「これは、人間たちへの忠告だ」映画『ネファリアス』


悪魔は、この世に存在するのか?神と同じように、悪は目に見えない存在だ。誰もその存在を見た訳でも、存在に触れた訳でもなく、不可視の存在として古くから語られて来た。私達は日々、その悪魔の存在と対峙しながら生きている。日常に潜む悪とは、一体なんであろうか?常日頃、神の存在も悪の存在も否定する否定派と両者の存在を肯定する肯定派の狭間に神と悪の存在が行き来する。あなたにとっての神という存在は?あなたにとっての悪という存在は?神様と悪魔、善と悪が二項対立する世界の中で、私達は肯定と否定を繰り返しながら、目の前にある存在を認め合って行く。どこに神が内包するのか、どこに悪が潜んでいるのか、誰も分からない。神と悪の存在に関して、私達はどう捉えれば良いのか、その考え方が私達人間の存在をどう導くのか?3つの項目を通して、悪が私達人間の存在を証明する。①の「悪は神の存在を証明する」②の「悪は相対的な概念」そして、最も重要な事が③の「悪は人間を成長させる」(※1)だ。悪の存在は、人間を試練にさらし、成長させる機会を与えるという考え方があり、この物語に登場する死刑囚となった連続殺人犯の中にある悪魔と対峙する精神科医は、悪の試練に晒され、人間としても、精神科医としても試されている。そして、この医師動揺に、私達も日夜、あらゆる出来事を通しで試されている。悪は、常に日常の中に存在する。映画『ネファリアス』は、刑務所で繰り広げられる殺人鬼と精神科医の心理戦を緊迫感たっぷりに描いたホラーサスペンス。この連続殺人犯の中に眠るのは悪魔か、それとも解離性同一性障害(旧多重人格障害)や境界性パーソナリティ障害の類いなのか?この問題を見分ける事こそが、精神科医に課せられた試練なのかもしれない。

この世に存在するであろう悪の存在について、私達は深く考えた事はないだろう。悪魔の数は、文献によって考え方は様々であり、特定の数を定義する事は難しいと言われる。しかし、有名な文献「ゴエティア」では、72の悪魔が記載されている(※2)。バエル、アガレス、ウァサゴ、ガミジン、マルバス、ウァレフォル、アモン、バルバトス、パイモン、ブエルなど、上位10体の悪魔の名を羅列したが、これに残り62体の悪魔の名が連なっている。それぞれに役割が割り振りられており、それぞれに悪の作用が求められている。ここで顕在化したのは、私達が思っている以上に多くの悪魔が存在し、日々私達の日常のどこかでマイナスな作用を引き起こさせているのだろう。たとえば、犯罪の類で悪い事をした場合、私達はよく「魔が差した」という使いやすい言葉を使うが、これも一種の悪魔が人間の心の中に宿った瞬間と言っても良いだろう。それであるなら、誰の元にも「魔が差した」瞬間が常に訪れていないだろうか?何気ない嘘をついた時、赤信号を無視してしまった時、免許証を所持せずに車を運転してしまった時。私達は、常に何かしらの小さな小さな罪を犯しているが、その罪を犯す瞬間、私達の心の中に悪魔が宿る。キリスト教には「7つの大罪」として「傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・大食・色欲」の大罪が存在する一方、サタニズムにおける罪は9つ(※3)ある。それが、「愚鈍、虚勢、独我論、自己欺瞞、群衆の同調、物事を見通す力の欠如、過去の正統の忘却、非生産的なプライド、美意識の欠如」のサタニズムにおける代表的な大罪を犯す瞬間、その罪を犯す私達の心の隙間に悪魔は入り込む。ただ、この9つの大罪に限らず、私達一人一人の心の中に常に悪魔は存在する。72体の悪魔より、9つの大罪より多い約82億3200万人分(国連の推計による2025年の地球上の人口)の悪魔が人の中に宿っているかもしれない。

悪魔が人の中に存在する事は、まず有り得ないだろう。そもそも、神も悪も存在せず、人々が都合よく創造した架空のシナリオだ。キリスト教やイエス・キリストも存在しない。人々が妄想や欲求から生み出した単なる視認できない抽象的な産物に過ぎない。ではもし、本作『ネファリアス』に登場する死刑囚の状態を考えれば、悪魔に取り憑かれた人物という見方より解離性同一性障害(旧多重人格障害)や境界性パーソナリティ障害に罹患した人物と捉える事もできるだろう。解離性同一性障害とは、改名される以前は多重人格障害と呼ばれ、解離性同一性障害(DID)と悪魔憑きとは、一見、関連があるように感じるが、医学的には全く異なる概念として捉えられている。解離性同一性障害(※4)とは、複数の人格が入れ替わる精神疾患であり、一方、悪魔憑きは超自然的な存在に憑依された状態を指す、宗教的・文化的な概念を指す。だから、解離性同一性障害と悪魔付きはまったくの別物であるが、その違いを区別するのは非常に難しい事かもしれない。また境界性パーソナリティ障害(※5)とは、特徴的な考えや感情を持ち、ものの捉え方や行動の偏りが大きいため人間関係を円滑に築く事が困難になる病気。時に、衝動的に自傷行為をしてしまう事がある。刑務所の中で死刑を待つ死刑囚の男は、もしかしたら、この境界性パーソナリティ障害を患っているのかもしれない。自身を悪魔と名乗る一方で、境界性パーソナリティ障害のような症状を持っている以上、その真相を掴まなければならない。精神科医の男が、面会を任された事が容易に想像できるが、この医師の男も悪魔から試練を与えられ、医者として人間として、試されている。死刑囚の精神の中に悪魔がいるのか、また別の人格が内在するのか、またはすべてが男の演技なのか分からない。この曖昧な境界線を明確なものにするため、精神科医が派遣された。医者として試練に立たされた男が、最後に何を見るのか?映画『ネファリアス』を制作したケイリー・ソロモン、チャック・コンツェルマンの両監督は、あるインタビューにて本作の本質について、こう話している。

ソロモンとコンツェルマン両監督:「この映画には悪魔的な要素もサタン的な要素もありません。私たちはそういうことはしていません。私たちは、あなたを裏切るつもりはありません。私たちの木の実を見てください。私たちが観客に伝えたい事は、C.S.ルイスの『悪魔の手紙』と『羊たちの沈黙』が融合した作品です。私たちは、観客を裏切るつもりはありません。忠実な信者を裏切るつもりもありません。」

ソロモン監督:「キリスト教徒は、隠れることも、キリスト教徒のゲットーに閉じこもる事もできないと悟らなければならないと思います。私たちは、世界に出て行かなければなりません。私たちは、これに対抗する訓練をし、闘わなければなりません。」(※6)と話す。神でもサタンでもないと話す監督の真意は、一体どこにあるというのだろうか?悪魔に取り憑かれたような男の姿を描きながら、作品の本質は男の姿ではないと説く。では、どこにこの作品の本質があるのだろうか?それは、もしかしたら、私達の心の中にあるのだろうか?両監督が物語を通して描いているのは、人間が持つドス黒い心の闇だ。解離性同一性障害や境界性パーソナリティ障害に罹患しているしていないに関わらず、一度、私達の心の中に潜む悪魔とは何かを考える必要があるのかもしれない。
最後に、映画『ネファリアス』は、刑務所で繰り広げられる殺人鬼と精神科医の心理戦を緊迫感たっぷりに描いたホラーサスペンスだが、ただの悪魔を題材にし、私達を怖がらせている訳ではない。私達は、この作品に登場する見えない悪魔に試されている。「お前の中に眠る悪とちゃんと向き合っているのか?」と、悪魔が私達の耳元で囁き掛けているようだ。私達は日夜、自身の中に眠る悪と対峙している。如何なる時でも、私達は私達自身の悪と共存している。この映画が、私達に問うている悪とは、私達自身であるという事。

映画『ネファリアス』は現在、公開中。
(※1)神がいるなら、なぜ悪があるのかhttps://www.christ-hour.com/archive/detail.php?id=722#:~:text=%E7%A5%9E%E6%A7%98%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AE%E4%BA%BA,%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82(2025年7月2日)
(※2)数字の「6」に関わる各種の話題-時間の単位の関係は「6」の倍数となっており、自然現象等でも多く観測される-https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=73875?site=nli(2025年7月2日)
(※3)サタニズム入門:自由を生きるための“悪魔”の教えhttps://www.tryeting.jp/column/9721/(2025年7月4日)
(※5)境界性人格障害(境界性パーソナリティ障害)についてhttps://1mental-clinic.com/border/(2025年7月4日)
(※6)Directors of NEFARIOUS Call Christians to Stand for Truthhttps://www.movieguide.org/news-articles/directors-of-nefarious-call-christians-to-stand-for-truth.html(2025年7月5日)