映画『逃げた女』の作品概要
文・構成 スズキ トモヤ 協力 堤 健介
韓国映画界で異彩を放つ映像作家ホン・サンスの最新作『逃げた女』は、現代に生きる女性たちに贈る極上の人生賛歌だ。監督は、“韓国のゴダール”、“エリック・ロメールの弟子”と言う異名を持つ韓国映画の異端児。
またの名を“韓国の成瀬巳喜男”と呼びたくなる女性を主体にした作風は、彼の真骨頂だ。24作目となる本作は、第70回ベルリン国際映画祭で初の銀熊賞(監督賞)を受賞するなど、国内外からの注目度が高い作品だ。
映画『逃げた女』のあらすじ
結婚生活5年目を迎え、何不自由なく生活を送る女性ガミ(キム・ミニ)は、愛する相手とは一生添い遂げるようにと言う旦那の考えに感化された結婚生活を送っている。
旦那の出張中に、馴染みのある知人に会いに出かける。女性同士で同性婚した先輩。独身生活を謳歌する先輩。そして、偶然出会った学生時代の同級生の3組。同じ女性でも、まったく違う人生を歩み、まったく違う価値観を持った彼女たちから、ガミは自分自身に向き合おうとする。
映画『逃げた女』の感想と評価
韓国を代表する監督ホン・サンスの映画の作り方は、とても特徴的だ。今回初めて、彼の作品に触れてみて、感じたことは作家性の強い監督ということ。どの作品も設定や撮影方法が、似ているという点にも注目できる。物語はすべて女性主体の作品で、純粋に恋愛をしているか、もしくは不倫をしている人物が多く描かれる。
さらに、映像関係の世界で活躍している人物を描くことが多く、彼の真価とでも言うべき“長回し”にも、注目したいところ。特に、長回しの途中で唐突なズーム(寄り)を行う演出の意図は、客観的な視点から主観的な視点への転換か、あるいは登場人物たちの心情を表現しているのだろう。
今までのホン・サンスなら、映画関係者の女優や学生が、監督とだったり、教授とだったり、何かしら男女の良からぬ関係を描くことが多くあった。その一方で、本作『逃げた女』では、“結婚”を題材に少し踏み込んだ大人の恋愛作品を作り上げた 。また、主人公の女性も映画関係者から一歩身を引いて、一般の女性と言う人物像でキャラクターを構築している。過去作と比べてみても、少し趣向を変えた作風が、本作の見どころだ。
なぜ、ホン・サンス監督が、今までの作品とは違った設定で本作にアプローチしたのか、とても気になるところだ。色々考えを巡らせてみた結果、道標となるひとつの作品が、頭をよぎった。その作品は、昨年日本で公開された『82年生まれ、キム・ジヨン』だ。
この作品では、ある女性が妻として母として無理をした結果、家庭内の苦悩で心の病を発病し、完治後に女性として社会復帰しようとするまでを丁寧に描写したヒューマン・ドラマだ。2011年に韓国国内でベストセラーとなった原作は、当時の韓国人たちの関心を一手に集めた題材だったのだろう。ある女性が、母でもなく妻でもなく、一人の人間として、どう社会と向き合っていくのかが、この作品の最大のテーマなのだ。
新作『逃げた女』では、恋愛や男女の不適切な関係を扱っている過去作とは違い“結婚”と言うテーマを作品の題材に選んでいる。この2つの作品は、まったく環境が異なる女性が主人公であることに目を向けてみたい。
前者『82年生まれ、キム・ジヨン』では、中流階級の家庭で生活を送る女性が主人公の反面、後者『逃げた女』では、上流階級で何不自由なく幸せな日々を送る女性が主役だ。この環境の異なる二人の女性たちに共通している点は、まさに“婚姻”と言う背景だ。家庭という閉鎖された空間で、彼女たちは何を思い、何を感じていたのだろうか?『82年生まれ~』では、窮屈な環境下で精神を崩していく女性の姿を描く一方で、『逃げた女』では悠々自適な生活をしている女性の姿を描いている。ホン・サンス監督は、主人公たちが繰り広げる会話劇の中で、男女の結婚観の苦悩を表現している。
10分以上の長回しは少し退屈さを覚え、睡眠作用を引き起こす撮影技法ではあるが、その手法から生み出される登場人物たちの対話は、紛れもなく男女の“結婚生活”について言及している。第三者の視点で、他人の会話を客観的に見させられる時間は、多少苦痛を感じる瞬間かも知れない。けど、この会話劇こそが本作を鑑賞する上で最も重要な要素だ。
作品の冒頭にて、主人公と同性カップルの先輩夫婦が、食卓を囲んで会話する長いシーンがある。ここの場面では、鶏のオスとメスの関係や近所の若い女性の家庭環境に関して対話している。その内容から読解できるのは、結婚生活や夫婦問題について触れている点だ。
2番目に登場する女性は、独身貴族を謳歌しながらも、生涯の伴侶となる素敵な男性の存在について話す。そして、3番目に登場する女性は、あるカフェで偶然(この偶然と言う設定が、物語にスパイスを効かせている)にも再会を果たす昔の友人。二人は過去に何かしら深い関係があったような間柄として描かれている。
作中にて、登場する3組の女性たちは、同じ女性でありながら、それぞれがまったく違う結婚観や人生観を持ち合わせている。ホン・サンス監督は、物語に登場する女性たちにそれぞれの人生の価値観を設定することで、結婚という二文字に重みを与えている。そして、本作の主人公の女性は、先輩や旧友と再会し、5年間過ごした結婚生活を静かに振り返るのだった。
映画『逃げた女』のまとめ
ホン・サンス監督と言えば、男女の恋愛や大人の複雑な恋沙汰など、他人が簡単に踏み込めない恋愛事情を巧みな語り口で描いてきた韓国の鬼才だ。ただ、本作では今まで一貫してきた恋愛ドラマを少し脇に置いて、20年以上のキャリアで初めて男女の結婚と言う普遍的なテーマを取り上げた。
映画『82年生まれ、キム・ジヨン』がテーマとして掲げる、女性としての生き方の是非を問う昨今、本作『逃げた女』もまた、婚姻と言うキーワードを通して、女性としての在り方を問う現代の社会問題にマッチしたタイムリーな作品だ。
タイトル『逃げた女』は、一体何から逃げてきたのか?それは、本編を観れば分かることだが、主人公の女性はまったく逃げていない。むしろ立ち向かった勇気ある人物として描かれている。ホン・サンスは本作にて、芯の通った女性像を映像に刻みつけてくれた。
映画『逃げた女』大阪府のシネ・リーブル梅田、京都府の京都シネマ、兵庫県のシネ・リーブル神戸にて、現在上映中です。 また、全国でも絶賛公開中です。