だ。たとえば、19世紀以前に起きた大津事件、李鴻章狙撃事件。また、戦前では虎ノ門事件、二重橋爆弾事件、桜田門事件、血盟団事件が起きているが、この時代のテロ事件はほとんど知られていないだろう。やはり、日本ではメディアが発達した戦後以降、多くのテロ行為が報道された。1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)にかけて発生した土田・日石・ピース缶爆弾事件、1970年3月31日に共産主義の共産主義者同盟赤軍派(よど号グループ)によって引き起こされたよど号ハイジャック事件、1972年2月19日から1972年2月28日の数日間で起きた共産主義の連合赤軍によるあさま山荘事件は今でも多くの日本人の脳裏に焼き付いている大事件だったであろう。当時のニュース映像は現在、貴重な資料映像として頻繁に目にする事ができる。また1974年8月30日に反日アナキズムの東アジア反日武装戦線が起こした三菱重工爆破事件もまた、当時のニュース映像が記録映像として長らく使用されている。この事件に関与したとされ、全国指名手配されていた桐島聡(別名:内田洋)(※3)が2024年初頭に世間を騒然とさせたのは記憶に新しい。結果として、テロ事件に終わりはなく、桐島聡本人が人生の最期に自首をして、事件を終わらせようとした行動は、今でも社会に衝撃を与えうる存在である事を再認識させられた。最後に自身の名を明かし、この世を去る選択をした指名手配犯の行動を鑑みると、これは犯人を検挙、逮捕できなかった日本警察の敗北の他ならないだろう。他に、1985年6月23日に起きた日本成田空港手荷物爆発事件、1987年5月3日に起きた日本赤報隊事件、1989年11月4日にオウム真理教によって引き起こされた坂本堤弁護士一家殺害事件をきっかけに、この教団の関係者は1994年の松本サリン事件、1995年の地下鉄サリン事件、警察庁長官狙撃事件と数々のテロ行為を働いた。21世紀以降では、2008年の日本秋葉原通り魔事件、2015年のISILによる日本人拘束事件(ISILによる日本人人質殺害事件)(※4)、そして、2022年の安倍晋三銃撃事件、2023年の岸田文雄襲撃事件が発生した。近年における日本国内のテロ事件の周期は、5年から10年に1回あるかないかの数で起きており、昭和と比較して幾分少なくなったと言えるが、それでも、いつ、どこでテロ行為がここ日本でも起きるのか、誰も予測できない。今年2024年3月22日には、ロシアでイスラム過激派のISによって、モスクワ郊外コンサート会場銃乱射事件が起きたばかりだ。私達の日常には、テロが隣り合わせに存在し、遠い国の遠い出来事ではなく、今私達が暮らす生活の目前で常に起きていると認識しないといけないだろう。

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イタリアで実際に実在したテロリスト集団「赤い旅団」が、イタリア社会で暗躍したのは1970年代から1980年代までのおよそ20年間だ。映画『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』は、「赤い旅団」内部のメンバー同士の関係性や人物構成を前半パートに据え置き、後半パートでは「赤い旅団」の外部にいる彼等に誘拐されたイタリアのアルド・モーロ前大統領(※5)の家族、親族の周辺の人物の心の動きやイタリア社会、イタリア国民の慟哭をピンポイントに描いた仕掛けになっている。より内向的な構成になっているが、その反面、反対側には平行線上にある1970年代から1980年代に跨る当時のイタリア社会、イタリア文化、イタリア政治諸々のイタリアという国のそのものの背景を知る事によって、なぜ「赤い旅団」が産まれたのか?なぜ、イタリア前大統領であるアルド・モーロ氏の命が狙われ、誘拐されなければいけなかったのか?その背景には、1970年代におけるイタリア社会の当時の風土が、大きく関係していたのではないだろうかと、推し量る事ができるだろう。1年毎に調べて書いて行くのは、膨大な量の文字数と膨大な資料が必要になってくるので、まずはレナト・クルーチョによって「赤い旅団」が創設された1969年。そして、イタリアのアルド・モーロ前大統領が誘拐殺人事件に巻き込まれた1978年。そして、「赤い旅団」のメンバーが解散に追い込まれた1988年のそれぞれの社会的文化的国民的背景を探る事によって、この当時のイタリア社会が抱えていた暗鬱とした社会情勢を通して、「赤い旅団」の存在について何か一つの指針を再発見できるのではないだろうかと思う。「赤い旅団」が生まれた1969年、イタリアでは何が起きていたのだろうか?イタリアは、第二次世界大戦における日本、ドイツに継ぐ敗戦国となった国であるが、戦後のイタリアは経済面において非常に混迷が続いた時代を経験している。敗戦からおよそ20年、経済復興を遂げたイタリアは、日本で言うところの高度経済成長を経験し、イタリアでは「奇跡の経済」(※6)と呼ばれ、1960年代後半、特に1958年から1963年にイタリア経済が盛り返した時代だ。近代イタリア史の中でも、貧困で主に農業中心の国からグローバルな工業経済力へと成長した経済と社会発展が約束されただけでなく、イタリア文化の盛り返しの大切な時代と言える。当時のイタリア人歴史家は、「1970年代末までには、社会も全体的に安全になり、人口の大部分にとって物質的な生活水準もはるかに向上した」と言葉を残しているほど、この時代のイタリアは大きく経済成長を遂げた稀有な時期だ。この「奇跡の経済」以降に何が起こったか問われれば、「熱い秋」(※7)と呼ばれた学生運動が勃発している。1969年秋、最高潮に達した労働運動や学生運動の高揚。前年のパリ五月革命の影響を受けた学生運動に端を発し、労働運動に波及。労働者組織の要求は、賃上げといった経済的側面に留まらず、住宅の改善、健康保険制度の充実、南北間の経済格差の是正など、社会的側面にも及んでいる。彼ら学生運動の学生達の要求の一部は、70年5月に発行された労働者憲章にまで結実した。この労働運動の影で産まれたテロリスト集団「鉛の時代」(1981年に西ドイツのマルガレーテ・フォン・トロッタ監督が、制作した映画『鉛の時代』が由来だが、この作品の題材もまた、過激派グループの背景を描いた社会派作品となっている)や本作で取り上げている「赤い旅団」(※8)が、長きに渡りイタリア社会を暗躍した二大勢力だ。また、「鉛の時代」が始まった経緯は諸説あるようだが、1968年の抗議運動と1969年の「熱い秋」、もしくは1969年のフォンターナ広場爆破事件のこの3つのどれかが、「鉛の時代」と呼ばれるテロ集団を生まれさせたと言われている。同時期に、学生の労働運動から産まれた「赤い旅団」もまた、この「フォンターナ広場爆破事件」と深く関係しているのではないかと疑われ、結成の一つの要因になったと睨まれている。結果的に、「フォンターナ広場爆破事件の犯人は不明のまま迷宮入りだが、この事件の解明もまた、2024年の現在、時効が過ぎようが、望まれている一つの事件だ。この時期は多くの過激派グループが存在し、「赤い旅団」や「鉛の時代」を始めとする「闘争は続く」「最前線」「労働者の力」「労働者自治運動」「PAC」を代表する暴力的な新左翼運動や、学生運動、それに対抗する「武装革命中核」「新秩序」「国民前衛」等、ネオ・ファシストの活動が台頭した時代背景もある。1969年8月2日にタオルミーナで行われた第14回ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で監督賞を受賞した製作者は、映画『ロミオとジュリエット』を制作したフランコ・ゼッフィレッリ監督であった。本作が題材にしているアルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件が起きた1978年の時代的背景では何が起き、どう事件と起因したのか探って行きたい。アルド・モーロ元首相の誘拐事件は、イタリア全土に恐怖と脅威、国家的不安を与えた大事件であった。アメリカの「JFKの暗殺事件」と匹敵する程の大打撃をイタリア社会、イタリア国民に与えている。誘拐事件後、アルド・モーロの遺体は、誘拐されてから55日後の1978年5月9日、赤いルノー4のトランクから警察によって発見された。警察は、毛布の下で丸くなっている政治家の遺体を発見し、心臓には11発の銃弾が撃ち込まれていたという。「彼が残された場所は戦略上重要な場所でした。」と話す。その場所は、共産党本部から150メートル、モーロの政党キリスト教民主党の本部から200メートルの距離に死体遺棄されていた。現代イタリアにおける最も優れた殺人事件には、今日でも多くの疑問と謎が残されていると言われている。アルド・モーロ前大統領が誘拐されたのは、1978年3月16日、午前9時。その日、議会はジュリオ・アンドレオッティ第4次政権への信任投票を行っており、初めてイタリア共産党の支持を得るはずだったが、アリタリア航空のパイロットの制服を着た革命的テロ組織「赤い旅団」のメンバー4人が、キリスト教民主党のアルド・モーロ大統領とその護衛を待ち伏せ。銃撃戦中、テロリストらは護衛隊員5人を殺害。そして、政治家を誘拐して首都内の隠れ家に連行した。このニュースは国に衝撃を与え、国民たちを自発的に街頭に出てデモを行わせた(※9)。アルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件が起きる1978年から少し遡った1974年。「ジェノヴァの副検察官マリオ・ソッシ博士が、マルクス・レーニン主義闘争グループ「赤い旅団」の一員である武装特殊部隊に誘拐された。誘拐された人物の釈放の条件は、以前にさまざまな犯罪行為で有罪判決を受けた左翼活動家のグループ「XXII October」のメンバーの釈放とその後の国外追放である。実際、この誘拐戦術は、国家の弱体化を目的とした広範な戦略の一部である。赤い旅団は実際、イタリアには革命の条件が整っていると確信しているが、革命の指導力と革命の欠如により革命は実現しない。イタリア共産党の「裏切り」であり、現在は組織に組み込まれている。したがって、赤い旅団は、「ブルジョア秩序」を武力闘争で攻撃し、その弱さを見せつけ、大衆の革命意識を目覚めさせ、蜂起の基礎を築こうとしている。」(※10)と、事件を起こす事によって政府の弱体化を図ろうとしたと、ボローニャ大学現代言語・文学・文化学部のフランス語と言語学の研究者であるエレオノーラ・マルツィ准教授は話す。また、「1978年、フランスのマスコミは赤い旅団が何者であるかについて非常に明確な考えを持っていました。彼らの政治的方向性、行動様式、目標と目的はわかっています。しかし、モロの誘拐事件では、BRは誰も彼らにそのようなことができるとは考えられなかったであろう壮大な行動を実行しました。したがって、マスコミ、世論、政治階級が赤い旅団と並べて考える習慣のない新しい要素が存在する。たとえば、武器に関する驚くべき専門知識の発見、犯罪的な完璧な攻撃から生じる要素である。プロの殺し屋と対峙するという仮説が生ま​​れる。ル・モンド紙はすぐに赤い旅団についての深い知識を示した。モロの誘拐の余波で、新聞はBRに関する非常に有益な単独記事を掲載した。進行中の裁判への言及があり、組織のトップとしてクルシオの身元がすぐに特定される。赤い旅団は「暴力行為の党派である極左運動」である。」と「赤い旅団」という組織が何者であるのか位置づけている。最初の労働運動の訴えはどこに行ったのか、アルド・モーロ前大統領誘拐事件後の彼らを暴力行為の極左運動の集まりであると、誰も信じて疑わなかった。この年、7月1日にフィレンツェで開催された第23回ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の作品賞を受賞した作品(作品賞は、1969年の翌年1970年に新設されている)は、パスクァーレ・スクイティエーリ監督の映画『鉄人長官(Il prefetto di ferro)』とルイジ・マーニ監督の映画『In nome del Papa Re』が選ばれている。そして、「赤い旅団」が解散に至ったとされる1988年。この年のイタリアは、どんなイタリアであったのだろうか?1988年10月17日にウガンダ航空775便墜落事故が起きている。また、1988年はワインの優良年とされ、数々の希少ワインが生み出された。たとえば、ドメーヌ・ドゥ・カタランス、マルケージ・ディ・バローロ・ブルナーテ、シャトーリューセック、マルケージ・ディ・バローロexセラー、ビオンディサンティ・ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ/ビオンディサンティなどだ(※11)。イタリア映画の名画『ニュー・シネマ・パラダイス』に人気に火が付いたのもこの年辺りからだ。1988年の1月2日、ボローニャ:急進党大会で、党を国境を越えた運動に変えることが提案され、カナダと米国はカナダ・米国自由貿易協定に署名。1月12日、パレルモ元市長ジュゼッペ・インサラコがマフィアによって殺害される。1月18日のパヴィアにて、学生チェーザレ・カゼッラがアノニマ・セクエストリに誘拐され、2年後の1990年1 月30日 に解放される。2月26日、イタリアの金刑務所スキャンダルが爆発。刑事施設建設の契約で政治家に賄賂が渡された。とりわけ、フランコ・ニコラッツィ、クレリオ・ダリダ、ヴィットリーノ・コロンボが関与したとされる。3月11日。イタリア、ローマ。共和国第47代政府であるゴリア政府が辞任する。4月16日。制度問題の専門家キリスト教民主党上院議員ロベルト・ルフィリが赤い旅団によって殺害される。PLO副司令官アブー・ジハード氏もチュニスで殺害される。5月10日、イタリア。カルロ・デ・ベネデッティがモンダドーリ取締役会の支配権を獲得し、シルヴィオ・ベルルスコーニ率いるフィニンベスト社の代表者の支援を受け、L.モンダドーリが解任される。6月4日、イタリア。テレビ放送局の管理に関するマミー法が承認:定期刊行物の一定のシェアを管理するグループは、テレビネットワークを管理することを禁止される。法律の結果、シルヴィオ・ベルルスコーニ氏は新聞「イル・ジョルナーレ」を弟のパオロ氏に引き渡さなければならなくなった。7月11日、ボローニャ。8年間の審理を経て、ボローニャ虐殺(ボローニャ駅爆発事件)に対する判決が下される。黒人過激派のヴァレリオ・フィオラバンティとそのパートナー、フランチェスカ・マンブロ、マッシミリアーノ・ファキーニ、サンドロ・ピッチャフオコは終身刑を宣告。リシオ・ジェッリとフランチェスコ・パツィエンツァも名誉毀損で懲役10年の判決を受け、破壊的結社の罪では無罪となった。攻撃的な扇動者には、光が当たらない。8月2日。カラブリア州:アスプロモンテで監禁されていた8歳のマルコ・フィオラが、誘拐から520日後に解放される。9月9日、ヴェネツィア国際映画祭で映画『聖酒飲みの伝説』の金獅子がエルマンノ・オルミに輝く。9月14日、アルベルト・ジャコメッリ判事(69歳)がトラーパニでコーザ・ノストラ特殊部隊により殺害される。10月13日のトリノ。聖骸布の炭素14検査の結果が公表され、この有名な紙幣の起源が中世にあると考えられる。この結果は、作戦終了前の7月に英国メディアによってすでに予想されていた。11月25日のイタリア。ゴールデンシーツ・スキャンダルを受け、ロドヴィコ・リガート率いるフェッロヴィ・デッロ・スタートの取締役全員が辞任を余儀なくされた。そして、12月。12月7日。アルメニアで激しい地震により、3万人​​の犠牲者と40万人のホームレスが発生する。1988年のイタリアもまた、非常に激動の時代だったと言えるが、この年に解散宣言を出したのは、「赤い旅団」の中核メンバー達であった。1980年代、「赤い旅団」は分裂と分散を開始。赤い旅団や革命的共産主義運動などの同様のグループの中核に加えて、「赤い旅団」は4つのセクションに分かれた。

①「赤い旅団 」ジョバンニ・センツァーニ率いる、いわゆる「軍国主義部門」の一部であるゲリラ党。
②「赤い旅団 」軍国主義者とも定義され、バーバラ・バルゼラーニが率いる戦う共産党。
③コラム ウォルター・アラシア;
④レッド・ブリゲイズ。1985年に誕生した共産主義者戦闘員連合であり、いわゆる「運動主義者翼」の一部であり、最後の歴史的中核である。

1987年、しばらく拘束されていたレナト・クルチョやマリオ・モレッティを含む歴史的中心人物が、武装闘争の季節の終了を宣言した。隠れていた「赤い旅団」のメンバーは、調整と作戦能力を欠いた小さなグループに縮小された。ニカラグアのアレッシオ・カシミッリやフランスの他の多くの亡命者はさらに多く、フランスのフランソワ・ミッテラン大統領が確立したミッテラン・ドクトリンによって保障された寛容な風土のおかげで、イタリアでの投獄を避けることができた。ドゥッチョ・ベリオ、ヴァンニ・ムリナリス、コラード・シミオーニがハイペリオン語学学校を設立したのは1977年で、 1979年4月7日の捜査の一環として逮捕されたパドヴァ出身の教師トニ・ネグリもそこで教えていたという構造が作用したと仮説が立てられた。隠れ蓑として、ヨーロッパ領土で活動するすべてのテロ組織の国際リンクとして、エウスカディ・タ・アスカタスナ、臨時アイルランド共和国軍、パレスチナ解放機構、赤軍派、そして当然のことながら赤い旅団は、冷戦によって確立されたバランスを維持または不安定化するという共通の必要性に基づいて重要な関係を確立した。1988年10月23日、プロスペロ・ガリナーリを含む筋金入りのグループは、6ページ半の文書で「国家に対する戦争は終わった」と宣言した。赤い旅団は事実上、赤い旅団の政治犯と一致する」と述べ、頭字語「BR」の使用を望んでいた外部の人々を否定し、事実上組織を解散させた。「赤い旅団」による最初の攻撃から18​​年が経過していた。時代の流れと共に、政治的社会的革命が必要されなくなった1980年代のイタリア社会において、「赤い旅団」は過去の産物であり、社会のお荷物であったのだろう。1988年にローマにて開催された第33回ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で作品賞を受賞した作品は、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『ラストエンペラー』 フェデリコ・フェリーニ監督の映画『インテルビスタ』 ニキータ・ミハルコフ監督の映画『黒い瞳』の3作品が受賞している。映画『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』を制作したマルコ・ベロッキオ監督は、現代のイタリア政治について、どう思うのか聞かれ、こう答えている。

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Bellocchio:“«C’è una maggioranza che è stata votata dagli italiani, con una presidente che non credo abbia intenzione di commettere azioni autoritarie, e un’opposizione che contrappone delle idee diverse dalle sue. Idee che vedo dilagare un po’ in tutta l’Europa, è come se in un mondo così globalizzato tutti volessero fare piccole repubbliche, sempre più piccole. Chiudersi in casa, dentro le mura della propria città. Penso anche al nuovo disegno di legge sull’autonomia differenziata delle regioni. C’è di base la paura di essere invasi, schiacchiati, derubati. Il problema è governare l’invasione, non respingerla. Respingerla è una sconfitta».”(※12)

ベロッキオ監督:「イタリア国民が投票した過半数があり、権威主義的な行動を起こす意図がないと思われる大統領と、彼女とは異なる考えに反対する野党がいる。私が見たこのアイデアはヨーロッパ全土に広がっており、まるでこのようなグローバル化した世界で誰もが小さな共和国、さらに小さな共和国を作りたいと考えているかのようです。自分の家に閉じこもってください。新しい地方分化自治法案も考えております。侵略され、押しつぶされ、強奪されるのではないかという基本的な恐怖があります。問題は侵略を撃退することではなく、対処することだ。それを拒否することは、我々の敗北だ。」と話す。テロリストが産まれる背景には、社会的基盤が固まっておらず、政治的不安定や労働問題、世界規模での戦争が繰り広げれている時に、小市民である国民の弱者が社会に対する不満を解消する為に徒党を組み、武装化し、過激派への道を辿る。特に、学生や若者といった若年層にその特徴が見られ、集団が攻撃性を帯びた瞬間にテロリストへと姿を変貌させる。今の世にも、その要因の元、どこの国でも武装化した集団が誕生する社会的背景が既に用意されている。

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最後に、映画『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』は、1970年代に起きた近代イタリア史において最も重要な出来事「アルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件」を、マルコ・ベロッキオ監督が20年前に制作した映画『夜よ、こんにちは』とは別視点で事件の様相を描いた5時間半の超大作として仕上げている。1970年代には、国内外問わず、多くのテロリスト集団が誕生した時代的背景を知る事ができるだろう。それだけ、20世紀(昭和の時代)は社会的政治的不安定の時代が続き、国民の間で社会や政治に鬱屈した感情を与えていたのだろう。近年でも、その現状は変わらない。戦争が起き、政治腐敗が進み、国家権力の職権乱用が目立つ昨今。近頃は、若者を中心に環境破壊を訴えるイギリスの環境団体「Just Stop Oil」やドイツの「ラストジェネレーション」が台頭している。前者の環境団体「Just Stop Oil」の広報担当者(※)は、今の訴え方ではまだまだ温く、最終段階も辞さないと日本のメディアに語っている。これは、1970年代に暗躍した「赤い旅団」や「鉛の時代」のように、誘拐殺人事件や暴力犯罪を今後、行うと示唆しているようでもある。桐島聡が所属した東アジア反日武装戦線の当時の代表である黒川芳正受刑者が、「もし当時、非暴力の手段で戦争という究極の暴力をなくせる方法が分かっていれば、事件の選択には至っていなかった。」(※)と獄中からの手紙を通して、悔恨している。時の指導者、マハトマ・ガンジーやマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が掲げた「非暴力・不服従」(※15)の精神が、今の世に広まる事を願わざるを得ない。声を上げる事、世に訴える事は非常に大切であるが、その手段や方法は選ばなければならない。兵庫県知事に対する報道(※16)が、日本でも政治腐敗が公に公表されている連日、兵庫県民はこの知事を知事の座から引き摺り降ろす為に声を上げる必要があると、私は考える。市民団体や学生間から反政府に対する抗議団体が産まれてもおかしくない今、政治腐敗を暴力で解決する手段を選ぶのではなく、「非暴力」で世に訴える方法を模索する必要があるのだろう。今後の未来、第2の「赤い旅団」、第2の桐島聡、第2のマリーナ・ペトレラを産まない為の社会作りが必要だ。アカの外側には、多くの本物の赤い血が流れる。その「赤」を流さない為の「非暴力」という手段を選べる社会になる事をここで誓って行く事が大切だ。

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映画『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』は現在、全国の劇場にて公開中。

(※1)日本でも必ず起こる テロに遭遇! その瞬間、どう行動するのが「正解」か 何が生死を分けるのかhttps://gendai.media/articles/-/47231?page=5(2024年9月2日)

(※2)Renato Curciohttps://www.tim-press.hr/en/authors/renato-curcio/(2024年9月2日)

(※3)桐島容疑者 名乗る人物死亡 爆破事件の遺族「無念でならない」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240129/k10014338861000.html(2024年9月2日)

(※4)「ISIL」邦人殺害事件から考える日本の「積極的平和主義」への覚悟https://cigs.canon/article/20150209_2944.html(2024年9月2日)

(※5)『鉛の時代』: 「蛍が消えた」イタリアを駆け抜けた、アルド・モーロとは誰だったのかhttps://passione-roma.com/%E3%80%8E%E9%89%9B%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%80%8F-%E3%80%8C%E8%9B%8D%E3%81%8C%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E3%80%8D%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%92%E9%A7%86%E3%81%91%E6%8A%9C%E3%81%91/(2024年9月2日)

(※6)Il miracolo economico italiano Il Contributo italiano alla storia del Pensiero – Tecnica (2013)https://www.treccani.it/enciclopedia/il-miracolo-economico-italiano_(Il-Contributo-italiano-alla-storia-del-Pensiero:-Tecnica)/(2024年9月2日)

(※7)Cinquanta anni dall’autunno caldo. Le lotte operaie in Italia nel 1969https://ilbolive.unipd.it/it/news/cinquanta-anni-dallautunno-caldo-lotte-operaie?amp=(2024年9月2日)

(※8)機が熟すとき: 『鉛の時代』の幕開け、そして『赤い旅団』誕生の背景https://passione-roma.com/(2024年9月2日)

(※9)L’omicidio di Aldo Morohttps://www.storicang.it/a/lomicidio-di-aldo-moro_15532(2024年9月2日)

(※10)Le Brigate Rosse e i quotidiani francesi dal caso Sossi alla tragedia Morohttps://interfas.univ-tlse2.fr/lineaeditoriale/647(2024年9月2日)

(※11)1988年のワインhttps://www.yoshidawines.com/phone/product-list/73(2024年9月2日)

(※12)Marco Bellocchio: «Ieri come oggi, i politici giocano con la paura della gente»https://lespresso.it/c/idee/2024/7/15/marco-bellocchio-ieri-come-oggi-i-politici-giocano-con-la-paura-della-gente/51465(2024年9月2日)

(※13)「エコテロリズム」芸術品や高級品を破壊 英・環境保護団体を日本メディア初取材https://www.fnn.jp/articles/-/436514?display=full(2024年9月2日)

(※14)桐島聡容疑者「どうしよう。こんなことになるなんて」 連続企業爆破事件の仲間に見せた動揺 逃げ続けた理由は…https://www.tokyo-np.co.jp/article/350426(2024年9月2日)

(※15)「非暴力」という抵抗――キング牧師の戦いhttps://synodos.jp/opinion/international/21632/#google_vignette(2024年9月2日)

(※16)パワハラでなく「指導の範囲」と説明、兵庫県知事の記者会見を見た県職員「非常に言いようのない思いがあった」https://www.yomiuri.co.jp/national/20240831-OYT1T50042/(2024年9月2日)