突然の襲撃、引き裂かれた家族。ドキュメンタリー映画『ホールディング・リアット』


私達は、本当にガザを理解しているのか?(※1)ニュースを通じて知るガザ地区の現実は、すでに一定の枠組みの中で整理されて来た。ハマスとイスラエルの衝突、人道危機、そして終わりの見えない対立。ガザは、狭い土地に約220万人が暮らす高密度の地域であり、2007年以降は封鎖状態に置かれて来た。「天井のない監獄」と形容されるこの環境(※2)は、単なる戦場ではなく、人々の日常そのものを制限する構造として機能している。電力、水、医療、移動において生活のあらゆる基盤が制約される中、紛争は「非日常」ではなく、むしろ日常の延長として存在するる。しかし、ガザ地区問題における構造的な理解は、日本においては必ずしも広く共有されて来た訳ではない。多くの場合、問題はその歴史的背景が「衝突」として消費されて来た事だ。1948年の「ナクバ」や長期にわたる占領、そして封鎖の継続にまで日本人の視線が届く事はほぼ少ない。テレビのニュースで数十秒流れる映像や、SNSで流れて来る断片的な情報だけで、どこか「知っているつもり」になってしまう感覚は、少なくとも自分の中にあった理解の“手前”にあるものを扱うだけである。拉致された人質を軸に据え、人質という存在が複雑な政治や歴史を一時的に棚上げし、「明確な被害」として認識される。観客は、観客として迷わない。誰に共感すべきかが、即座に提示されるからだ。しかし、この映画が描いているのは、その“迷わなさ”そのもの。人質という焦点は、ガザの構造を説明する為だけでなく、むしろ、それを見つめる側の視線を浮かび上がらせる為に配置されている。アメリカ社会における分断は、その視線の揺らぎとして可視化された。それは遠い国の問題でありながら、日本からそれを見ている自分の立ち位置もまた、無関係ではいられないと感じさせる。誰の痛みに即座に反応し、誰の痛みに距離を取るのか?それは単なる個人の感情ではなく、長年にわたり形成されて来た政治的文化的文脈の反映だ。西側メディアにおいて支配的であった「テロ組織対民主主義国家」という図式もまた、その判断に影響を与えているに違いない。その図式を日本にいる自分達もまた、無自覚に受け取って来たという違和感を残す。ガザの現実は本来、単純に耐えるものではない。封鎖下での生活、若年層の高い失業率、教育や医療の崩壊、そして戦闘の度に繰り返される犠牲になる民間人。それらは単発の出来事ではなく、構造として持続し続けている。にも関わらず、本作はその構図を網羅的に説明しようとしない。むしろ、説明を削ぎ落とす事により、観客自身の「理解の枠組み」を露出(※3)させようとする。カメラは選択的ではあるが、すべてを語らない。だがその沈黙は、欠落ではなく構造の反映なのだ。何が映され、何が映されないのか。その偏りは、現実における情報の流通そのものと重なる。重要なのは、この映画が「ガザを知る為の作品」ではないという点だ。むしろ「私達がどのようにガザを理解しているかとという思い込み」を問う装置だ。人質は、象徴の証。それは救出されるべき存在であると同時に、「共感の選別」が行われる場である。その選別は偶然ではなく、社会的に形成された視線の結果が滲む。ドキュメンタリー映画『ホールディング・リアット』は、ハマスに拉致された娘を救い出す為、分断を超えて奔走するイスラエル系アメリカ人家族の姿を描いたドキュメンタリー。提示するのは、紛争の全体像ではなく、戦争を捉えようとする視線の限界にある。日本からガザは、あまりにも遠い。しかし、その距離は地理的なものではない。理解の枠組みによって作られた理解とこころの距離だ。そして、その距離の中に、自分自身も確かに立っている事。この映画は、その距離を可視化させるきっかけに過ぎない。そして、「理解している」という感覚そのものに強い疑いを残すだけだ。

突きつけて来るのは、私達が見ている現実が、どこまで本当に理解されたものなのかという問いだろう。2023年10月に起きた襲撃と拉致事件(※4)は、多くの命を奪い、同時に報復の連鎖を加速させた。しかし、それは単なる悲劇ではなく、出来事そのもの以上に、それをどう受け止め、どう理解しようとするのかという、私達自身の態度をも露呈させた出来事でもあった。そもそも、この地域における対立は一朝一夕で生まれたものではない。イスラエルとパレスチナの対立(※5)は、歴史・宗教・政治が幾層にも絡み合い、単純な善悪では捉え切れない複雑さを持つ。そして、その分断は地図上の境界線に留まらず、人々の記憶やアイデンティティの中にも深く刻み込まれる。だからこそ、それを外側から「理解する」と語る時、そこには常に見落としや単純化が入り込む危うさが存在する。一方で、アメリカ社会において顕在化しているリベラリズムの分断もまた、無関係ではない。本来、個人の自由や多様性の尊重を掲げて来たリベラルという思想は、他者の権利を守る為の基盤であったはず。しかし現実には、その理念は政治的な対立の中で消費され、時に他者を排除する論理へと反転する。理念としてのリベラルと、現実のリベラルの間に横たわる断絶(※6)は、今や見過ごす事のできないものになっている。共存を信じて来た人々や、「キブツ」という共同体で築かれて来た生活もまた、その断絶の中で揺らいでいる。それは理想が無意味だったという事ではない。むしろ、理想が現実に追いつけないほど、現実の暴力が強固であるという事を示している。それでもなお、拉致され、そして解放された後に発せられた言葉には、憎しみだけでは終わらせない意思がにじんでいる。その声は、暴力の論理に回収できない、人間の選択の可能性を示す。それは、決して大きなものではないかもしれない。それでも、分断の中で尚、他者と向き合おうとする、そのわずかな意志は確かに存在している。暴力の連鎖の中にあっても、人は何を選び取るのか?そして私たちは、その選択をどのように理解し、どのように語るのか?その問いは、もはや遠い場所の問題ではない。分断や対立は形を変えながら、私達の社会の中にも確かに存在している。分断が深まる未来なのか?それとも対話の可能性をわずかでも引き寄せるのか?その選択は、すでにどこか遠くで決まるものではなく、私達一人一人の理解のあり方に、すでに委ねられている。ここで問われているのは特定の地域の問題ではない。人が奪われるという構造そのものが、世界各地で、そして日本においても繰り返されているという事実について次章で記述したいと思っている。

ある日、誰かが突然いなくなる。その不在は、時間が経てば過去になるような性質なものではない。残された側にとって、それは日常の中に居座り続ける「現在」であり続ける事。北朝鮮による日本人拉致問題(※7)は、しばしば外交や安全保障の文脈で語られる。しかしその語りの枠組みそのものが、この問題の輪郭を曖昧にしてしまっていると言い切れる。国家という単位で整理された瞬間、そこにあったはずの個々の時間や生活は、均され、抽象化される。語りやすさと引き換えに、見えなくなるものが確かに存在する拉致問題。国家の視点に立てば、北朝鮮拉致問題の場合は戦略的である。工作員の育成、情報収集、文化的適応能力の獲得、そして交渉におけるレバレッジ。発展途上国の場合は、軍事力や経済力で劣る国家であり、自らの非対称性を補う為に選択した手段として、それは合理的に設計され、実行されている。ここで重視されるのは、倫理ではなく機能だ。どれだけ非人道的であっても、「有効であるかどうか」という一点だけが判断基準とされる。この構造の前では、善悪という枠組みはほとんど意味を持たない。しかし、その合理性を理解する事と、それを受け入れる事は別問題。むしろ重要なのは、その合理性を理解した時、私達の認識がどのように変化するのかという点だ。国家の論理に引き寄せられる程、個人の不在は具体性を失い、「事案」や「案件」として処理される。そこでは、誰がいなくなったのかという問いは後退し、それがどのような意味を持つのかという抽象的な整理だけが残る。この問題が長期化している理由もまた、単純ではない。独裁体制においては、過去の誤りを認める事は体制の正統性を直接損なう。指導者の無謬性を前提とする構造の中では、一度示した説明を覆す事は許されない。だから、この問題は解決されないのではなく、解決できない状態として維持されている。ここには、外部からの圧力では崩せない内部論理が存在する。一方で、日本社会の側もまた、この問題を一定の距離の中で扱い続けて来た。強い言葉で非難し、象徴として共有しながらも、それが日常の実感へと接続される事は少ない。報道の波が引けば関心は沈み、出来事は「知っている問題」へと変わるだけ。その過程で、この問題は解決に近づくのではなく、静かに思考の外側へと押し出されるだけだ。しかし本来、この問題は過去には属さない。拉致は国際法上、「強制失踪」という継続的な人権侵害(※8)に位置づけられる。被害者が帰還しない限り、この問題は終わらない。終わっていないのではなく、今も現実に続いている。「ある日、誰かが突然いなくなる。」愛する人の不在は、時間によって終わるものではない。それは形を変えながら、日常に居座り続ける。名前を呼んでも応答がない、その単純で決定的な断絶は、どれだけ時間が経っても埋め合わされる事はない。遠い国の出来事として処理するには、あまりにも近く、しかし自分事として引き受けるには、どこか距離を保ったまま見入ってしまう。その曖昧な位置に、私達は立ち続けている。にも関わらず、それを現在の問題として捉え続ける事は難しい。不在は可視化されず、時間の中で静かに輪郭を失って行く。そこにあるのは爆発的な暴力ではなく、持続する沈黙であり、目に見えない断絶だ。そしてこの沈黙は、社会の側の選択と無関係ではない。関心が薄れ、語られる頻度が減り、個々の出来事が数字や属性へと還元される時、この問題は「現実」から「情報」へと変わる。その変化は緩やかであるが故に、私達はそれを変化として認識しない。歴史的に見れば、この問題は偶然ではない。冷戦構造の残滓、植民地支配の未清算、日朝関係の断絶と不信。そうした要因が重なり、拉致は発生し、そして解決されないまま現在に至っている。現在の膠着は、単なる外交の失敗ではない。積み重なった歴史の帰結である。だとすれば、問われているのは「なぜ起きたのか?」ではない。それを、今どの位置から見ているのかという視線の問題だ。遠い国の問題として理解するのか。もしくは、国家間の交渉として処理するのか。または、一人の人間の不在として引き受けるのか。時間が経過する程、出来事は忘却へと引き寄せられて行く。だが、忘却は自然に起こるものではない。それは選択の結果だ。この問題を「いま」の事として考え続けるのか。それとも、過去の出来事として手放して行くのか。その分岐は、どこか遠くにあるのではない。既に、私達の認識の中にある。そして恐らく、その選択がどちらかに傾いているのか、私達はどこかで、もう気づいている。それでも尚、この問題を「いま」の事として引き受け続ける事が理解できる。あるいは、気づかぬうちに再び同じ構造を許してしまうのか。その問いは、過去にしか届かない。今この時点で立ち止まり、考え続けるしかない。誰かの不在を、単なる情報としてではなく、自分の生きている時間と地続きのものとして想像し続ける事。その想像力が途切れた瞬間、この問題は再び「他人事」へと戻ってしまう。未来はまだ、決まっていない。しかし同時に、それは無数の無関心の延長線上に、既に形を持ち始めているのかもしれない。その輪郭を変えられるかどうかは、今、どこまでこの問題を引き受ける事ができるのか、その一点にかかっている。そして、未来を描くとは、ただ過去をなぞる事ではない。今、感じ考え心を震わせ、想像力を全身で働かせる事の積み重ねでしか形づくられない行為でもある。誰かの失われた時間に思いを馳せ、ほんの小さな違和感や他者の痛みを見過ごさず、言葉や態度で確かめる事(※9)。それは個人の行為でありながら、社会全体の感受性や認知の輪郭に影響を与え、やがて同じ過ちを繰り返させない為の土壌を作る。私達が選ぶ無関心ではなく、選ぶ思考と行動の一つ一つが、未来を照らす光となる。見過ごされた瞬間は取り返せなくても、今、誰かの不在を胸に抱き、問い、想像し続ける事によって、その光は広がる。過去の痛みをただ記録として終わらせず、生きている時間と結びつけて感じられるかどうか。その力こそが、社会の輪郭を変え、未来を形づくる手がかりになるだろう。未来はまだ、決まっていない。けれど、私達の一瞬一瞬の選択と想像力の積み重ねが、やがて失われた時間の重みを抱き止める社会の光となる事を、私は強く信じたい。ドキュメンタリー映画『ホールディング・リアット』を制作したブランドン・クレーマー監督は、あるインタビューにて本作の倫理観について、こう話す。

クレーマー監督:「これは、ランス(弟で同じ制作者)と私がこれまで経験した中で、倫理的に最も複雑で、率直に言って最も辛い経験でした。このような映画を制作し、困難な状況にある人の人生に深く入り込むときはいつでも、その人たちを気遣う人間として、そしてドキュメンタリー作家として、どのように振る舞うべきかを意識する必要があります。この物語の場合は、そのレベルが全く違いました。私たちの親戚は、娘、妹、母、父が生きているのかどうかも分からず、人生最悪の日々を過ごしていました。彼らはまた、世界の舞台に立たされ、リアットとアヴィヴの状況を世間に知らしめなければなりませんでした。さらに、彼らは互いに意見が一致していませんでした。 彼らは、父と娘、夫と妻、祖父母と孫の間の非常に親密な意見の相違を目撃し、記録することを私たちに許すという、途方もない信頼の飛躍をしてくれた。彼らは眠れず、緊張は最高潮に達していた。私たちはそれを真剣に受け止めなければならなかった。私たちは、常に無理強いしすぎているような感覚があった。当時、私たちはイェフダとハヤと一緒に暮らし、キブツの避難民が収容されているホテルの部屋の外の床で寝ていた。私たちは彼らの生活に深く入り込んでいた。本当に困難なことが起こっている瞬間を撮影していたが、無理強いしすぎていると家族から言われたり、私自身が感じたりした。そして、信頼関係を再構築しなければならなかった。また、カメラを置いて、ただ家族の一員として彼らを支える必要があった。そうすると、何か深い出来事が起こり、カメラでそれを見逃してしまうこともあった。10月7日から54日後、リアットが釈放されたことで、すべてが再び変わりました。私たちはずっと彼女の家族を撮影していましたが、彼女がこの映画が制作されていることをどう感じるかわかりませんでした。彼女が監禁から解放されて病院に運ばれる瞬間を撮影すべきか、どのように撮影すべきか。幸いにも、家族はその瞬間を撮影することの重要性を理解してくれました。12時間後、リアットは夫が殺されたことを知りました。24時間以内に、夫の葬儀の前日に、彼女が知らないうちに映画が制作されていることを話し合わなければなりませんでした。彼女は、その神聖な瞬間を記録すべきかどうかを決めなければなりませんでした。リアットを見つけることは、家族とのつながりがなければ不可能でした。それは親密さを可能にしましたが、そのレベルの信頼関係があっても、簡単にこの境地にたどり着くことはできません。「これを撮影すべきか?なぜ?どのように?」とほぼ毎時間再評価するプロセスなしには、この境地にたどり着くことはできません。 」(※10)と話す。極限状態に晒されている当事者や当事者家族にカメラを向けるという事。それは、並大抵な事ではない。「撮る、撮らない」の様々な葛藤を背景に、一本の作品が作られた。作らなければならなかった。誰かの苦しみや悲しみをデータとして記録しなければならないという使命感は理解できるが、そこにはあまりにも高すぎる「倫理」という壁が聳え立つ。どの制作者も同じように口にするが、苦しんでいる人にカメラを向ける事によって、その苦しみがよりさらに悪化してしまう可能性も孕む。撮らないで欲しい姿、記録に残して欲しくない言葉の数々。それでも、作品として残すという選択には、世界に真実を発信する手段がそこにはあるから。覚悟を持って、カメラを家族に向ける。その痛みに向けて、世界に拡散する。映画は娯楽であり、エンタメではあるが、その一方で、社会の片隅で苦悩する人々の姿を伝える媒体とでも言える。私達がスクリーンに向かって対峙した時、世界の「何」が変わると言うのだろうか?

最後に、ドキュメンタリー映画『ホールディング・リアット』は、ハマスに拉致された娘を救うため、分断を越えて奔走するイスラエル系アメリカ人家族を追ったドキュメンタリー作品であるが、ただ誘拐や拉致という出来事を通して家族の姿を追うだけではなく、その背後で絡み合う国家権力や国際関係の緊張、さらにはイスラエルやアメリカ社会に横たわる分断の構造までもが、否応なく浮かび上がる。その複雑さは、一つの物語として回収できるような単純なものではない。むしろ、ここで露わになるのは、私達が出来事を「理解したつもり」になる為の枠組みそのものの脆さである。この問題は、容易に「理解」へと還元される事を拒み続けている。だからこそ、この作品が投げかける問いは、単なる共感の獲得に回収されるべきではない。その現実を「遠い場所の出来事」として消費するのか、それとも自分の立っている社会と地続きの問題として引き受けるのか。その選択を、観る者に突きつける。作中で描かれる誘拐された娘を奪還しようとする父親や家族の姿は、今も尚、瞼の裏に鮮明に焼き付いている。その眼差しや切迫したやり取りの一つ一つが、簡単には消えない余韻として残る。しかし、この作品が提示しているのは、単なる感動の物語ではない。彼らの必死さは観る者の感情に強く訴えかける一方、その強度さゆえに、私達はその苦しみを「理解したつもり」になってしまう危うさも孕む。むしろ浮かび上がって来るのは、個人の意志だけでは抗い切れない現実の厚みであり、その中でなお何かを選び取ろうとする人間の姿だ。だからこそ、問われているのは、彼らにどれだけ共感できたかではない。その姿を前にして、自分がどこに立ち、どのような距離でこの現実を見つめるのか?その問いは、スクリーンの外へと静かに持ち出される。北朝鮮拉致問題における拉致被害者家族会は「親の世代が存命のうちに被害者全員の即時一括帰国を」(※11)と政府に求めている。この切実な訴えは、時間の猶予が残されていない事を示すと同時に、この問題が今だ現在の只中にある事を明確に示す。にも関わらず、それが「長く続いている問題」として語られた瞬間、どこかで切迫性が後景へと退いてしまう。その僅かな認識のズレこそが、問題を遠ざける温床になっている。戦いは、すでに始まっている。それは外交や政治の場に限定されたものではない。むしろ、関心が薄れて行く日常の中、なおも想像し続ける事ができるのかという、私達一人一人の認識の内部において進行している。関心が途切れた瞬間、この問題は再び見えない場所へと押し戻される。未来は、まだ決まっていない。だからこそ、その行方は既に私達の眼差しの中に委ねられている。しかしそれは、ただ白紙のまま手つかずに残されているという意味ではない。私達が何を見て、何に関心を持ち、どこまで想像し続けるかが大切だ。その選択の積み重ねによって、現実は少しずつ形を与えられて行く。しかし同時に、それは無数の無関心の延長線上にも形を持ち始めている。だからこそ、今、何を見て、何を考え、どこまで引き受けるのか?その一つ一つの選択こそが、この問題の行方だけでなく、私達が生きる社会そのものの輪郭をも変えて行くはずだ。

ドキュメンタリー映画『ホールディング・リアット』は現在、全国順次公開中。
(※1)「日本にいる私たちに何ができる?」ガザで活動した医師や記者の答えとはhttps://www.huffingtonpost.jp/entry/what-can-we-do-gaza_jp_657801bee4b0db9d2ab6ce6e(2026年3月19日)
(※2)写真で伝える封鎖下のガザ―虐殺前の「日常」https://d4p.world/33331/(2026年3月19日)
(※3)リーダーがAIに頼り、人に聞かなくなった代償https://forbesjapan.com/articles/detail/93887(2026年3月19日)
(※4)【検証】 ハマスはいかに10月7日のイスラエル攻撃を準備したのかhttps://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67553380(2026年3月19日)
(※5)【1分で分かる】パレスチナ問題を分かりやすく解説。ハマスとイスラエル対立の背景は?https://gooddo.jp/magazine/peace-justice/dispute/31728/(2026年3月19日)
(※6)左派運動と承認欲求──反逆する大衆とリベラル秩序の動揺、日本の現在https://note.com/alive_crab6069/n/n28519108b2cc(2026年3月19日)
(※7)拉致問題に苦しみ続ける横田夫妻41年間の戦い被害者家族たちの高齢化も進み、猶予はないhttps://toyokeizai.net/articles/-/273446?display=b(2026年3月20日)
(※8)採択された「強制失踪防止条約」の意義と課題https://blhrri.org/old/info/koza/koza_0149.htm(2026年3月20日)
(※9)「自分だったらと考えて」「悔しい思いは私で最後に」 拉致問題、被害家族らが訴えhttps://www.sankei.com/article/20260221-3ZCN2FCELNLM3B3C62ZGKODIME/(2026年3月20日)
(※10)Interview | Brandon and Lance Kramer, the Filmmakers Behind ‘Holding Liat’https://momentmag.com/interview-brandon-and-lance-kramer-holding-liat/?srsltid=AfmBOopDZCUdOZCKQ95zYyzuGizYkkMOm97PlDj–cTzG7Ix9hFagG-p(2026年3月20日)
(※11)【そもそも解説】北朝鮮なぜ拉致? どんな経緯? 日本の対応は?https://www.asahi.com/sp/articles/ASQ3T20VDQ3SUTIL016.html