あなたは、最悪に、熱狂する映画『ファイナル・デッドブラッド』


私達は、追って来る死の運命から逃げ切る事ができるのか?どっちに転ぼうが、人間は必ず死ぬ生き物でもある。短命の人もいれば、長寿の人もいる。個人差はあるが、遅かれ早かれ、必ず死は訪れる。その運命は、誰にも断ち切る事はできない。どれだけ逃げ隠れしても、死は確実に人を死歿の闇に引きずり込む。これは、生死を賭けた生きるか死ぬかの運命のデス・ゲーム。どんな死に方をしても、文句は言えない。死に方に関しても、選ぶ事はできない。ある日突然、恐ろしい死に方で死は襲いかかって来る。串刺し?バラバラ?首チョンパ?全身炎で火炙り?胴体真っ二つ?爆発に巻き込まれる?事故での死に方は、千差万別。後腐れなく死にたくても、それを許してはくれない。アメリカにおける死生観は、キリスト教に根ざした「死後の世界」への信仰心が根強く残っている。基本的に、死を語ることを避ける傾向がある一方、生前からの「エステートプランニング」という財産承継の文化があり、死を恐れないアメリカ先住民の思想など、多様な側面を持つ。一般的に、個人の生前の意思を尊重する傾向があり、死を「永遠に若さを保つ」ことへの執着や、死後の「永遠」を信じるキリスト教的価値観に影響されている部分が大いにある。また、現世での行いが死後の行き先を左右するという考え方が一般的と言われており、酷い死に方、惨い死に方をする人が居れば居るほど、その人の前世の業や生きていた間の人としての振る舞いがどうだったのか気になる所だ。もしかしたら、死ぬべくして死ぬ行く運命の者たちが、死に追いかけられているのかもしれない。映画『ファイナル・デッドブラッ』は、予知夢によって大事故を回避した若者たちが、逃れられない死の連鎖に巻き込まれ、無残な死を遂げていく姿を描くホラースリラー。あなたは、予知夢(※1)を信じるか?正夢という言葉があるが、夢で見た出来事が実際に起きると信じるか?

この物語の恐ろしい所は予知夢だけでなく、まるで死神に追われるように死の連鎖が続く事。どれだけ逃げようとしても、必ず死は対象者を捕まえる。その方法は、あまりに痛々しく、無惨で残酷なほど。即死となる事故死ならまだ感謝したい程だが、それが時に死の恐怖と事故の痛みに耐えながらジワジワと死に行く運命に為す術もない人間の有り様に絶望感を味合わせられる。エレベーターの機械に巻き込まれて細切れにされ、プールの排水溝に吸い寄せられて吸水力によって内臓を引き抜かれ、病院のMRIの機械が磁気を発して身体の至る所にあるピアスが引っ張られ最後に車椅子諸共、生きたまま機械の穴に引きずり込まれたりと、その残虐性は拷問以上の痛みと苦痛を死ぬまで味わう。けれど、ほのすべてが偶然の事故の先にある死であり、どこで何が起きるのか誰も予想もできない事故死ばかり。飛行機、ハイウェイ、遊園地、サーキット場、陸橋など、街の至る場所にある施設に偶然居合わせた若者達が、死の運命に翻弄される姿に自身と重ねていただろうが、今回はよりミニマムな家族間や親族間で死の連鎖が動き始める。50年前の祖母の代から代々続く負のスパイラルは、死神によって呪われた先祖から末裔までの恐怖が、今まで他人同士だった出来事にも関わらず、今回はより親密な関係性にヒヤヒヤさせられる。実際、悪魔や死神は存在(※2)するのかと、この物語を観て感じる事もあるが、本当は存在しない。黒いフードに、骸骨の男が片手に大鎌を持つデフォルトは、私達人間が生み出したキャラクターであり、ルシファーもまた架空の死神だ。キリスト教の教えでも、日本の神道の教義であっても、死神も悪魔も存在しない。では、なぜ私達は何に怯えているのだろうか?それは、人生の終焉に訪れる「死」そのものが悪魔の化身であり、私達自身が生み出した恐怖に追われているのだ。でも、死神という概念は宗教的側面だけでなく、私達の日常生活にも潜み、私達の足元を掬おうと常日頃から狙っている。たとえば、会社でリストラに遭遇した場合はリストラの死神(※3)が社員の隙を狙っている。その会社でのリストラサバイバーになるには、死神からロックオンされた状況を打破するしか道はない。足元を掬われるという点で言えば、某アイドルグループのメンバーが東京の繁華街で公然わいせつ罪で捕まった事件(※4)では、後に衣類を隠されて探している様子であったと認識されつつあり、あれは公の場で露出していたのではなく、誰かに嵌められた可能性があり、人気を妬んだ誰かによって仕掛けられた罠だったという見方がされている。魔の手は、いつどこで牙を剥くか分からない。死神は、至る所で姿形を変えて、私達の隙を狙う。それが、偶然にも「死」というだけであり、その「死」に隠された真実は、私達が日々過ごす日常の中に見え隠れする。死ぬ時の一番良い死に方は事故死や病死ではなく、自然死が何の後腐れなくて良い。たとえば、夜布団に潜ってグッスリ眠って、朝を迎えたら寝ているように亡くなっている事が生きていく上で最も望ましいだろう。人が死ぬ前に送る合図(※5)には、3つあると言われている。まず、血色が悪くなり肌が黄色く見える。そして、「死前喘鳴」と呼ばれる痰の絡んだ息をする。最後に、お迎え現象として幻覚や幻聴を起こり始めたら、本当に最期と言われる。この3つのサインが、死ぬ直前の人が最後まで生きようとする生存確認なのかもしれない。人は最後の最後まで、未来を生きたいと生に執着する生き物だが、唐突に訪れる死には抵抗する事なく散って行く。

この作品のシリーズは、死に方のグロさが際立っているが、実はこの死に方にこそ、アートがあり、美学があり、哲学があるのかもしれない。死に方がアート、死に方の美学、死に方が哲学的と言われると、少し不謹慎に聞こえるかもしれないが、シリーズの中で描かれる死に方に対して、瞬時に重い物が倒れて来て即死の場合より、何らかの事故によりジワジワと長く苦しむ死に方の方が芸術点は高い(特に、今回は病院内でのMRIの磁気が危険指数まで爆上がりし、機械の空洞の中にゆっくり吸い込まれる人間の姿がアート的である)。100人の人いれば、100通りの死に方があり、100人分の死に方への願望がある。人が、どんな死に方を望むのかは、人によって様々だ。老衰の果てにベッドで静かに息絶えたいか。ある日突然、何らかの突発的な病気が発生しのたうち回って死を遂げたいか。もしくは、道を歩いていて猛スピードで走る危険暴走の自動車に跳ね飛ばされて死にたいか。死に方は、その時によって様々であり、人が望むその通りの死に方は必ずできない。穏やかに死にたいと願っても、苦しみながら病死で死ぬ人。自死を願い続けても、自殺では死ねず長生きした結果、温かいベッドの上で静かに息を引き取る人など、自分の願い通りに死ねないのが世の常だ。普段、事故のニュースは毎日頻繁にテレビの報道番組で目にするが、その事故の詳細は曖昧な表現で濁されている。たとえば、事件事故の犠牲者を表現する場合、軽傷、重症、重体なんて言葉を目にする事があるが、この一言だけではどのくらいの怪我の程度か分からない。全治1日から全治不能までを表現するのに、この度合いの表現がちょうどいい。ただ軽傷と言っても軽い怪我という程度ではなく、軽傷はおよそ全治1ヶ月の重症だ。では、軽傷の度合いが1ヶ月程度であるならば、重症重体ならもっと怪我の度合いが酷いと予測できる。でも、テレビで表現できる事故の悲惨さは視聴者側にはほぼ濁されて伝えられている。実際の事故現場は悲惨であり、生々しい現場の状況を放送の電波に乗せて伝えるのは非常に不謹慎である。では、実際の事故にあった人の死に方は、どんな死に方なのか?たとえば、電車に飛び込んで轢死した人の遺体は、バラバラという事実は周知のことではあるが、火葬場で働く人の話(※7)ではバラバラ遺体に小石がくっ付いて運び込まれて来ると話す。他にも、動物に襲われて森の中で見つかった遺体は、損傷が激しく身体の胴体部分すべてを動物に食べられて、残ったのは顔だけという現実もあるが、ニュースでは生々しすぎて伝えられない現状がある。近年、動物によって襲わられる事件が数多く起きており、昨日岩手県では宿泊施設に勤める清掃係の男性従業員がクマに襲われた被害(※7)が報告された。また近頃、問題視されているのは、持ち運びできるハンディファンやモバイルバッテリーによる発火事案だ。最近起きた事故では、京都府のJR京都駅前のホテルにて、深夜に宿泊客が持ち込んだモバイルバッテリーが突然発火し、泊まり客数千人が一時期、ホテルの外に避難する出来事(※8)が起きたばかり。クマの問題に関しては、実害が何件も報告が上がっており、早急に解決しないといけない問題であり、いつ何時、誰が襲われてもおかしくない状況にある。また、モバイルバッテリーによる火災事案はまだ人への実害が出ていないものの、鉄道の駅の電光掲示板には既に注意喚起が流されており、社会問題として表面化している。そんな中、私達は普段生活するこの世界にいるが、ちょっと生活の落とし穴や罠が至る所に張り巡らされており、どんな状況下で不慮の事故やアクシデントに巻き込まれても文句の言えない状況にあり、この映画で語られている日常の中に潜む死は究極の死であったとしても、私達が現実に暮らす世界でも度合いは違えど、必ず大なり小なり思わぬ事故に遭遇する。そんな時、世間に問いたいのは、どんな死に方を望んでいるのか?あなたが想像する理想の死に方について、あなたなりの答えを探して欲しい。突発的な事故に遭い惨い死に方を選ぶのか、最後まで生にしぶとく固執し、老衰の果て寝たまま息絶えるか。あなたの理想の死に方.comを死ぬまでに頭の中でシミュレーションして欲しい。様々な死に方があると理解した後に、逃れられない死を退避できる日が必ず訪れるだろう。映画『ファイナル・デッドブラッド』を制作したアダム・スタインとザック・リポフスキー両監督は、あるインタビューにて本作の脚本や運命について聞かれ、こう話している。

スタイン監督:「(もともと)脚本には、彼が「俺は引退する。残された時間を満喫するつもりだ」と言うシーンがあったのですが、実際に彼と撮影しているうちに、あの瞬間をうまく捉え、ここで実際に起こっていることの重みを伝えるには、それだけでは不十分だと感じたんです。そこで、彼に「トニー、これは一体何を意味しているんだ?『ファイナル・デスティネーション』のあれこれって一体何だったんだ?ファンに向かって、人生と死とは何かを語ってもいいかな?」と、心から話してもらえるかと尋ねました。映画の中のセリフは、トニーがファンに直接、心の中で言いたかったことを即興で表現したもので、だからこそ力強い作品になっているのだと思います。 」

リポフスキー監督:「それは間違いなく、運命に対する誰もが抱く普遍的な感情と繋がっています。運命とは、どんなことをしてもいずれは死ぬという、私たち皆が交わした約束のようなものだと思います。そして、人生において、いずれ死が訪れるという考えにどう向き合うか、多くの不安を抱えています。そして、これらの映画には非常にユニークな点があります。冒頭で登場人物に死が訪れるものの、その後彼らはそれを逃れるのです。彼らは約束を破ります。彼らは今、私たち皆が普遍的な真実として受け入れている何かを逃れたかのように、自由に人生を送っているのです。そのため、彼らは本来死ぬはずだったのに死なず、今や借り物の時間で生きているので、死が訪れるのは当然のことのように感じられるのです。観客は死が自分たちに降りかかる様を楽しめるようになります。なぜなら、それが公平だからです。これは、人々をただ拷問し、基本的に悲惨な理由で死なせるのを見るだけの、いわゆる「拷問ポルノ」とは違います。この映画の場合、それはまるで宇宙の法則を正すようなものです。つまり、この映画は楽しみへの扉を開き、人々が日常生活で抱える不安や思考を、狂気じみたレベルまで増幅させて体験させてくれるのです。つまり、不安を持つことは、実はある意味、許容できるものだと受け入れさせてくれるのです。なぜなら、普段の生活では、常に自分に「不安になるな」とか「不安は自分の悪い部分だ」と言い聞かせているからです。しかし、この映画では、不安が実に見事な形で生き生きと描かれ、不安を楽しむことができるほどです。それは人々にとって、ある種の安らぎとなるのです。映画をもう一度観直していただければ、特に全編を通して取り入れているもうひとつの視覚的なメタファー、「Circles Kill(円は殺す)」というコンセプトを気に入っていただけると思います。これは、映画のほぼすべてのシーンで死が円として表現されていることを意味します。冒頭のシーンの塔は円です。ダンスフロアも円です。目の虹彩も円です。MRI装置の内部も円です。ペニー硬貨も円です。映画全体を通して、私たちはこれらの円を中心に配置し、ある種の「死の表現」のシンボルとして扱いました。円はまた、始まりから終わりまでずっと巡っていくことも表しています。死の循環的な性質は、そこから逃れたと思っても、必ず死がやって来て、未解決の問題を解決してくれるということです。」(※9)と話す。私達は、運命や宿命に翻弄されながら、生きている。死という運命には、逆らえる事ができるのか?もしかしたら、産まれたその瞬間は、何人にも、どのタイミングで息を引き取るのか、運命が決まってしまいっているのかもしれない。死神は、暗闇の中から魔の手を手招き、死という暗黒の彼方に私達を引きずり込もうとする。何度も何度も死の運命から回避できたとしても、私達はその死の恐怖から逃れる事はできない。この手で運命を変えるのは、あなた自身の行いだ。

最後に、映画『ファイナル・デッドブラッド』は、予知夢によって大事故を回避した若者たちが、逃れられない死の連鎖に巻き込まれ、無残な死を遂げていく姿を描くホラースリラーだが、単なるグログロホラーではない。死と隣り合わせにいる私達にとって、この映画は死という存在がどんな存在なのだろうかと、考えるきっかけになるだろう。日常の生活に潜む死の恐怖は、何気ない日々の連続から始まる。映画には、あるメタ的要素があると両監督は話す。それは、至る場面に登場するサークル(円)だ。その要素が示すものは、死に対するサークルやサイクルだ。私達は、輪廻転生されるように作られた生物であり、死は必ず巡り巡って、どんな人間にも備えられたルーティンとしてのサイクルを天から授けられている。こういう死に関する皮肉と皮肉が複雑に絡み合った時、何が起きるかと問われれば、それはただ一つだ。面識はないが、この作品がちょうど一週間前に封切りされたその日、映画業界の映画宣伝ウォッチャーと名乗る某関係者(※10)が、突然の急死を遂げた事にある(R.I.P)。彼は、「観たい映画があるから」と出掛け、その帰路の途中に体調を崩して帰らぬ人となってしまった。この方が観たかった映画こそ、本作『ファイナル・デッドブラッド』だ。SNSにて、「『ファイナル・デッドブラッド』鑑賞。怖いッ!もうやだッ!ガラス張りの床がある高層タワーも道具の置き方が雑な庭も病院のMRIも近づきたくない!死のピタゴラスイッチがいつ発動するかわからない!家から一歩も出たくないッ!と怯えまくる109分。最高でした。」と感想を綴っていたが、「家から一歩も出たくない」と怯える素振りを見せた投稿の後、実際に外出先で息を引き取ったのは皮肉な事だ。1作目の『ファイナル・ディスティネーション』が公開されてから25年が経つが、この25年間にも及ぶ死神の死の運命に長期間囚われ続けた25年後の今、何かしらの見えない運命によって囚われの身になってしまったのだろう。死は、必ずやって来る。死は、必ずあなたをホールドする。逃れられる運命なんてない。避けられる宿命なんてない。死は必ず、あなたの人生に訪れる。

映画『ファイナル・デッドブラッド』は現在、全国の劇場にて公開中。
(※1)予知夢や正夢の正体は、人に備わる「認知バイアス」https://www.nishikawa1566.com/column/sleep/20230405191429/(2025年10月15日)
(※2)悪魔や死神は実在するのか?これらはどういった存在なのか?ルシファーなどについても解説https://genhou-akaisora.com/akuma-shinigami/(2025年10月16日)
(※3)リストラで死神につかまる人、見逃される人外資系の「生き残り術」に学べ!https://toyokeizai.net/articles/-/62945?page=2(2025年10月16日)
(※4)【公然わいせつ容疑で逮捕】Aぇ! group草間リチャード敬太の知られざる経歴。涙の謝罪で世間の反応が“一転した”ワケhttps://nikkan-spa.jp/2123438(2025年10月16日)
(※5)現役看護師の僧侶が語る、「死の1カ月前」頃から起こる3つのことhttps://forbesjapan.com/articles/detail/35442(2025年10月16日)
(※6)じつは「老衰死」は悲惨…医師たちが「死ぬなら、がん」と口を揃えて言う「意外なワケ」https://gendai.media/articles/-/103607?page=1&imp=0(2025年10月16日)
(※7)「電車事故のご遺体は、バラバラになった身体に小石が混ざっていた」“顔だけ”の遺体を火葬したことも…元火葬場職員が明かす、損傷が激しい遺体を火葬する難しさhttps://bunshun.jp/articles/-/77424(2025年10月16日)
(※7)クマ被害の男性従業員か、遺体発見 岩手・北上https://www.sanspo.com/article/20251017-OWPFLQIOOFMMDFFG4AFIS26AMU/(2025年10月17日)
(※8)JR京都駅前ホテル火災 モバイルバッテリー発火か 約2千人宿泊、一時避難 けが人なしhttps://www.sankei.com/article/20251006-UAB3K234CVO5TP4PGV6QQBB6QI/(2025年10月17日)
(※9)Enjoy Every Second: Adam Stein and Zach Lipovsky on “Final Destination Bloodlines”https://www.rogerebert.com/interviews/final-destination-bloodlines-dvd-interview(2025年10月17日)
(※10)映画評論家ビニールタッキーさんが死去 妻が報告「見たい映画があると東京に…緊急搬送され」https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2025/10/11/kiji/20251011s00041000192000c.html?page=1(2025年10月17日)