ドキュメンタリー映画『何も知らない夜』何も知らないという無知

ドキュメンタリー映画『何も知らない夜』何も知らないという無知

インドの社会の問題を炙り出すドキュメンタリー映画『何も知らない夜』

©Petit Chaos – 2021

©Petit Chaos – 2021

カースト制度に阻まれて、多くの若者や女性が命を落とす。本当に、今の世の中に、このカースト制度は必要か?日本では、古代に良民と賎民という二つの身分があったとされる。一度、中世には身分制度が消滅したが、近世の江戸時代には、武士、農民、町人、そして被差別身分である穢多・非人という身分制度が確立された。次世の明治時代で、この身分制度は廃止され、四民平等が導入されたが、市民間における社会的差別は完全には解消されなかった。今でこそ、身分間の差別は無いと言われているが、人々の意識の中には無意識として差別意識は残っているだろう。数百年前に制定された身分階級に対する差別が未だに残る日本を考えると、21世紀の今の世にカースト制度が是認されているインド社会は、これからの何年先に渡り、この身分階級に対する差別が消えずに残り続けるのか誰も検討できないだろう。カースト制度によって、自由に生きられない今の若者達にとって、この仕組みは単なる手枷足枷に過ぎない。重い枷によって、人生も生活も権利も選択肢もすべて、奪われる環境。誰のための身分制度であり、カースト制度が分からない。一方的に、身分の棲み分けを行い、多くの人々を苦しめる桎梏に過ぎない。ドキュメンタリー映画『何も知らない夜』は、かなわぬ愛の物語と記録映像を通じて、インドの社会の問題を浮き彫りにした斬新なドキュメンタリー。権力や古い風習によって、束縛されている人間は世界中、どこにでもいる事を忘れてはならない。

©Petit Chaos – 2021

インドのカースト制度は、ヒンドゥー教の社会階層に基づく身分制度を指す。大きく分けると、バラモン(司祭)、クシャトリヤ(王族・武士)、バイシャ(商人)、シュードラ(隷属民)の4つのヴァルナ(階級)に分かれている。更に、その4つの階級の下には、不可触民であるダリット(アウトカースト)が存在する。この制度は、生まれながらにして、誰もが身分を決められていて、職業や結婚、生活様式などが制限される。この階級問題が、差別や不平等の温床となっている。もう少し細かく、カースト制度について触れてみると、ヴァルナ(階級)には、4つの身分がある。知識階級や宗教指導者としての役割を担う司祭階級を指すバラモン。王族や武士階級、政治や軍事を司るクシャトリヤ。商人や農民などの生産者階級を指すバイシャ。隷属民階級で、上位カーストの人々に仕えるシュードラ。さらに細分化した職業や血縁に基づいた集団のジャーティ(जाति)。カースト制度の外側に位置し、最も低い身分とされ、厳しい差別を受けて来たダリット(不可触民)(※1)。カースト制度によって引き起こされる影響には、①差別と不平等、②留保制度 (Affirmative Action)(政府は留保制度(アファーマティブ・アクション)を導入し、下位カーストや不可触民の地位向上を図る運動)、③現代社会への影響(地方や農村部では、カースト意識が強く残る)、④宗教との関係(ヒンドゥー教の教義と深く結びついており、カースト制度の否定は、ヒンドゥー教の教義そのものの否定に繋がると懸念されている)。カースト制度の起源は、紀元前インドでアーリア人が先住民を征服し、肌の色で差別したことが始まりと言われている。また、カースト制度における未来は、完全に消滅する事ではなく、形を変えながら、これからの未来に存続する可能性が高いと考えられている。都市部では、変化が見られる一方、インドの地方都市や結婚の習慣など、ある分野では依然として影響力が強く、根強く残り続けると言われる。

©Petit Chaos – 2021

このカースト制度に対して、2016年にインドでデモが発生した。グジャラート州で、高カーストの男性がダリット(不可触民)と呼ばれるカーストの若者を殴打した事件が発生し、これがダリットコミュニティの怒りに火を付け、大規模な抗議デモ(※3)が勃発した。この事件は、カースト制度に基づく差別や暴力が依然として根強く存在する事に対する不満が爆発した結果として起きた。ダリットへの差別が大きな要因があるが、最も差別的な原因として、ダリットは人手による汚物処理(マニュアルスカベンジング)(※4)を強制される事が多い。これはカースト制度に基づく差別的な慣習として批判されている。他にも、農業改革法案を巡る大規模な抗議デモ(※5)が発生したのも同じ年。この法案は、農産物の取引自由化を目的としていたが、農民からは不信の声が上がり、全土でゼネストやデモが起こった。特に、首都デリーでは、農民と警察の衝突も発生し、死傷者も出る大規模なデモ活動になった。2016年以外にも、インドでは様々なデモが発生している背景がある。CAA(市民権改正法)を巡るデモでは、2019年末から2020年初頭に、イスラム教徒以外の不法移民に市民権を与えるCAAを巡るデモが発生し、賛成派と反対派が大きく衝突した経緯がある。また、インドでは様々な社会政治問題を巡って、多くのデモが発生している。作品タイトルの「何も知らない夜(原題:A Night of Knowing Nothing)」の「何も知らない」とは、もしかしたら、インドの社会的背景を一つも知らない日本人はじめ、世界中の人々に向けて「無知」である事に対する戒めの意味合いが込められているのかもしれない。ドキュメンタリー映画『何も知らない夜』を制作したパヤル・カパーリヤー監督は、あるインタビューにて映像から産まれたアイディアや悲しみ、怒り、喜びの感情の底流が強調されている点について聞かれ、こう話している。

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カパーリヤー監督:「当初、この 映画は FTIIを中心とする予定でした。友人たちへのインタビューでは、愛という話題が頻繁に出てきました。カーストの違いやその他の問題で、一緒にいたい人となかなか一緒にいられないという難しさです。皆、早く結婚しなければならないというプレッシャーについて語っていました。ですから、愛というテーマ、その複雑さ、そして私たちの社会に存在するバラモン教が、インタビューを通して伝わってきました。しかし後になって、攻撃を受けている公共機関についても語らなければならないことに気づきました。それが、私たちのビジョンの変化です。ジャワハルラール・ネルー大学で行われた授業料値上げ反対の抗議活動の映像をさらに撮影し、友人たちからストーリーや映像をもらいました。また、アーティスト集団が運営するアーカイブウェブサイト「Pad.ma」で偶然、素晴らしいアーカイブ資料を発見しました。キュレーターのスメッシュ・シャルマ氏が撮影したもので、彼の祖父のホームビデオです。こうして2019年までに、過去5年間の膨大なアーカイブが集まり、私たち自身の映像さえも発見されたかのように感じられるようになりました。長い年月が経ち、私たちは人間として大きく変化しました。そこで、ファウンド・フッテージ 映画のアイデア が生まれました。ナレーションとアーカイブ映像の制作に取り掛かるうちに、階級に関する興味深い考察や批判も浮かび上がってきました。これは、人によって捉え方が異なるかもしれません。これまではあからさまに政治的な映画は作らず、静かでゆっくりとした映画を作ってきました。その感性は 『A Night of Knowing Nothing』にも引き継がれていると思います。時系列に沿った映画は作りたくないと常に思っていました  。この5年間、いかに感情的だったかを表現しようとしていました。私たちは次から次へと出来事が起こり、Facebook上でも、目の前にも、恐ろしい映像が次々と流れてきました。感情を抜きにしてそれらに向き合うことはできないと思いました。また、 終盤 のシーン(学生に対する警察の取り締まりのシーン)を、どこか別の場所で、別の時代に起こっていることとしてではなく、そこにいる人々との繋がり、共感、愛情を感じてもらえるように、映画を作りたかったのです。」(※6)と話す。カパーリヤー監督は、親友へのインタビューや学生達によるデモ活動を通して、この世にある「愛」とは何かを模索した。その模索したものが、本作の映像として現れたものであるなら、この映画は愛の結晶のなせる技。生きる事も、デモを起こす事もすべて、私達の生活の基盤には「愛」という目には見えない力こそが、原動力となっている。

©Petit Chaos – 2021

最後に、ドキュメンタリー映画『何も知らない夜』は、かなわぬ愛の物語と記録映像を通じて、インドの社会の問題を浮き彫りにした斬新なドキュメンタリーだが、単なる美的センスに熱せられた芸術作品ではない。そのアート性の奥に隠されているものは、社会の中に蔓延る矛盾や抑圧、権力に対して毅然とした態度で向き合った熱き若者達の生きた証が刻まれる。私達は、その声なき声に耳を傾け、抑制された弱き者達の存在を認めなければならない。カースト制度もデモ活動もすべて、インド人達の心の叫びを表現している。いつの時代にも権力によって虐げられる人々がいるのであれば、私達は救いの手を差し伸べるべきだ。「何も知らない夜」は、世界を何も知らない無知な私達を象徴している。いつか、「すべてを知っている夜」になるように、今私達ができる最大限の事をしよう。

©Petit Chaos – 2021

ドキュメンタリー映画『何も知らない夜』は現在、全国の劇場にて公開中。

(※1)インドのカースト制度とは?進出・経営への影響や他のメリットについてもhttps://bharat-hub.com/indian-caste-system/#:~:text=%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89,%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%8C%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%80%8D%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82(2025年8月11日)

(※2)カースト制度ってどんな制度? インドにおける身分制度の考え方【親子で世界を学ぶ】https://hugkum.sho.jp/458367#:~:text=%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%81%AF%E7%A6%81%E6%AD%A2,%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%9B%E3%82%93%E3%80%82(2025年8月11日)

(※3)インドの暴動、指導者が抗議活動中止に同意https://www.reuters.com/article/opinion/-idUSKCN0VW0E4/(2025年8月12日)

(※4)インド:カースト制度が強いる生業としての排泄物清掃https://www.hrw.org/ja/news/2014/08/25/254956#:~:text=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%81%AF%E3%80%81%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%A7%A6,%E5%87%A6%E7%90%86%E3%82%92%E9%81%95%E6%B3%95%E5%8C%96%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82(2025年8月12日)

(※5)インド首都で農家と警察が衝突 農業新法に反発https://www.bbc.com/japanese/55821241#:~:text=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%A7,%E3%82%92%E6%8B%92%E5%90%A6%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82(2025年8月12日)

(※6)Interview: Payal Kapadia on A Night of Knowing Nothinghttps://www.filmcomment.com/blog/interview-payal-kapadia-on-a-night-of-knowing-nothing/(2025年8月13日)