映画『土手と夫婦と幽霊』渡邉高章監督、女優カイマミさんインタビュー
——本作とは少し、離れた質問かもしれませんが、製作、配給の「ザンパノシアター」とは、渡邉監督が代表者をされている会社だと思いますが、この「ザンパノ」とはフェリーニの『道』の主人公の「ザンパノ」から取られたネーミングでしょうか?その作品から影響を受けて、製作されているのでしょうか?
渡邉監督:そうですね。仰る通りです。
イーストウッドだったら「マルパソ」とか、塚本晋也監督だったら「海獣シアター」のような屋号を見て「かっこいいな、自分も付けたいな」と思って。会社ではないんですが、映画を作る時の屋号を考えた時に、自分が一番「これが映画だな」と感動した作品だったフェリーニの『道』が思い浮かびました。
フェリーニの作品はすべて好きですが、アンソニー・クイン演じる主人公の怪力男、ザンパノから頂戴しました。
——脚本を読まれた時のシナリオに対する、最初の印象をお聞かせて頂けますか?
カイマミさん:最初読んだ時は、今まで観てきた渡邉監督の作品とは一味違ったような作風で、びっくりしました。
でもただ、点と点が線になると言うか、仕上がった後に映画を観させて頂いた時に、やっぱり渡邉監督の作品だったんだって、その時の感情はすごく鮮明に覚えております。
——渡邉監督は、監督、脚本、撮影、録音、編集と、一人で五役を担当されておりますが、現場で監督と撮影をしながら、録音をするのは、どのように使い分けておられますか?
渡邉監督:実際、同時並行で進めなければいけないので、特に「使い分ける」ということはしておりません。
ただ、現場ではカメラを覗きながら、役者さんを配したり、段取りを組んだりしているので、基本的に、撮影監督をしながら、監督をしているというイメージです。
複数のポジションをこなすこと自体、初めではありませんので、自分の中では特別なことに挑んだつもりはありません。
ひとつ言えば、現場では、役者さんへの演出にも時間をかける必要があると思いますが、今まで一緒に映画を作ったことのある役者さんをキャスティングしましたので、勝手知る関係で、役者さんとのコミュニケーションに、それほど時間をかける必要はありませんでした。
お陰様で撮影は、効率度が上がったのではと思います。
——監督と撮影はニアリーイコールで、同時進行できるところがあると思います。一方で、録音はまた別だと思うんですが、こちらはどのように操作されておられますか?
渡邉監督:実際、インディーズの映画での善し悪しは、「音」で別れると思います。
撮影当初、「音」については「アフレコでもいいかな」って、思っていましたが、幸い、同録した音を使うことができました。
現場が私一人の時は、可動式スタンドを利用してマイクをさしたり、応援のスタッフさんがいる時は、まずマイクを持ってもらったりしていました。
——ご自身が演じられた役柄とシンクロするところは、ございますか?
カイマミさん:今回の役柄「女」でも、他の作品もそうですが、今まで辛い思いとか、すごく悲しい出来事を持つことは、どの人もそうだと思います。
その辛い過去や悲しい出来事にどうしても、引き摺られて生きている人も中にはおられると思いますが、それを乗り越えて一筋の光が見えた時に、そこに向かって歩いていけば、希望が持てると思うことが、私自身もシンクロするところでしたし、他の方も共感できるところではないかと思いました。
——作中において、「歩道橋」が印象的に登場してると思いますが、この物語における「歩道橋」に対する意図は、持たせておられますか?
渡邉監督:結果的には、土手で撮影すると「歩道橋」が入ってしまいます。
また、電車が走る姿も入ってしまいます。という前提が多摩川の撮影にはあるのですが、「歩道橋」は街と土手をつなぐ場所。
日常から非日常への渡しの存在と意識して撮影しました。
ですから、オープニングで星能豊さんが扮する小説家が「歩道橋」を渡る場面が『土手と夫婦と幽霊』という物語の入口になります。
——終盤にも「歩道橋」が登場しますね。
渡邉監督:ラストのシーンも「歩道橋」を映すことは決めておりました。
——「渡る」という行為そのものに、何か意味があるのですね。これだけでは無いですが、新しい「何か」を発見する意味合いも持たせているんですね。
渡邉監督:過去に『多摩川サンセット』という土手を舞台にした映画があります。
川を渡れない男たちの話ですが、その時は「歩道橋」ではなく「川」だったのです。
自分の中で、それらは「境界線」として、もしくは、「境界」をつなぐものとして、日常的もしくは非日常的な部分を表現しています。
——「一人の女性」というよりも、「群衆の中の女性」として演じられたというお話を読ませて頂きまして、「群衆の一人」というイメージに対して、どのように役柄にアプローチしていったか、ございますか?
]カイマミさん:そのままなんですけど、その役柄に掘り下げると言うよりかは、その周りの特に一番関わる「男」に対して相手がいるからこそ、こちら「女」側の存在が生きているという風に捉えていました。
周りとのちぐはぐなバランス感というのを思っていたところはありました。
——「ちぐはぐなバランス感」とは、どういう意味でしょうか?
カイマミさん:例えば、役柄の「女」でいうと喜びや哀しみ、怒りや楽しみという「喜怒哀楽」の面において、キレイに感情を表現するというよりも、情緒はどこにあるのかという、もっとゴツゴツした感じを違和感として映像に映ればいいなと思って、意識したところはあります。
渡邉監督:背景を説明すれば、今回の役柄はそれぞれ固有名詞はあるんですが、敢えて「男」と「女」という風に台本に設定しました。
クレジットにも名前は出しておりません。
固有名詞を与えて何か自分と離れたところに持って行かれたくなかったという思いもがあります。
一般的な「男」と「女」の象徴として表現したかったのですが、星能さんやカイマミさんはそれを汲んで演じてくれました。
その延長線でのお話が、先程のカイマミさんのお話に繋がっていると思います。
——本作では、「夫婦」がテーマになっていると思いますが、監督自身が考える「夫婦」とは、一体なんでしょうか?
渡邉監督:確かに、「夫婦」をテーマにしていて、僕自身も「夫婦」については、この作品の製作時に色々考えることがありました。
実際、自分の作品の内容や作風、作り方は、自分自身の生活圏に根ざしているところがあります。
『土手と夫婦と幽霊』は、元々は『土手と夫婦』という「夫婦」の再生を描いた短編映画の脚本から始まっています。
それが今回、中編作品として「幽霊」という名前が付きました。
少し固い話になってしまいますが、「夫婦」について今必要とされているのは、「多様性」だと思います。
それはもう夫婦に限らず、性別や仕事についてもそうですが、皆さんそれぞれ価値観や「思い」はおありかと思いますが、それをまずは受け入れるところから始めるしかないと思います。
受け入れなければ、ただただ対立するだけですよね。
社会はまだ変わっていないのが現実かと思いますが、本作を観ることで、少しでも考えるきっかけになれば、それはとても嬉しいことです。
——東京の舞台挨拶の時に、カイマミさんは本作の見どころを尋ねられ、「人間らしくもがいた先に」と仰られてますが、カイマミさん自身が思う「人間らしくもがいた先に」の「その先に」は、一体何があると思われますか?
カイマミさん:いや、それが今、もがいている途中なんですよね。
人がすごく情けなくても、カッコ悪くても、もがきながらも、前に進んでいくその姿が、私は大好きで、その中でも自分の弱い部分や情けない部分をさらけ出せる人間ほど、強い人もいないなと思います。
その先に何があるのか、楽しみでもあります。
——最後に、本作の魅力をそれぞれ教えて頂けないでしょうか?
渡邉監督:大作映画ではないんですが、作品世界を観て頂きたいと言うのが、第一にありますね。
そして、今回も是非出演されている役者さんの地元の劇場で観て頂きたいという思いがございます。
前回は主演の星能豊さんの地元、石川県は金沢シネモンドで上映させてもらい、今回遂に念願叶ってカイマミさんの地元、大阪で上映です。
また、音楽担当の押谷沙樹さんも大阪在住、出演者の松井美帆さんや舟見和利さんも大阪出身なので、ぜひ地元、大阪や広くは関西の方々に観ていたたければ嬉しいです。
皆さん素敵な役者さんですので、ぜひ観て欲しいです。
カイマミさん:ふたつございまして、ひとつ目は辛いことや悲しいことを手で握り閉めていたら、前に進めません。
でも、ゆっくりでもいいですので、拳を作り、頑なに閉じている手を広げていくと、手が開きますよね。
開いた時に、次の新しい光を掴めるという部分を映画から感じて頂きたいと思います。
そして、ふたつ目が、私の出身は大阪ですが、私が実際に演じているところを観たことがないという方が、居らっしゃると思います。
普段と「全然違うやん」みたいな。
この作品の世界観に入って頂き、私を観に来た方が私ではなく、この作品を観に来たと言う風に心が変化して頂き、最後に何か一つでも持って帰っていただければと思います。
映映画『土手と夫婦と幽霊』は、関西では3月12日(土)よりシネ・ヌーヴォにて上映開始。また、3月18日(金)より京都みなみ会館にて公開。順次、元町映画館にて公開予定。