女たちがついた“嘘”から始まる物語。映画『遠い山なみの光』


人は、トラウマを隠して生きている。人は、秘密を隠して生きている。嘘で塗り固めた真実を胸の内にしまい込み、恰も、架空の記憶が実際に起きた出来事として置き換えられても、人はその記憶がすべて真実だと錯覚する。一度、塞がった心の傷が再度、傷創しないように、いくつもの嘘で傷口を覆い隠す。嘘は人を欺くだけの悪い意味として捉えるのではなく、人が過去に負った心の傷を庇い癒すものでもある。嘘が時に人を惑わせ、時に人を欺かせる一方、必ず人を安心させ、必ず人を励ます力を持つ。誰もが生きている限り、誰にも言えない秘密を抱えるものだ。人生の長い年月の間、当事者本人を見えないヴェールで優しく包み隠し、守り続ける。戦争という悲劇に翻弄された人々は、世界中どこにでもいる。あの時代のあの日、あの時を生きた当時の人々は、何を想って生きていたのだろうか?遠い山なみの、そのまた向こうには、何があると言うのだろうか?遠くの山に光り輝く光とは、誰の何を照らす存在なのだろうか?映画『遠い山なみの光』は、作家カズオ・イシグロが自身の出生地・長崎を舞台に執筆した長編小説デビュー作を映画化したヒューマンミステリー。嘘は、時に人を庇い、人を慰め、人を癒す力を持つ。

1945年8月9日、午前11時2分に長崎に投下された原子爆弾は、同年3日前の8月6日午前8時15分に広島に投下された原子爆弾と同並列で語られる事が多いが、広島の被爆の話題に影を潜め、その全貌は見えて来ない。原爆投下直後、投下後の長崎がどのような運命を辿ったのか。その当時を長崎で生きた人々は、どんな行き方をして来たのか、そのほとんどを語られる事はない。原爆は、目の前にある世界のすべてを破壊する力を持つ増大な存在だ。建物や公園、電車といった物理的なものだけでなく、人の人生、思い出、未来といった人間にとって唯一無二の貴重な財産までも奪い去る。「被爆後の長崎の日常 浦上の暮らし」(※1)では、ある女性の終戦直後から1950年代後半までの暮らしを思い出の写真とインタビューで構成されたその後を紹介している。概要には、「原爆投下後から爆心地周辺の長崎市浦上エリアの坂本町で暮らしたAさんのアルバムに残された写真とインタビューをもとに、被爆直後から1950年代後半までの暮らしの様子をまとめました。焼け野原になった被爆地で、子どもたちはどんな日常を過ごしたのか、Aさんの思い出と共に振り返ります。」とあるように、戦後一人の女性の人生を追っているが、この物語の主人公の女性と同じように、多くの女性や少女達が、終戦の日本で翻弄されながら生きていた。私達は、原爆投下直後の長崎の惨状は知っていても、その後、どんな人生を歩んだかは誰も知らない。本作を通して、戦後長崎において、一人の女性がどんな人生を生きたかを知る機会になるだろう。

秘密と嘘は、似て非なるものだ。人は、秘密を持つと、それを隠そうと嘘を付いてしまう。なぜ、人は秘密を持ち、嘘をついてしまうのか?人が秘密を抱える心理には、秘密の内容によっては罪悪感や孤独感がマイナスなイメージを生じる一方で、信頼できる相手との共有では親密さを深める効果もあると言われる。物語の女性の心情は、恐らく、前者に近いだろう。秘密を信頼できる人と共有したりすることで、その心理的な負担を軽減することも可能だ。秘密を抱えることによる心理的影響には、ネガティブな感情の発生があり、罪悪感、後悔、孤独感など、ネガティブな感情を引き起こす。羞恥心と侵入思考には、秘密を隠すこと自体が羞恥心を誘発し、秘密に関するネガティブな考えが繰り返し頭に浮かぶ「侵入思考」を招く事がある。精神的・身体的苦痛には、秘密を隠し続ける事、また精神的な苦痛や身体の不調に繋がり可能性がある。関係性の損害では、親しい人々との間に壁を作り、関係を損なう原因となる事がある。秘密がもたらすポジティブな側面には、絆の深化、ポジティブなエネルギーがあげられる。特定の種類の秘密、特に個人的な成長や目標に関わるポジティブな内容の秘密は、個人のエネルギーや活力を高めることができる。秘密に対する対処法には、他者との適切な共有と自身の中での再解釈が自身の秘密と向き合う要素となる。また、秘密をすべて避けるのではなく、その内容に応じて適切に管理する事が重要であり、秘密を持つことは個人の心理に複雑な影響を与える。その一方で、秘密の内容や共有の仕方によっては、個人を成長させ、人間関係を深める力も持っている(※2)。ではなぜ、人は嘘をついてしまうのか?その深層心理なるものは、どこから来るのか?心理学の側面から、なぜ人が嘘を言う生き物かを探って見たい。具体的に、人が嘘をつく時は意図的に誤った情報を流し、他者の行動を誤導(ミスリード)する事によって、自らが利益を得ようとする行為(※3)。人がうそをつく理由には、自身の面目を保ち、他者を傷つけるのを避けたり、周囲を感心させたり、責任を逃れ、悪行を隠したり、社会的な潤滑剤として衝突を防いだり、仕事をサボったりなど、多くの理由がある。では、なぜ人は嘘をつきたがる生き物なのか?嘘には、相手を傷つけないために嘘をつく「ホワイトな嘘」。悪質な「ブラックな嘘」。その中間にある「グレーな嘘」。あるいは、取るに足らない「ちょっとした嘘」など、様々な場面で使い分ける嘘がある。もう一つ挙げるとするから、「自身を守る嘘」もあるだろう。「人はなぜ「嘘をつく」のか? 嘘の種類と心理的影響を研究結果から解説」(※4)の文末では、人が嘘をつく事について、こう記されている。「嘘をつくという行為は、人のウェルビーイングに少なからぬ影響を及ぼす。研究によると、真実を隠す傾向のある人は、自分のついた嘘に心を奪われやすく、より強いネガティブな感情を抱きがちであり、人生や人間関係の満足度が低いことが明らかになっている。」とある。なぜ、人は嘘をつくのかは、永遠の課題だ。ただ、自身の過去を塗り替え、他人を傷付けない嘘は美しい嘘なのかもしれない。映画『遠い山なみの光』の原作者カズオ・イシグロ氏は、あるインタビューにて本作における戦争と長崎について、こう話す。

イシグロ氏:「適切な時期だと思います。日本だけでなく世界的に節目となる年で、我々は世界が混乱に陥っていた時代があったことを思い出さなければならない。特に若い世代の人たち、戦争が終わって何年も経ってから生まれた日本の人々はそう。今の日本は豊かさだけでなく、安定性を持った偉大な自由民主主義国家のひとつです。欧米諸国が経験してきたような不安定さは経験していないかもしれない。そんな中、この映画は、その平和な日常が当たり前のものではないことを思い出させてくれる。けれど、ほんの数世代前は違いました。当時の日本はとても暗い時代で、恐ろしい世界大戦も経験しました。だから今こそ思い出すべきで、こんなふうにそれぞれの世代が、私たちは幸運なのだと忘れないことが大切だと思う。同時にこの平和と民主主義を守り続けなくてはいけない。そんな思いもあって、この映画がこの節目を過ぎてからも、ずっと残っていくことを願っています。そして、何とかこの40年以上残ってきた僕が書いた原作のように、石川さんの映画も何十年も続いて、普遍的で時代を超えた作品として受け入れられると期待しています。なぜなら本作は最悪の状態からどのように人々が立ち直るかを描いているからです。」(※5)と話す。このインタビューでは、戦争と長崎の記憶について答えているが、作品そのものは戦争や反戦の物語ではない。ストーリーの主題は、自身が抱える秘密と嘘に翻弄される一人の女性の人生を描く。なぜ、人は秘密を抱え、嘘でそれを隠そうとするのか?それは、人としての生き物の本能かもしれないが、少しでも、嘘がその人の人生をより良いものにするのであれば、それは嘘でも何でもないだろう。

最後に、映画『遠い山なみの光』は、作家カズオ・イシグロが自身の出生地・長崎を舞台に執筆した長編小説デビュー作を映画化したヒューマンミステリーだが、単なる推理物語ではなく、物語の奥にあるのは一人の女性の人生の省察の深み。過去の出来事に縛られ、翻弄され、引き摺りながら、今を生きる人は大勢いる。タイトルの「遠い山なみの光」の「光」とは何か?それは、山間の先にある小さな小さな光。それは物理的な光の発光ではなく、過去に束縛されて生きる人々にとっての未来の希望であり、未来への期待そのものだ。どんな人も、その光に向かって今を生きて欲しいと願うばかりだ。

映画『遠い山なみの光』は現在、全国の劇場にて公開中。
(※1)被爆後の長崎の日常 浦上の暮らしhttps://dl-archive.jp/textbooks/nagasaki03/#textbooks-h2-title2(2025年10月2日)
(※2)秘密が心に与える影響:深まる絆と増す重圧https://www.business-research-lab.com/240625/#:~:text=%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%82%92%E5%85%B1%E6%9C%89%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86,%E3%82%92%E4%BB%98%E3%81%91%E3%82%8B%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82(2025年10月2日)
(※3)「うそ」の心理学https://www.terada-medical.com/column/lie_psychology/#:~:text=%E5%85%B7%E4%BD%93%E7%9A%84%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%80%81%E6%84%8F%E5%9B%B3,%E8%A1%8C%E5%8B%95%E3%82%82%E5%90%AB%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82(2025年10月2日)
(※4)人はなぜ「嘘をつく」のか? 嘘の種類と心理的影響を研究結果から解説https://forbesjapan.com/articles/detail/69041/page2(2025年10月2日)
(※5)映画『遠い山なみの光』原作者カズオ・イシグロのインタビュー映像が到着。戦争と長崎について語るhttps://www.cinra.net/article/202508-whn-yamanami_edteam(2025年10月2日)