映画と映画館への憬れに満ちた映画『映画を愛する君へ』
映画が誕生してから、早100年以上が経過した。この間、有名な監督、有名な作品、人気の映画、ヒット作、怪作、実験映画など、多くの映画監督が登場し、多種多様な映像作品が私達の人生を彩り、私達の心を豊かにしてくれた。映画黎明期におけるリュミエール兄弟、グリフィス、エイゼンシュテイン、メリエスなど、100年経った今でも語り継がれる映画史における最重要人物達が、当時の映画文化の扉を開き、種を蒔いた。今では、アメリカを代表する映画の都ハリウッドが、全世界の映画文化、エンタメ文化を牽引する役割を果たし、コッポラ、スピルバーグ、ルーカス、キャメロン、キューブリックなど、60年代まで現代までにおける多くの著名な映画監督が誕生した。日本では、牧野省三率いるマキノ組が、100年前の日本映画の草創期を支え、多くの人気作、人気キャラ、映画監督を生み出し、それらの技術が代々引き継がれ、今の日本映画の文化を作り、継承されている。そんな日本の映画文化は今、危機的状況に瀕している。サブスク配信の波が押し寄せ、ミニシアター文化の終焉の光が見え隠れし、若者世代を中心に映画館離れが深刻化している。それでも、私はこの映画に登場する少年のような子ども達を一人でも作る事が、日本の未来を作る事に直結すると、心から強く信じている。映画『映画を愛する君へ』は、フランスの名匠アルノー・デプレシャンが自身の映画人生を投影しながら、映画の魅力を観客の視点から語り尽くした自伝的シネマエッセイだ。人の数だけ人生があるように、人の数だけ映画への想い出がたくさんある。
映画を好んでたくさん観る人も、少ししか観てないという人も含め、人にはそれぞれ、映画に対して幼少期の想い出、影響を受けた作品、駄作だと感じた映画、愛好して観るジャンル、そうでは無いジャンルがある。また、各々に強い拘りを持って、映画を鑑賞する方もおられるだろう。鑑賞する時の座席は、一番前か2列目、もしくは数えて数列目の端っこか、真ん中を陣取りたい。一番後ろから劇場全体を見下ろしながら、作品に没頭したい人。ポップコーンにドリンクを持って入りたい派か、静かにひっそり観たい派。パンフレットは買うか、買わないか。DVDは?配信は?人によって、映画鑑賞のスタイルは千差万別ある。私自身、ほとんど拘りなく、満遍なく作品に触れているが、近頃の拘りは作品の作り手達の「芯(真、心、信)」の部分が込められているかどうかを、映画を観ただけでは分からない作品の奥の部分に集中しながら想いを巡らす。そうして、人々は自身にとって思い思いの映画の鑑賞方法で文化芸術を楽しむ。映画という文化は、私達を気付きと学び、娯楽として楽しむ心、時にアートや社会性など、様々な分野から精神を成長させてくれる魔法の玉手箱のようだ。たった100年の間に世界のあらゆる国で制作されるようになった映画文化は、これから先の未来にも絶やしてはいけない素敵な分野だ。私達は今この瞬間、この文化を次の世代に引き渡す活動をする必要がある。
今、映画文化は著しい限りに衰退の一途を辿っている。社会のIT化の波、サブスクサービスの台頭、業界内におけるデジタル化推進による劇場の閉館、コロナ禍での運営面における体力的限界、様々な負の要因の連鎖が業界に圧迫をかける。映画が、娯楽の王様だったのは一昔前の遠く儚い想い出だ。それはもう、もしかしたら、元には戻らず、取り返せない記憶かもしれない。それでも、未来への望みとして一抹の希望を、私達は抱いている。もしかしたら、どこか何かしらのタイミングで、また映画文化への理解が広がり、花開く時代が訪れる未来を想像してしまう。私が幼い頃に経験した映画への驚きや感動、楽しいと感じた感情を次の時代に生きる子ども達にも感じて欲しい。携帯電話のような小さな画面より映画という大きなスクリーンでしか味わえない感動は、この先の未来でも変わらないはずだ。これからの日本の映画文化を守るにはまず、「人材養成、製作、配給・興行、保存・普及の4つの柱が必要となり、これを実現するには、日本映画を再生させ国も民間も互いに一緒になって何か取り組みをして行くべきではないのか。」(※1)と文化庁は、力強く力説している。ただ、どの企業もどの民間も同じ方向を向いて取り組むには、この国では非常に指南な事だ。実際、映画文化の土壌が整っているように見え、まだまだどの地域にも私が考える土壌は存在しない。まずは、誰もが映画の文化を楽しめる環境を整うところ始めなければ、その時が来れば、本当にこの文化は消滅してしまうだろう。映画『映画を愛する君へ』を制作したアルノー・デプレシャン監督は、あるインタビューにて本作が「誰のためのものか?」についてこう話している。
デプレシャン監督:「これは依頼作品であると同時に、極めて個人的な映画でもあります。これがこの映画のパラドックスだ。 「なぜ今この映画を撮っているのですか?」とよく聞かれます。明らかにそれは私の年齢と関係があります。私はこれらすべてを受け取り、今度はそれを人々に与えたいと思っています。私は若い人たちのことを考えていますが、それよりも若くない人たちのことも考えています。年齢は関係ありません。観客の年齢は不明です。彼らは部屋に入ってきますが、匿名です。映画から受けた驚きに何かお返ししたいと思いました。時には厳粛な驚き。たとえば、クロード・ランズマンによるショアに関する章などです。映画が私の人生にもたらしたものすべてを、観客に還元したいと思いました。映画が私に与えてくれたもの、それが私にどんな驚きを与えてくれたかを伝えたい。映画を愛する監督ではない監督もいることは知っていますが、彼らは私が限りなく尊敬する監督です。しかし、もし私が映画観客でなかったら、映画を作ることは決してなかったでしょう。私が話したかったのは、マーティン・スコセッシがイタリア映画やアメリカ映画に捧げた素晴らしいトリビュート映画のような、偉大な芸術家や偉大なクリエイターについてではなく、観客についてでした。私はマスターについて話したくなかった。私たち、暗い部屋の人々について話したかったのです。映画館で何をしているのかと聞かれるたびに、テレビの前で何をしていますか?これが私たちの仕事です。そして、私たちがやっていることは刺激的なことなのです。私たちは受動的に見えます。私たちはスクリーンの前で決して受動的ではありません。私たちは非常に活発に活動しています。私は観客のこの活動を描写したかったのです。」(※2)と話す。改めて、この作品が誰の、何のための目的で作られた映画なのかについて、私達は共に考えたい。映画監督でもあり、いち映画ファンでもあるアルノー・デプレシャン自身から自分自身と今の観客に贈ったプレンゼント。そこには、この素晴らしい映画文化を絶やさずに、どう次の世代に引き継いで行くのか問うているようだ。
最後に、映画『映画を愛する君へ』は、フランスの名匠アルノー・デプレシャンが自身の映画人生を投影しながら、映画の魅力を観客の視点から語り尽くした自伝的シネマエッセイだが、再度、この作品のタイトル「映画を愛する君へ」が持つ意味を。この「君」に対して、私達は私達自身と思い込んでいないだろうか?業界で活躍する著名人でさえ、「この映画は、かつての私に宛てた作品だ」と近い言い方はするが、それは前提条件として、この「君」が持つ意味を問い直して欲しい。私は、この作品に対してタイトルの中にある「君」は、私達自身を含めた、まだ見ぬ未来の映画ファンに向けた文言では無いだろうか?私達大人は、このまだ見ぬ「君」をこれからの時代、作って行かなければならない。それが、業界全体の課題であり、現在置かれている現状への突破口になる。私達は、この映画の物語に登場した映画好きのポール少年と瓜二つの子どもを育んで行く必要性があるだろう。映画を愛する未来の君に贈る。
映画『映画を愛する君へ』は現在、全国の劇場にて公開中。
(※2)« Spectateurs ! », l’hommage du Roubaisien Arnaud Desplechin au 7e arthttps://www.lillelanuit.com/le-mag/interviews/spectateurs-hommage-roubaisien-arnaud-desplechin-7e-art/#:~:text=Le%20nouveau%20film%20d’Arnaud,Arnaud%20Desplechin%2C%20originaire%20de%20Roubaix.(2025年2月3日)