映画『Our Latin Thing (Nuestra Cosa)』
ドキュメンタリー映画を主に製作してきた映画監督レオン・ガストを知っているだろうか?
彼は1970年代から2010年代までの間、ニューヨークのインディペンデント界隈で活躍していたインディーズ界を代表するドキュメンタリーの映像作家だ。
彼の長きに渡る監督人生で製作した作品には、『Our Latin Thing (Nuestra Cosa)(1972)』『The Grateful Dead Movie(1974)』『When We Were Kings(1996)』『Smash His Camera(2010)』『The Trials of Muhammad Ali(2013)』『Celia Cruz and the Fania Allstars in Africa (1974)』『B.B. King – Sweet 16(1974)』『Hells Angels Forever (1983)』『1 Love(2003)』『Soul Power(2008)』『Manny (2014)』と50年近い歳月で、11作品のドキュメンタリー映画を世に送り出している。
彼が得意とする題材は、音楽、スポーツ、人物だ。
特に、音楽ライブやフェスを題材にした作品では、本領発揮する姿が作品から滲み出ている。
音楽ドキュメンタリーは、監督にとっての得意分野だったのだろう。
なぜなら、本作『Our Latin Thing (Nuestra Cosa)』以外にも『The Grateful Dead Movie(1974)』『B.B. King – Sweet 16(1974)』『Soul Power(2008)』『Celia Cruz and the Fania Allstars in Africa (1974)』『Hells Angels Forever (1983)』の計6作品の音楽ドキュメンタリー映画を製作してきた人物だ。
彼は2011年に行われた電話でのインタビューにおいて、なぜコンサート会場の場面だけでなく、ストリートから作品を始めたのか?また、そのアイディアは誰のものかと聞かれている。
「それは私のアイディアでした。しかし、スタイルに関する限り、すべて定型的な音楽であり、文化の一部す。そして、スペインのハーレムで撮影されたものはありませんでした。すべてロウアー・イースト・サイドで撮影されました。私がやったことは、主要な出演者の一人一人を連れて、撮影しました。レイ・バレットが氷を売っていたので、子供が現れました。実際には、チェオ・フェリシアーノの息子で、彼に味を求めました。チェオ・フェリシアーノと一緒に、私は彼に東の11番街または12番で撮影を続けました。」
ロウアー・イースト・サイドとは、ニューヨークでは一体、どのような地域だろうか?この作品とは、どのような関係があるのだろうか?
この区域の歴史は古く、おそらくはアメリカ独立戦争以前から存在している。
「デランシー・ストリート」は、独立戦争以前からその土地で農場を営んでいたジェームズ・デランシーという人物から名付けられたストリートの名称となっている。
アメリカの独立戦争が勃発した年は、1775年から1783年となっているため、以前と考えれば、このロウアー・イースト・サイドの歴史は、250年以上前からあったと推測できるだろう。
そして、18世紀、19世紀のこの地域は、多くの移民が移り住むようになったと言われている。
かつては、多くのドイツ人移民がこの地域で生活をし、「リトル・ジャーマニー」と呼ばれるエリアもあったとされる。
また、ドイツ人以外には、アイルランド人、イタリア人、ポーランド人、ウクライナ人など、たくさんのヨーロッパ系の人種が移り住んでいた歴史を持つ。
近年では(1960年70年以降)は、ラテン系アメリカ人、いわゆる中南米から南米の出身者たちが、挙ってこの地域にて居を構え始めたと言われており、彼らと共にニューヨークに「ラテン音楽」が、輸入されたのだろう。
長らくは、このエリアは低所得者たちが居住する地域として隆盛を誇り、悪い見方をすれば、犯罪が多発する危険な場所だったと言える。
ニューヨークは、他にも多くの地区に別れており、このロウアー・イースト・サイドは、クイーンズやハーレムと並び、治安の悪いエリアだったのだろう。
でも、統制が取れていなかったこよ区域は、2000年以降、富裕層が暮らす地域へと様変わりしている。
まさに、世界規模で問題視されている「ジェントリフィケーション」の問題も孕んでいることを忘れてはならない。
分かりやすく、映画で例えるならば、この地域を舞台としている作品には、マフィア映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(1984)』やミュージカル映画『レント(2005)』でお馴染みのエリアだ。
また他にも映画『Crossing Delancey(1988)』や『Downtown 81(2000)』『Hester Street(1975)』という日本未配給でも、同地区が舞台となっている。
蛇足ながら、海外のアーティストでも、この「ロウアー・イースト・サイド」について、楽曲で歌っているシンガーも何十組もおり、ニューヨークにおいては有名な地区だ。
最も有名なアーティストとしては、80年代に活躍した女性シンガー、スザンヌ・ヴェガが歌う『Ludlow Street』とは、ニューヨーク市のマンハッタンのロウワー・イースト・サイドにあるヒューストン・ストリートとディビジョン・ストリートの間を走る通りのことを指す。
7枚目のスタジオ・アルバム『Beauty&Crime』の2曲目に収められた隠れた名曲だ。
また、若者層から指示のある女性R&Bシンガーのリアーナも、ft.ドレイクとして発表した楽曲『What’s My Name?』のMVの撮影場所が、ロウアー・イースト・サイドであることを紹介する。
この動画が制作されたのは、2010年頃となるため、ちょうどここの区域がジェントリフィケーションされ始めた時期の画像なので、10数年前のロウアー・イースト・サイドの様子を確認することができる。
まず日本人にはあまり馴染み深くないラテン音楽。アメリカでは、1940年代頃からラテン音楽が北米地域に定着し始めたと言われている。
この音楽ジャンルには、2種類に分けることができ、アフロ・キューバン・ジャズとブラジリアン・ジャズがそれに当たる。
まったく聞き覚えのない知らない音楽ジャンルということは、間違いない。
日本人にとって、最も聞き馴染みのあるラテン音楽は、ペレス・プラードが作曲した楽曲『Mambo No.5』だろう。
日本人なら誰もが、一度は耳にしたことのある名曲中の名曲だ。
1950年の楽曲なので、北米にラテン音楽が伝わるようになってから、比較的早い段階で発表された作品だろう。
また他にも、先に挙げたアフロ・キューバン・ジャズは、1940年代から1950年代頃にキューバ色の強い楽曲を目指して、キューバを中心として急激に発展したジャンルだ。
ルンバ、ソン、マンボ、サルサ、メレンゲ、カリプソン、チャチャチャの要素を含むものをアフロ・キューバン・ジャズと呼ばれる。
このジャンルで最も有名なのが、ジャズ界で最も有名なプレイヤー、デューク・エリントンによる名曲『キャラバン』だろう。
そしてもうひとつ、ブラジルの音楽を中心に発展したブラジリアン・ジャズというジャンルがある。
ブラジル系リズムのサンバ、ボサ・ノヴァの要素を含んだ音楽ジャンルだ。
こちらは少し遅れて、アメリカで人気を得たジャンルだ。
1962年、ジャズ・サックス奏者のスタン・ゲッツが発表したたアルバム『ジャズ・サンバ』は、ボサ・ノヴァを取り入れたジャズアルバムだ。
このアルバムが、ブラジリアン・ジャズの起源だと言われている。
円やかなサックスの音色が、真っ直ぐ伸びる滑り出しから、ボサ・ノヴァの雰囲気漂うジャズ・ナンバーだ。
ラテン音楽では、数十種類の楽器が使用されており、どの楽器も小学校の音楽室に教材として扱われているような、有名なものはかりだ。
いわゆる中南米以南の民族楽器だ。
ラテン音楽そのものは日本に定着しなかったものの、楽器は日本人にとって馴染み深いものばかりだろう。
最も有名なのが、コンガ、ボンゴ、マラカス、ギロ、カウベル、ウッドストック、ビブラスラップの計7種類だ。
他にも、演奏中に使用されている楽器は様々あり、こちらの(2)サイトでは分かりやすく図と一緒に紹介されている。
さて、話を戻して、本作『Our Latin Thing (Nuestra Cosa)』は、1972年に製作されている。
一番最初にラテン音楽が流通したアメリカの地域は恐らく、1940年頃、メキシコ国境に近いカリフォルニア州やアメリカ南部のルイーズ州に伝わったのではないだろうか?
そして、その地域に居住していた中南米の移民たちが、北へ北へ北上した結果、ニューヨークの移民としてたどり着き、南米でのブームの中、ラテン音楽を北部でも流行させたのだろう。
日本でのラテン音楽は、差程定着はしなかったものの、姿形を変え、楽曲の要素として音楽文化に浸透している。
海外のラテン音楽もまた、姿形を変えて、新しいジャンルとして再構築されている。
熱帯jazz楽団は、得意とするラテンジャズを中心に楽曲をアレンジし、1995年から現在まで活動を続ける日本を代表するラテンジャズ・バンドだ。
本楽曲『My Favorite Things』は、元々はブロードウェイ並びに映画で有名な作品『サウンド・オブ・ミュージック』内で歌われる一曲だ。
映画女優のジュリー・アンドリュースが歌唱しているのは、万人の知る事実だ。
映画が公開された翌年の1960年にジャズ・プレイヤーのジョン・コルトレーンによってカバーされ、今では映画音楽のみならず、ジャズのスタンダード・ナンバーとして親しまれている。
近年では、アリアナ・グランデもカバーするなど、半世紀以上もの間、愛されて続けている名曲だ。
続く、イタリアのダンス・グループFinzy Kontiniが発表した『Cha Cha Cha』は、ディスコブームに乗っかって、全世界で大ヒットしたディスコ・ナンバーだが、「チャチャチャ」というタイトルにもあるように、ラテン音楽ひいてはアフロ・キューバン・ジャズを彷彿とさせる。
この曲は、Finzy Kontiniの『Cha Cha Cha』が85年にヒットした翌年の86年に日本の歌手、石川明美がカバーしてヒットさせたJ-Popの名曲だ。
本家の楽曲に比べて、日本の歌番組ではラテン・ビートを全面的に押し出し、南米の民族楽器を積極的に使用した演奏を披露している。
ラテン音楽を完全に意識した曲調が、印象的だ。
同年に放送された明石家さんま、大竹しのぶ主演の名作ドラマ『男女7人夏物語』の主題歌でもある。
次に、85年にヒットした中森明菜の代表曲『ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕』もまた、ラテン調のメロディを意識して制作されており、作曲と編曲には日本のラテン・フュージョン・ミュージシャンで、ジャズ・ピアニストでもある松岡直也が参加している。
タイトルの「Meu amor é・・・」は、ブラジルの共用語でもあるポルトガル語を採用している。
また、彼女の隠れた名曲『赤い鳥逃げた』は、歌詞は異なるが、同じメロディという手法でセルフカバーしている。
こちらは、日本人なら誰もがどこかで必ず耳にしたことのあるラテン音楽の名曲だ。
日本だと様々な場面で使用されてきた定番曲だろう。
この楽曲は、1989年にイタリアのグループ、ジプシー・キングスがリリースした曲だ。
『Mosaïque』というアルバムの7曲目に収録されている。
元々は、イタリアのカンツォーネの名曲『青く塗られた空の中で Nel blu dipinto di blu』として1958年に発表している。
その原曲を大胆にもアレンジしたのが、本楽曲だ。
そして、最後は「レゲトン」というまったく新しいジャンルで一時代を築いたアーティスト、ダディ・ヤンキーだ。
この曲『ガソリーナ』は、2010年にリリースされ、当時としては新感覚の曲だった。
レゲトンは、80年代から90年代にアメリカで流行ったヒップホップブームの影響を大きく受けており、レゲエやサルサのリズムに合わせてスペイン語のラップで歌う音楽ジャンルをレゲトンと呼ぶ。
ダディ・ヤンキーより前の2004年にN.O.R.E(ノリエガ)というラッパーが「Oye Mi Canto」という曲を発表し、スペイン語圏でヒットさせたのが、一番最初でもある。
ラテン音楽は、国内外問わず、現代でも多くのアーティストにを与え続け、姿形を変えて、あらゆる人間に愛されてきた音楽ジャンルだ。
今後もまた、まったく新しいラテン・ミュージックが、生まれ続けることだろう。
そして、本作『Our Latin Thing (Nuestra Cosa)』は、70年代にニューヨークで流行したラテン音楽のバンド、ファニアオールスターズを追った音楽ドキュメンタリーだ。
このバンドは、ジョニー・パチェコが、設立したファニア・レコーズを宣伝するために結成したグループだ。
パチェコは、1970年代、80年代中心にニューヨークのラテン音楽シーンにおける最重要人物だ。
1950年代後半に彼は、キューバのリズムとドミニカのメレンゲのブレンドさせ、パチャンガと呼ばれるジャンル確立、
させら。
このパチャンガが、彼を世界的な名声へと駆り立て、ラテン音楽の進化に重要な役割を果たした。
1970年代にはサルサの主要な人物の一人にもなったと言われている。
また彼は、9つのグラミー賞ノミネートと10個のゴールドレコードを獲得した偉業も持ち、ラテン・ミュージック界に多大な貢献を残したジョニー・パチェコは、昨年2021年2月15日にご逝去された。
本作を監督したレオン・ギャストと偶然にもほぼ同時期の出来事だ。
音楽ドキュメンタリーは、ジョニー・パチェコたちが活躍した70年代前後に大きく発展したジャンルだろう。
ドキュメンタリー映画は、1920年代に突入すると共に、大きな転換期を迎える。
1922年にアメリカのロバート・フラハーティが史上初の映画『極北のナヌーク』を発表した。
1920年代には、もう一人この分野において大きな功績を残した映像作家がいる。
ロシア革命期に活躍したジガ・ベルトフだ。この時期から、徐々に徐々に世界各国で同ジャンルの作品が、数多く製作されている。
音楽ドキュメンタリー映画は、一体いつどこで誕生し、作品としての世界的地位を活躍したのだろうか?
恐らくではあるものの、マイクル・ウォドレイ監督による音楽映画『ウッドストック 愛と平和と音楽の三日間(1969)』は、この年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門で賞を受賞した作品だ。
この時初めて、音楽に関するドキュメンタリーが映画界でひとつのジャンルとして認められたのだろう。
ただ、もう少し音楽ドキュメンタリーの起源を探ってみると、この作品より前に製作された作品が2本現存している。
まず、2本のうちの1本は一昨年日本でも公開60年記念として4Kデジタル・リマスター版としてリバイバル上映された映画『真夏の夜のジャズ(1959)』が、恐らく最も古い音楽ドキュメンタリーのひとつだろう。
また、もう1本は1963年にイタリアで開かれたカンタジーロ・フェスティヴァルの模様を映画化した作品『太陽の国のカンツォーネ(1963)』もまた、最古の音楽ドキュメンタリーのひとつだろう。
前者は、海外の(3)映画サイトRolling Stoneが70タイトルのドキュメンタリー映画をランキングで集計したデータを紹介している。
また、本作を監督したレオン・ギャストがプロデューサーとして参加した映画『Soul Power』もランク入りしている。
音楽ドキュメンタリーの製作者として、定評のある監督が製作した本作『Our Latin Thing (Nuestra Cosa)』は、インディペンデント系列にも関わらず、作品としての一定水準のクオリティを保てている。
映画は、このジャンルが黎明期にちょうど誕生した映画として最も重要な立ち位置の作品だ。
最後に、音楽系ドキュメンタリー映画は、今後も製作、公開されていくジャンルだろう。
近年では、2020年12月31日をもって、惜しくも解散した日本の人気アイドル・グループ「嵐」の初めてのライブ映画『ARASHI Anniversary Tour 5×20 FILM “Record of Memories”』が、昨年2021年11月26日公開された。
148分という長尺ながら、圧巻のライブ映像の裏では125台のカメラが、彼らのパフォーマンスを射止めた。
また、今年4月22日には、アメリカのカントリー歌手の大御所女性シンガー、リンダ・ロンシュタットの『リンダ・ロンシュタット サウンド・オブ・マイ・ヴォイス』。
ノルウェーを代表するロック・バンド、a~haの40年間の軌跡を追ったドキュメンタリー映画『a-ha THE MOVIE』の公開も5月20日に控えている。
音楽映画は現在も、規模を拡大し、益々発展し続けている。
(1)IT WAS OUR THING, OUR LATIN THING: AN INTERVIEW WITH LEON GASThttps://soundsandcolours.com/subjects/film/it-was-our-thing-our-latin-thing-an-interview-with-leon-gast-10838/(2022年2月18日)
(2)私家版楽器事典https://saisaibatake.ame-zaiku.com/gakki/gakki_zukan_america_s.html(2022年2月19日)
(3)70 Greatest Music Documentaries of All Timehttps://www.rollingstone.com/movies/movie-lists/70-best-music-documentaries-24757/the-last-waltz-1978-92558/(2022年2月20日)