映画『ミツバチと私』自身の命を大切に…

映画『ミツバチと私』自身の命を大切に…

本当の《自分》を探す映画『ミツバチと私』

©2023 GARIZA FILMS INICIA FILMS SIRIMIRI FILMS ESPECIES DE ABEJAS AIE

©2023 GARIZA FILMS INICIA FILMS
SIRIMIRI FILMS ESPECIES DE ABEJAS AIE

本作『ミツバチと私』の登場は、やっと時代が追い付いたと、ほんの少し安堵を与える存在だ。それでも近年、子ども自身が持つ性自認の悩みは、益々増加の一歩を辿る一方で、社会の中での受容率や認知、理解度は一向に上がらない。年々、無理解が増長し、差別が横行し、この社会に生きる性自認当事者たちの生きにくさが解決される事は、まず無いだろう。およそ25年前の90年代後半に公開された映画『ぼくのバラ色の人生』以降、今でも子どもの性自認を扱うのが、非常にナイーブで、センシティブな題材である事は間違いない。私自身、映画『ぼくのバラ色の人生』に登場する主人公のリュドビュク少年や本作『ミツバチと私』に登場する主人公のココ(アイトール少年)が抱える葛藤や願望、性別違和はよく理解できる。映画『怪物』のレビューでも、私自身の性的志向について少し触れているが、より幼い頃の私は、恐らく、リュドビュク少年やココのような子どもだったと記憶している。性自認に対して明確な戸惑いを抱いていた訳ではないが、幼少期は「女の子になりたい」という憧れを強く持っていて、それが顕著に現れたのが、9歳から13歳頃までだ。第二次性徴を迎えて、自身の正確な性を自覚するまでは、私は女の子がする髪留めを羨ましく思い、髪を長く伸ばしていたと記憶する。また、自身のルックスも色白で、外ではよく、女の子と間違われる事も頻繁にあったので、性的倒錯も混ざっていたのかもしれないと、自己分析する事もできる。だからこそ、今の性自認に悩む子どもたちの気持ちは、少しばかりでも理解はできる。それ以上に、彼らを取り巻く親兄弟や家族、近隣家族の戸惑いや受け入れようとする葛藤が、痛いほど胸に突き刺さる。それでも今の私は、今の私を誇りに思っている。私が現在、日夜思っている事は、男の子や女の子、ゲイやレズ(LGBTQ+)など、カテゴライズせず(されず)、一人の人間として自身を判断して欲しい。それをノンバイナリーなんて言う言葉で区分けされるが、この言葉は人が人を組み分ける時に分かりやすくする為の手段であって、生物学上や遺伝子学上の話ではなく、より人智を超えて、私達は一人の「人」であると、互いを尊重できる時代が訪れる事を強く願う。その未来が明確に訪れた時、リュドビュク少年やココ(アイトール少年)と言った子どもたちに救いが訪れるだろう。それが、私のほんのささやかな願いでもある。

©2023 GARIZA FILMS INICIA FILMS
SIRIMIRI FILMS ESPECIES DE ABEJAS AIE

本作『ミツバチと私』の作中で役割を最も果たしているのが、作品タイトルにもなっている「ミツバチ」達だ。彼らは、人間から見れば、残念ながら、害虫に過ぎない。家の軒先、体育館裏、車庫ガレージの天井など、隙あらば、好き勝手に巣を作る。人間社会を平気な顔して、我が物顔で闊歩し、危険を察知すれば得意の針で人間達に脅迫する。蜂は、人間にとって、どうしても脅威な存在で、危険視されがちな生き物だ。ただ危ないというだけで、否応無く嫌われている衛生害虫(※1)(特に、スズメバチ)。でも、蜂の本来の習性は、野菜や農作物に付着する害虫を捕獲する益虫(※2)とも呼ばれている。では、本作に登場するミツバチは、私達人間にとって、どのような存在なのだろうか?彼等は、蜂の部類の中でも比較的、大人しい種類と言われており、ミツバチ(※3)はハチミツや蜜蝋(みつろう)、ローヤルゼリーを供給する役割を持つ益虫である反面、害虫という側面もあるが、もしミツバチの巣を発見しても、何も行動しない事。相手に刺激を与えて、乱暴は振る舞いは避け、ただミツバチをソっとする事を心掛ける必要がある。ミツバチの特徴で最もよく挙げられるのが、社会性を持つ種類と言われており、働かない雄蜂は巣から追い出される。「働かざる者食うべからず」状態。だから、彼等は一つの社会、一つの組織の中、自身の個性を潰して、必死に働き、生きている。まるで、私達人間社会と瓜二つだ。私自身、この人間社会もミツバチの社会性のある世界で生きるのは、正直、息苦しく感じる。決められたレール、決められた役割、決められた仕事。この世界は、個人の考えや主義主張を押し殺して、生きなければいけない。何か集団の中で異なった相容れない負の要素があれば、大衆が一つの個性を、一つの個を押し潰そうとする。本作に登場するココもまた、自身の性別違和を言葉にしても、それは他者には届かない。社会の異質材料として、取り除かれようとする。右向け右の精神が、人々の価値観に植え付けられている限り、個性を尊重される時代は来ない。ミツバチの生態を知ったココが、自身を見つめ直す物語が本作の大筋だが、社会性を持ち、皆同じ行動をするミツバチとは対象的に、本作は子どもが自身の個性の可能性に気付く姿を描いている。他者から異質と煙たがられても、自身の思う本来の姿に自信を持つ事自体が大切だ。もう男か女か性別で判断する習慣は無くして、少しでも昔からある固定概念に縛られない社会を構築する事が重要なのではないだろうか?

©2023 GARIZA FILMS INICIA FILMS
SIRIMIRI FILMS ESPECIES DE ABEJAS AIE

また、冒頭で「時代がやっと追い付いた」という表現をしたが、子どもの性自認を扱った映画は、私が知る限りでは、過去に一本しか制作されていない(2011年に映画『トムボーイ』という女の子が、男の子になりたいというアイデンティティに悩まされる作品はあるが、一方で男の子が女の子に憧れる設定の作品は2作のみ)。それが、先述の90年代中期に制作された映画『ぼくのバラ色の人生』だ。その時から実に四半世紀ぶりとなる子どもの性自認を扱う映画が制作されたのは、非常に意義深い。過去には、大人のトランスジェンダーを取り扱った映画は、山ほど制作されて来た。たとえば、『プリシラ』『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』『トランスアメリカ』『わたしはロランス』『ミス・フランスになりたい』『ボーイズ・ドント・クライ』『オール・アバウト・マイ・マザー』『リリーのすべて』『ナチュラルウーマン』など、数知れず。大人のトランスジェンダー映画は頻繁に制作されている一方で、子どものトランスジェンダー映画が少ないのは、当事者を演じれる子役の演技力に左右されるから、作り手にとって、この題材は非常に難易度が高く、性自認に悩む子どもの当事者を自然体で演じる事ができる子役を見つけられない限り、企画は成立しないだろう。その点、本作のココ(アイトール少年)役のソフィア・オテロの自然な演技は、観るに値する。この子役が居なければ、本作は誕生しなかったであろう。今、自身の性自認に悩む子ども(特に、小学生を対象とした研究結果)は(※5)、高学年以上の小学生が自身の性への性別違和について、少なからず、何かしら自認していると言える。私が、9歳頃に自認していたとなると、当時は非常に早熟だったと言える。ただ、私のような人種の人間は、非常に少ない。ほとんどの子どもたちが、自身の性に関して何も気付かないまま小学生時代を過ごし、第二次性徴を迎える思春期でやっと、自身の性別に対して、一つの区切りを経験するのであると考えられる。それでも、早い段階で自身の性や性的志向に対して違和感を感じる子どもたちのほとんどは、誰にも相談できずに自身の殻に籠ってしまうのではないだろうか?私自身も、10代の頃は自身の心と周囲との隔たりの中で、非常に悩んだりもした。自身の内なる想いを押し殺して、通常の世界で、通常に生きなければいけないと思いながら、学生時代を過ごした経験もある。特に、高校時代の3年間は非常に苦しい時間を過ごしたと記憶している。学校側へのアンケート「「LGBTQ」の生徒・児童が「いる」と回答した割合は、小学校では10.9%だが、中学校では32.0%、高等学校31.1%、中高一貫教育校36.0%」(※6)という数字が出されているが、これは単なる氷山の一角に過ぎず、自身の性自認に悩みながら、誰にも相談できず、一人で悩んでいる生徒や児童はたくさんいるはずだ。まずは、この子どもたちが自身の悩みを打ち明けられる環境作りを、私達大人が率先して作り出し、生み出す事が必要だ。映画『ミツバチと私』は、そんな子どもたちに一筋の光を与える存在であると、信じたい。本作を制作したエスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督が、あるインタビューにて「子どものトランスジェンダーを取り扱う不確実性とその意義」についての質問に対して、こう答えている。

Solaguren:“Ik wil dat mensen na het zien van de film nadenken over hoe ze zelf naar trans personen kijken.”(※6)

ソラグレン監督:「この映画を観た後、自分たちがトランスジェンダーの人々をどのように見ているかについて考えてほしいと思います。」と、ジェンダーに対する社会の扱い方や人々の持つジェンダーへの意識を、本作を通して、再確認して欲しいと願っている。私達の目は、一体何を写していると言うのだろうか?何を見て、何を聞き、何を感じて、白か黒か判断できると言うのだろうか?表面の見えている部分だけで判断するのではなく、より広い視野、より理知的な想像力を働かせて、他者を受け入れる土壌を作る事が大切である。また、当事者たちは自身に対して、自信を持ち、前を向いて人生を生きる為の勇気を持って欲しい。この社会で生きる私達が皆、トランスジェンダーもそうでない人間も、お互いに対して、自然と歩み寄れる環境を作る事が急務であると言える。

©2023 GARIZA FILMS INICIA FILMS
SIRIMIRI FILMS ESPECIES DE ABEJAS AIE

最後に、本作『ミツバチと私』の原題「20.000 Especies De Abejas」を日本語に直訳すると「20,000種類のミツバチ」となる。この映画には各々の解釈ができると思うが、たとえば、「ミツバチの比喩に固執すると、これは一匹のミツバチについての映画ではなく、ミツバチの巣全体についての映画」と読み取り、受け取れるからこそ、様々な解釈できる。20,000種類のミツバチとあるが、ミツバチには20,000種類はいない。世界中にいるミツバチは、全部で8種類。日本では、2種類だけだ。「20,000種」これを、世界人口として捉えた時、世界には8億人の人類が地球上で暮らしている。そして、リュドビュク少年やココ(アイトール少年)のような子どもたちは、全世界の人口8億人の一人だ。たった「一人」は取るに足らない数字かもしれないが、世界に君はただ一人だ。そして、君は君だ。君は、世界で唯一無二の存在だ。ミツバチの一匹、世界で一人の子ども。大人達は、この一人の子どもをどう大切に守って行くのか、共に考えて欲しい。もしこの世にミツバチがいなくなった場合(※8)、生物学上の生態系が崩れてしまい、農作物が育たなくなり、物価高が増して行くと言われている。世界のミツバチは、私達人類にとって、無くてはならない存在だ。それは、この地球上にいるたった一人の「君」もまた、人々の大切な存在であると気付いて欲しい。自身の命を大切に…。

©2023 GARIZA FILMS INICIA FILMS SIRIMIRI FILMS ESPECIES DE ABEJAS AIE

映画『ミツバチと私』は現在、全国の劇場にて公開中。

(※1)衛生害虫に関することhttps://www.hokeniryo.metro.tokyo.lg.jp/tamakodaira/kankyou/nezumi/eiseigaityu.html(2024年1月11日)

(※2)蜂を知ろうhttps://www.city.matsudo.chiba.jp/kurashi/suguyaru/hachinosu.html#:~:text=%E8%9C%82%E3%81%AF%E5%AE%B3%E8%99%AB%E3%82%92%E6%8D%95%E7%8D%B2,%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E3%81%8A%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82(2024年1月11日)

(※3)ミツバチは基本的に益虫https://meetsmore.com/services/honeycomb-removal/media/97639(2024年1月11日)

(※4)【意外と知らない】ミツバチの生態と一生、不思議な習性を徹底解説!https://minhachi.jp/sp/knowledge/mitsubachi-ecology.html(2024年1月11日)

(※5)小学生白書Web版 学研教育総合研究所 「小学生の日常生活・学習に関する調査」高学年では約半数がLGBTQを認知https://www.gakken.jp/kyouikusouken/whitepaper/201908/chapter9/03.html(2024年1月11日)

(※6)約6割の学校「LGBTQ」の服装へ配慮を導入・検討中https://s.resemom.jp/article/2021/10/27/64122.html(2024年1月11日)

(※7)Estibaliz Urresola Solaguren over 20.000 especies de abejas’We infantiliseren te vaak de blik van een kind’https://filmkrant.nl/interview/estibaliz-urresola-solaguren-over-20-000-especies-de-abejas/(2024年1月11日)

(※8)ミツバチがいなくなると世界はこうなるhttps://www.businessinsider.jp/post-196538(2024年1月11日)