コンプライアンスの超越者。ドキュメンタリー映画『落語家の業』

私達は産まれたその瞬間から、罪穢れを背負って生きて行かないといけない生き物だ。産まれたてのの頃は周囲から天使のように可愛がられるが、その内情は前世、宿命で課される不浄の極致をうんざりするほど人生の責務を負って生きる道を与えられる。それが、私達人間が持って産まれた人間の業なのかもしれない。私には、僕には、自分には罪穢れは関係ない。持っているのは穢れのない心だけで、人生の業など持ち合わせていないと大言壮語する人間にこそ、生来の罪咎を持っていると言える。誰もが宿命の不浄を持っており、その穢れを洗い落とす事はできないが、もしできるとするなら、2種類のアプローチがある。一つ目が仏教的哲学的アプローチであり、2つ目が心理学的アプローチだ。その内訳には、仏教や哲学の場合(※1)、善行を積む(積善)、懺悔と反省、欲望をコントロールする、感謝と利他の心、教えを学ぶ。この5項目の行動が必要とされる。心理学的アプローチの場合、自己受容と許し、感情のアウトプット、マインドフルネスと呼吸法、行動の変化の4つの心理的行動が鍵となる。私達は常日頃から生きている間に善徳を積み、常に懺悔と反省を繰り返し、感謝と利他の心を忘れなければ、身体に染み付いた業は必ず洗い流し落とせる。ドキュメンタリー映画『落語家の業』は、落語家・快楽亭ブラックの生き様を描いたドキュメンタリー。人間誰しも何かしらの業は持っており、今回偶々、落語家の業がクローズアップされたが、サラリーマンの業、営業マンの業、主婦(主夫)の業、医者の業など、様々な職業に当てはめる事ができる。人は皆、人間としても労働者としても、不可視の悪業を手にしている。
落語家・快楽亭ブラックとは、一体どんな人物か気になるだろうが、本作が快楽亭ブラック本人の人となりを丁寧に捉えている。2代目快楽亭ブラックを襲名する迄に、16回も改名している。破天荒な振る舞いや艶談や不謹慎ワード満載の新作落語を行う一方、古典落語も得意とし、幅の広い落語を見る事ができる。彼が2代目を襲名する迄、初代の快楽亭ブラック(※3)は1876年から死没する1923年まで活躍したヘンリー・ジェイムズ・ブラック(帰化後は石井貌剌屈)。初代から引き継ぎ2代目として「青い目の落語家」と呼ばれた落語家・快楽亭ブラックは、落語家として長い間、異才の存在として落語界で活動を続けたが、ある一定期間、彼の人生において影を潜めた時期があった。それが、幼少期から学童期の頃だろう。映画では、幼い頃に私生児として差別やいじめを受けた快楽亭ブラックこと福田秀文少年が救いを求めたのが映画館や芸術だった。本作での快楽亭ブラックを紹介する上で、映画館がモンスターを生み出したと言うが、私は社会の偏見や差別、無教養が彼を影のモンスターに仕立て上げたが、彼を落語家や映画評論家として救ったのが映画そのものだったと思えならない。幼少期の映画体験こそが、今の快楽亭ブラックを生み出したのではないだろうかと?今でこそ私生児差別(婚外子差別)(※4)は影を潜めたが、彼が少年だった頃の日本はまだまだ無教養の日本人も多く、酷い差別やいじめが存在していのは事実だろう。時代は違えど、平気で人を差別し偏見を持つ人間が日本にいる事に憤りを感じる。快楽亭ブラックが過ごした1960年代は、世界のどこでも、人種差別が横行(※4)し、彼もその時代の犠牲者の一人であった。その一方、混血児差別に抗いながら、映画と言った新興芸術や落語家と言った伝統芸能によって人生や心が当時の少年が救われたのであれば、時代を越えて、今だからこそ人々に必要な分野だ。
文化芸術が人の痛みを救い、人の人生にどう影響を与えるのかと問われれば、その影響力を測る事は難しい。人によって、どのように作用が及ぶのか考えたい。心の内面を言語化するのは非常に難しく、今立たされている現状や窮地を言葉にする事は容易いものではない。心理学において、美や芸術が世界を人を救うか、実験で立証しようとする動きも見られる。「現代のポップカルチャーにおいても内面の表現が外界へと投影され、多くの作品が生み出されています。多様性の尊重がテーマとなっている現代では、異なる年齢や性別、国籍や人種への理解を促して、互いの連携を目指す潮流があります。この流れはSNSなどのメディアを通して大きなうねりとなって広がり、個人の価値観に影響を与え、結果として我々の内面に変化を及ぼします。」(※5)とあり、文化や芸術を通して、心の内面を露呈させる。今では、SNSと言ったソーシャルネットワークやサブカルチャーが、古来からある文化芸術の代わりの媒介となるものが時代が進みにつれ増えて行く。美術や文化、伝統が人の心を感動させ、心振るわさ、揺さぶるような体験をしてもらえる存在こそが伝統芸能や新興芸術の極みだ。たった一枚の絵画、一枚の写真、一曲の音楽、ひと作品の映画(※6)が人の人生を左右させると考えたら、芸術がこの世に存在する価値の重みについて再度認識させられるだろう。幼少期の福田少年を芸術の世界に誘った映画館の暗闇は、人生を明るくさせる為の光であるなら、文化や芸術そのものは人生の道標になる。暗く閉ざされた道の先の向こうに、映写幕のような真っ白なキャンバスの向かえる。落語だって同じであり、幕が開いた舞台上の真ん中に座って落語で人々を笑わせ明るくさせる噺家達の存在そのものが人に何かしらの影響を与え続ける。ドキュメンタリー映画『落語家の業』を制作した榎園監督は、あるインタビューにて本作の被写体になっている落語家・快楽亭ブラックについて、こう話す。
榎園監督:「こうした人生のドラマチックな場面において、周囲にいた者が撮った映像が残されていた。ブラック師匠は『70年間、映画を見続けたあっしへの映画の神様がくれた贈り物』とコメントしていて、この一言に尽きると思います。日本の伝統芸能の中に『二代目快楽亭ブラックという落語家がいた』ということ。その一代記を後世に残したい。」(※7)と話す。快楽亭ブラックは、「70年間、映画を見続けたあっしへの映画の神様がくれた贈り物」という言葉を残している。やはり、映画や落語が快楽亭ブラック自身の人生を救ったと言っても過言ではないだろう。快楽亭ブラックという人物を生み出したのは劇場の暗闇ではなく、スクリーンに投影された数々の日本映画のワンシーンだろう。映画は下手をしたら破滅的な人生を生み出す一方で、婚外子で差別を受けて来た一人の少年を落語の世界へ誘う不思議な力を持っている。
最後に、ドキュメンタリー映画『落語家の業』は、落語家・快楽亭ブラックの生き様を描いたドキュメンタリーだが、一人の落語家の姿を追っただけの作品ではない。人間誰もが持って産まれた「業」は、必ず洗い流せる。本作の被写体となっている落語家・快楽亭ブラック師匠の生き姿を目に焼き付け欲しい。落語としての「業」があっとしても、それを洗い落とす姿が目に見える。爆誕級の「黒宝」だと言われているが、私の目には過去のカルマを払拭させる程の輝きを放っている。人は、長い年月をかけて磨きに磨きをかければ、趣味も仕事になるように、快楽亭ブラック師匠が落語家として磨き続けた結果、今では「国宝」級の存在だ。たとえ、それを国が認めなくても、作品が「国宝」であるかどうかを証明してくれている。身体や魂にこびり付いたカルマや宿命をかなぐり捨て、今ではその輝きを持ってして、カルマを背負って生きて来た人々の人生を「落語」という日本古来の伝統芸能で明るくする不思議なパワーを持った「国宝」級の存在だ。

ドキュメンタリー映画『落語家の業』は現在、全国の劇場にて公開中。
(※1)カルマとは? スピリチュアルな意味と解消する方法を解説https://woman.mynavi.jp/article/251029-8/(2025年1月6日)
(※2)カタルシス効果:心と社会の浄化の力学https://smartcompanypremium.jp/column/katharsis-effect/#:~:text=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%A6%82%E5%BF%B5%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%A8%E5%8F%A4%E5%85%B8%E7%9A%84%E5%AE%9A%E7%BE%A9(2025年1月6日)
(※3)「青い目の落語家」初代快楽亭ブラックhttps://cyco-o.com/aoi-me-no-rakugo/(2025年1月6日)
(※4)嫡出子と嫡出子でない子の違いについてhttps://asahichuo-tax.jp/article/1619/(2025年1月7日)
(※5)「美は世界を救う」を心理学で実証した(2025年1月7日)いhttps://academist-cf.com/fanclubs/358?lang=en(2025年1月7日)
(※6)一枚の絵が魂を救うということ。 https://artkururi.com/?p=5596(2025年1月7日)
(※7)破天荒な男・快楽亭ブラックを描く映画「落語家の業」公開、監督が明かす裏話、ゲストに立川志らくも登壇https://news.livedoor.com/article/detail/30190217/(2025年1月7日)